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古代史ランキング
糸島市公式チャンネル@YouTube チャンネル登録者数 591人 7,867 回視聴 2022/02/17
福岡県糸島市は、前方後円墳が60基以上点在し、前方後円墳が密集する地域です。
なかでも国指定史跡である一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳は、玄界灘沿岸で最大規模を誇る古墳で、石室や副葬品などから、ヤマト政権とのつながりをもちながら、玄界灘の制海権を掌握する北部九州を代表する大首長墓と考えられています。
この二つの古墳は、現地保存されており、いつでも見に行くことができます。
今回、そうした保存活用の一環として、一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳の歴史的な重要性をまとめた紹介映像『玄界灘を見据えた巨大古墳-一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳』(7分47秒)を作成しました。
刮目天
興味あるいい動画をありがとうございました。九州の前方後円墳は、3世紀末の日本建国の戦いで纏向遺跡を王宮とした旧奴国(狗奴国)勢力が九州を支配したときから作られています。こちらで見られた大型円墳は4世紀以降のムナカタ海人族和邇氏のものだと思います。
実は日本最大の円墳は径百余歩(直径約150m)の卑弥呼の墓で、和邇氏の祖宗像三女神イチキシマヒメのものです。卑弥呼の父先代赤坂比古の直径約120mの円墳奥城古墳とともに宇佐市安心院町三柱山にあります。直径約140mの円墳が鳥栖市愛宕神社古墳で、卑弥呼の弟赤坂比古のものです。その横にある九州最古級の前方後方墳赤坂古墳が尾張王オトヨノミコト(記紀の仲哀天皇)のもので赤坂比古に討たれたので、3世紀末に尾張王建稲種命(記紀の景行天皇)が父の敵討ちで、九州遠征して赤坂比古を討って日本を建国したと推理しました。詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。現存する最古の正史「日本書紀」は天皇の歴史書ではないということに気づくと古代史の謎はほとんど解けますよ(^_-)-☆
巌流島男さん(6 か月前)
古墳時代とは、倭国大乱で多くの人民が火山の噴火が無い近畿地方に北部九州から移住し、その人口を支えるために土地改良事業に勤しみ多くの水田を作った時代。.土地改良事業により大量の土砂が出たので廃物利用してお墓を作った。土地改良事業を行う場所がなくなり近畿地方の古墳時代が終わった。古墳は権力者が無理やり作らせたお墓ではありません。
刮目天
古墳時代に先駆けて出雲地方から主として日本海沿岸部に四隅突出型墳丘墓や葺石のある方形墳丘墓が作られ始めました。これは、半島南部の鉄交易システムができて首長の序列化が進んだために、首長の権力が増大し、首長墓が大型化したことによると分かってきています。古墳はその考えを受け継ぎ、首長継承の儀式のために創られたと考えています。半島南部、北九州、出雲・伯耆・因幡・丹波・若狭から北陸、上越などを活動範囲とするムナカタ海人族が日本の建国で活躍しました。
倭国大乱は紀元前4世紀から続く倭国を支配した奴国が奴国宮廷楽師らの反乱によって滅び、旧奴国(狗奴国)の王族が出雲地方に逃亡して鉄の交易で隆盛になって、一方二世紀末の半島の混乱で楽浪郡との交易が途絶え衰退した伊都国に王宮を持つ師升の