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卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!

2023-01-01 00:00:20 | 古代史
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明けましておめでとうございます。本年もおつきあいのほど、どうぞよろしくお願い申し上げます(#^.^#)


ネットで日本三大円墳とは!?という記事が配信されたので、卑弥呼の径百余歩=約150mの巨大円墳が分かったのかと興味を持ちました。しかし、記事を見ると以下の三つの円墳のこととされていましたから、がっかりしました。残念!(;´Д`)

世界各地で築かれる円形の墳墓、円墳。日本国内では奈良市の富雄丸山古墳の直径109mが最大で、以下、埼玉県行田市の丸墓山古墳、茨城県大洗町の車塚古墳と続きます。丸墓山古墳は、巨大な前方後円墳が並ぶ埼玉古墳群で唯一の円墳で、なぜひとつだけ円墳が築かれたかは、謎です。

そういえば、もう1年も前ですが、富雄丸山古墳のことがYouTubeに流れていたので、コメントしたことを思い出しました。ちょっと、突っ込みを入れられたので、こっちもジョークで返したことを思い出しました( ^)o(^ )


奈良市動画チャンネル
チャンネル登録者数 9430人 100,981 回視聴 2021/03/05
奈良市西部にある富雄丸山古墳は日本最大の円墳として注目を集めています
富雄丸山古墳の発掘調査の様子などを動画で紹介します


刮目天 1 年前
日本最大の円墳は径百余歩(直径約150m)の卑弥呼の墓ですよ。宇佐市安心院町三柱山に在りました。詳しくは「古代史の謎を推理する(^_-)-☆」をご参照ください。お邪魔しました(*^-^*)

いずみん
これは現在実在するなかでって話ですね
刮目天
@いずみん さん はい、おっしゃる通りです。「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」で検索してみてください(*^-^*)

tonton4880
どれを見ても結局は推測になる。確実な証拠がなければ・・・

刮目天
@tonton4880 さん 事実に基づいて科学的に妥当な推論を重ねると真実に近づけますよ。しかし真実を知っているのは神だけです。それ以外に真実に近づく方法は宗教と権威への信仰ですが、万人が理解できないところが辛いところです。科学的な推論ならば多くの人が理解できるはずですね(^_-)-☆。

K M
@刮目天
>真実を知っているのは神だけです。
へえ。じゃあ断言してるアンタが神なんだね。すごいすごい。笑い

刮目天
@K M 神に向かってアンタとは、いったい何者だ?鬼か悪魔か?


しかし、次に何か来るかと思ったら、これで終了でしたので、ちょっと危ない人と思われたのかも知れません。誰も本気に思わなかったということでしたね(*´Д`)

でも、上の三つの円墳が日本三大円墳ということでしたが、刮目天が九州で発見したムナカタ海人族和邇氏の祖の以下の三つの円墳が新しい日本三大円墳になりますよ(^_-)-☆



第1位の卑弥呼の墓(推定)と第3位の先代赤坂比古(卑弥呼の父と推定)は宇佐市安心院町三柱山にあります。それぞれ第8石棺群の円墳と奥城古墳です。前者は家族旅行村の冒険の森、後者は現在ブドウ園の展望台となっています。そして、第2位の赤坂比古(日触使主=日食が原因で暗殺された卑弥呼の弟と推定)の墓は佐賀県鳥栖市愛宕神社古墳と呼ばれています。墳頂に愛宕山神社が建立されています(注1)。

いずれも弥生時代終末期から古墳時代初頭のものだと考えられます。先代赤坂比古が倭国王難升米に主君であった先代狗古智卑狗が討たれて、途方に暮れていたところを倭国王に懐柔され、卑弥呼の太陽神のお告げによって政治を行う条件で、狗奴国(旧奴国)を裏切って倭国側についたと推理しました。この時に、先代狗古智卑狗の子でまだ十歳そこそこの、後の大国主と呼ばれる高野御子が、恐らく父が本陣としていた北九州市から追放されて、生誕地の豊岡市竹野町の鷹野神社に戻って成長したと推理しています。その時の話が因幡の白兎となったと考えています(「新説「因幡の白兎」だ!」参照)。大国主の最初の国造りの場所が宇佐市安心院町佐田地区だと推理しました。豊葦原の瑞穂の国です(「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。

卑弥呼は不弥国(宗像市田熊遺跡群)で生まれたと考えていますが、倭国大乱期に海に近いところは敵がいつ襲ってくるか不安でしたので、野麻国(やまこく、宇佐市史によると和名抄の野麻郷が宇佐市安心院町に比定されている)に疎開していたと考えられます。安心院は卑弥呼(院)が疎開して安心したという故事に因む地名だと考えています(注2)



第2位は卑弥呼の弟赤坂比古の墓です(詳細は「愛宕権現の正体は赤坂比古か?」参照)。図の右の前方後方墳「赤坂古墳」は尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)の墓です。倭国追討軍の大将ですが、無傷で倭国を手に入れたので、丁度来日していた魏使張政に唆されて倭国王に立とうとしました(「【検証23】魏使張政って?!」参照)。しかし、副将の大国主久々遅彦が不服で、千人以上の死者を出す内戦になりました。結局、大国主勢に加わった赤坂比古が乎止与命を鳥栖市まで追い詰めて討ったと推理しました。乎止与命は記紀では仲哀天皇、神話ではカグツチとされて誤魔化されています。応神天皇の崩御後の政争は和邇氏と尾張の確執が原因です。この事件が原因でその後の抗争が起こったと推理しました。詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?」を参照してください。




(注1)愛宕権現は火の神カグツチと混同されて祀られていますが、この古墳の上の愛宕山神社で祀られていることから、記紀神話でカグツチとされた尾張王乎止与命を討った人物赤坂比古(卑弥呼の弟)だと分かりました。通説ではカグツチを生んで死んだイザナミとしていますが、その本地仏が勝軍地蔵であり、馬に乗った武人の姿で祀られていますから、ムナカタであったイザナミの一族を意味しています。カグツチはイザナギに切り殺されましたが、これはイザナギの子孫の大国主勢、つまり赤坂比古に鳥栖市まで追い詰められて討たれた尾張王乎止与命と推理しています。カグツチは秋葉神社で祀られています。秋葉神社は広く分布していますが、愛知県が一番多いですよ(^_-)-☆

(注2)地名の由来
■ 安心院(あじむ): 大分県宇佐市安心院町(あじむまち)【「安心院」の名字の由来】

#  地名の由来は、かつて安心院盆地は巨大な湖で、葦の生い茂った土地という意から、この地が葦生、「あじぶ」「あじむ」と呼ばれるようになったとも、また八幡大菩薩が各地遊化の途中、18番目に行幸したのが比咩大神の故地、都麻垣(宇佐宮八摂社の1つ妻垣社)で修行の時、ここで利生を語り合い、安楽の御心を得られたため、安心院といったとも言われる。【出典】角川日本地名大辞典(角川書店)

# 古くは芦が生えていた「芦生(あしぶ)の里」と呼ばれたが、後に芦が「安心」に転訛した説など、諸説有り。

# 芦が生えていることから「芦生の里」と呼ばれていたものが「安心」に転訛し、さらに中世になって荘園の倉(倉院)」が置かれたことから「院」がついて「安心院」になったという。


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