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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

古代史の盲点はここだ(つづき)

2023-01-08 16:26:24 | 古代史
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2022-02-22 03:57:58の記事ですが、あまり見られてはいないのでもう一度アップさせてください。よろしくお願いいたします(;^ω^)

前回のつづきです。今回は「日本書紀」で行われた歴史改ざんの具体的な手口と、古代史を理解する上で必要な日本建国当時からの倭(ヤマト)人の考え方などを見て行きましょう。お付き合いください。

人気作家の関裕二氏は神武天皇と応神天皇とオオタタネコは同じ人物で、住吉大神(武内宿禰)と女王台与の子だという推理をしています(後で考え方を述べますが、武内宿禰も住吉大神も実は大国主のことなのです)。漢風諡号で「神」の付く四人の人物(神武天皇・崇神天皇・神功皇后・応神天皇)が日本建国のキーパーソンだと指摘しています。神武天皇から第49代光仁天皇までの漢風諡号は、天智天皇の玄孫の淡海三船が撰したと言われていますが、これら神の付く諡号の四人のストーリーは神話だという意味がありますから三船はある程度、建国の真相が分かっていたものと思います(「抹殺された尾張氏の謎(その2)」参照)。

「日本書紀」の筆法ですが、一つの史実を、時代も人物も違えて、別々の似たような人物の似たような話に仕立て上げ、何が史実なのか、訳が分からないようにするやり方を多用しています。実は先の話は、アトの話を正当化するための先例として創作されたものというのもありますし、両方の話も不自然なねつ造であることを誤魔化すためでもあります。神武東征と神功皇后による応神東征の話は、大国主と台与の子が大和に呼ばれて初代ヤマトの祭祀王になったことを誤魔化すために創作したので、崇神紀のオオタタネコの話が史実に近いものです。

そして、武内宿禰のように三百歳まで長生きする、いかにも架空の人物を登場させたりしています。これは縄文時代から見られる環状列石(ストーン・サークル)で祖先の供養をする祖先崇拝から派生した考え方が根底にあります。弥生後期後半から始まった首長霊信仰と推理しました。偉業をなした首長を先祖とする、その直系の子孫が首長を継ぐ時にその名を襲名することにより、偉大な祖先の霊力で大業をなすことが出来るようになるという信仰です。

これは古墳時代のはじまりの時期と合致します。その部族の首長にふさわしい規模と形式の首長墓を古墳の形で作ることにより、祖霊を引き継ぐことを確認する儀礼を行ったのではないかと思います。大嘗祭(新しく即位した天皇の最初の新嘗祭)で行われる真床追衾のように、新たな首長が祖先の霊を身に付け、祖先と霊的に一体になったことを示す儀礼をその集団の中で行うのです。ですから、それぞれの部族でも偉大な祖先の業績を口伝などで子孫に伝えていると思われますので、日本では墓誌を作成する必要はなかったのだと考えられます。

また、例えば大国主や台与が九州で戦死して遺体が葬られた久留米市祇園山古墳と糸島市平原王墓には執着せずに「捨て墓(祖霊信仰で見られる、時の経過と共に埋没する埋め墓)」とし、崇神天皇から纏向に呼ばれた応神天皇(オオタタネコ)が桜井市外山(とび)の茶臼山古墳や纏向の箸墓古墳で盛大に供養して大国主と台与の霊を引き直ぐ儀礼を行ったと考えられます。ですから、そういう古墳の場合には遺骸や遺骨は棺の中に最初からないのだと思います。

さらに、例えばスサノヲが高天原を追放された後に、出雲でヤマタノオロチを退治し、老夫婦と姫を助ける英雄となる神話が作られました。暴れん坊の神スサノヲの正体は奴国の宮廷楽師らの反乱で殺された「宋史 王年代紀」第18代奴国王素戔嗚尊です。半島南部の鉄資源を独占する業績を持つ奴国王でしたから(「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)、ヤマト王権成立はスサノヲ大王のお陰なのです。その子のイタケルやその子孫は、スサノヲ大王の縁故で、半島南部の鉄資源を列島に供給するシステムを作り、日本海沿岸部と玄界灘などを活動範囲とする縄文海人ムナカタ族の王として活躍しました。代々の王は「久々遅彦」を襲名しました(注1)。

久々遅彦は吉備を平定して奴国を再興した天照大神尊ニギハヤヒの直系の子孫の旧奴国の大王に代々仕えてきたので、この人物をモデルにした、五代の天皇の下で活躍したとする武内宿禰を登場させています。「魏志倭人伝」では王よりも先に紹介された狗奴国の官狗古智卑狗のことです。ですから、例えば宇佐市安心院町の佐田神社の祭神がスサノヲとなっているのも、大国主を隠すためというのもあるかも知れませんが、スサノヲと大国主は霊的に結ばれていると当時の人は考えているので、何ら矛盾はないのだと思われます。スサノヲは父イザナギから海を支配するように命じられていますので、住吉大神という説もありますが、神功皇后の傍らで常に助けた武内宿禰のことなのです。ですからこの首長霊信仰に気付かないと記紀の登場人物が時代に合わないために、訳の分からない話になってしまうということです。


渋谷区立松涛美術館「スサノヲの到来―いのち、いかり、いのり」展(2015年08月30日)より

「日本書紀」では国家としての正統性を主張するために、シナの冊封体制にあったことも隠したいので、建国時代の女王台与をモデルとする神功皇后を創作し、「三韓征伐」をさせてたとされています。しかし、実在した倭(ヤマト)の五王に対応する史実を天皇紀から抹殺するためでもあると思います。応神天皇の時代からスサノヲ・大国主系王族とニギハヤヒ系王族の確執による主導権争いが政権の底流にあり、不比等の時代までその争いを引きずっていたと思われます。中大兄・鎌足のヤマトの大王家(蘇我氏本宗家)に対するテロ行為の史実を隠す目的から、応神天皇の後の仁徳天皇の事績やその後の倭の五王に対応する履中天皇から雄略天皇の事績をかなりねつ造・歪曲していると考えています。これらについては今後明らかにしていくつもりです(空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)~(その3)で藤原氏にとって都合の悪い二人の天皇を隠したことを明らかにしましたので、まだの方はぜひご参照ください)。

建国時代の歴史改ざんは特に入念に行われました。大国主久々遅彦と女王台与の倭国を狗奴国のヤマト勢が滅ぼす話を神代の話とし、大国主の国譲り神話としましたが、そこで高天原の命令で活躍したタケミカズチを藤原氏の氏神として春日神社、鹿島神社などで祀っています。

史実の方ですが、卑弥呼の死の後に北部九州の倭国への狗奴国の討伐軍が到来したので倭国王難升米が逃亡しまた。そこで討伐軍の大将だった尾張王乎止与命(オトヨノミコト)が倭国王に立ったので、副将の大国主久々遅彦らと内戦になり殺されました。そして、大国主は狗奴国王の親族の有力者である尾張王を討ってしまったので、外交上は卑弥呼の宗女台与を女王に立て、魏を後ろ盾にして倭国王に立ちました。乎止与命の後を継いだ尾張王建稲種命が父王の仇討ちで九州に遠征し、大国主らを討って倭国を滅ぼしました。さらに、大国主傘下の東海・関東・東北地方などの残党を攻めて、平定する大きな功績を揚げています。

この建稲種命が国譲り神話の英雄タケミカズチのモデルです。そして、殺された乎止与命を「日本書紀」では神託を疑ったので突然崩御した第14代仲哀天皇とし、応神天皇の父としました。建稲種命を仲哀天皇の祖父のはずの景行天皇として、九州遠征を行ったことにしましたので、史実の順序も変更してしまいました(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。また、大活躍した建稲種命の業績を隠すために、建国の英雄として創作したヤマトタケルの副将としてしまう神話・伝承を作りました。(「尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。ヤマト建国の父であった尾張氏を中央から追い落とす目的で、尾張王の史実を抹殺したわけです。



更に酷い歴史改ざんは、先述のとおり、正統なヤマトの大王家に繋がると思われる(あるいは大王家そのものかも知れない)蘇我氏の功績を抹殺し、藤原氏のものにする悪事をやったことです。その史実を隠すために蘇我氏が聖徳太子の上宮王家山背大兄王を滅ぼした大悪人とすることで、滅ぼされて当然と思わせる目的で、聖徳太子を大聖人に持ち上げています。聖徳太子が偉大であればあるほど蘇我氏が大悪人となる構図だったのです。しかし山背大兄王の話はすぐに作り話と分かるもので、実在人物ではないことも分かります。蘇我氏に関する史実は全く逆で、蘇我氏が進めていた中央集権化の功績を中大兄と鎌足が大化の改新として横取りしたことが最近分かってきていますので、外交関係に絡むヤマト政権内の王族間の権力闘争です(関裕二「仕組まれた古代の真実」辰巳出版、2019,pp.194-219参照)。高句麗の半島南下に伴うヤマト政権内の外交政策の主導権争いです。半島南部の鉄資源確保に関係するもので、新羅寄りのスサノヲ・大国主系王族(蘇我氏)と百済寄りのニギハヤヒ系王族(中大兄)との間の内部抗争だと考えています(注2)。

不比等は徹底的にニギハヤヒ系の豪族の物部氏・尾張氏を建国の歴史から排除しました。神武以前に天磐船に乗ってヤマトに降臨していた饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)こそ、吉備を平定したスサノヲ大王の後を継いだ奴国の第19代天照大神尊です。ヤマト王権の基礎を築いた人物で「日本書紀」では吉備津彦として隠されたスサノヲの弟だと、「宋史」に記された先述の「王年代紀」から推理できました(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)(注3)。

「王年代紀」は984年(第64代円融天皇の時代)に東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上したものの一つで、この資料によって神話の高天原が奴国の時代だったとシナが認識して、「日本は古の倭の奴国也」と「新唐書」に書いてもらって(1060年に完成)、正式に倭国から日本国へと国号変更されたわけです。平安時代までは、特に藤原氏によって没落させられた建国時代に活躍した祖先をもつ人々は日本建国の真相を伝承によって正しく理解していたのでしょう。「古事記」や「先代旧事本紀」などは、これらの人々によって歴史の真相を可能な限り暴露する目的で作られたものなのです。

「日本書紀」のトリックについては関裕二氏から多くのヒントを頂きましたが、刮目天は先述の「新唐書」・「宋史」の「日本は古の倭の奴国」という主張を最初の仮説として、考古学や民俗学などの成果を基に推理し、検証して、邪馬台国やヤマト王権の成立の謎を解明しました(「なぜヤマト王権の始まりが分かるの?」参照)。

すでに前回述べたとおり「魏志倭人伝」を正しく読めば正しい結果が得られると研究者の多くは考えているようですが、正しく読むためには編纂者の意図や編纂に使用した資料(この場合、司馬懿のために書かれた二人の魏使の報告書と思われます)が作られた権力者の意図を推理して仮説を立てて、どこまでが本当かを考古学の成果などで検証しないと正しい結論に至ることができません(注4)。

そして、最初に立てた仮説だけで留まっていては歴史の真相は分かりません。様々な事象について検証作業を繰返すことによってその仮説が科学的な信念にまでなると、歴史の真相が解明できたことになるのだと思います(「アブダクションは科学的な信念形成の手法だ!」参照)。

古代史解明の科学的手法アブダクションについては古代史の謎を推理する(^_-)-☆をご覧ください。色々な意見を頂けるとさらなる真相解明に役立つと思いますので、よろしくお願い致します。



(注1)「古事記」に武内宿禰が琴を弾いて神功皇后に神がかりさせて住吉大神の神託を仲哀天皇に伝えたとあります。富来隆氏によれば、狗古智卑狗の発音は、このような神事(カジリ)に使う琴が前漢時代(紀元前二世紀から一世紀)に空侯(クウコ)と呼ばれることから空侯ツ彦(クコツヒコ)かもしれないと指摘しています。そうすると狗古智卑狗「空侯ツ彦」はカジリに使う琴によって武内宿禰と一致します。

(注2)関裕二氏は聖徳太子の正体は蘇我入鹿としていますが、万葉集研究家の渡辺康則氏によれば、聖徳太子の正体は蘇我蝦夷とされた豊浦天皇としています(「聖徳太子は天皇だった」大空出版、2014参照)。蘇我馬子が用明天皇です。ですから蘇我本宗家はヤマトの大王家だったのです。ヤマトの大悪人であるはずの入鹿神社が存在することから考えても、入鹿は架空の人物と思われますので渡辺説が有力です。渡辺氏は、用明天皇は先帝の敏達天皇を仏教導入の問題で弑逆したとしていますが、これも外交問題だと考えられます。敏達天皇の父欽明天皇は百済との結びつきが強く、百済から仏教を導入したと考えています。二人の天皇はニギハヤヒ系の大王です。新羅の在った半島南西部の弁辰はスサノヲ・大国主の時代から関係が深いので、その後裔と思われる蘇我氏はこの時代では新羅仏教を導入しています。「日本書紀」は仏教導入について蘇我と物部の抗争としましたが、これもねつ造だと思います。

(注3)神武東征で、ニギハヤヒがナガスネヒコを討って神武天皇を即位させた話も崇神天皇がニギハヤヒの子孫であり、大国主を討った崇りから応神天皇をヤマトの祭祀王として呼び寄せた話に対応します(「大国主はトビヘビだった」参照)。

(注4)勿論、シナの正史「三国志 魏志倭人伝」の編纂目的も見抜き、倭国に関する記述のどこまで信ぴょう性があるのかを見極めないといけません。従来、范曄「後漢書 倭人の条」は「魏志倭人伝」の記述と矛盾するので単純にこれが無視されてきましたが、むしろ陳寿の「魏志の筆法」を見抜いた范曄が記述した邪馬台国と狗奴国の位置関係「自女王國東度海千餘里至拘奴國(女王国から東に約千里海を渡ると狗奴国に至る)」の方が正しいと分かりました。つまり、邪馬台国を女王が統治する、呉に圧迫を与える位置にある大国として、倭国を支配下に置いた西晋の宣帝司馬懿の功績を大きく見せるのが魏志倭人伝執筆の目的です。実際は帥升(師升が正しい)の一族の伊都国男王難升米が外交・軍事など倭国の実権を握っていました。ですから、邪馬台国への行程記事の内容は難升米が司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と談合して書いて教えたものを基に、西晋の史官陳寿が宣帝司馬懿の功績を称揚する目的で書いたものなのです。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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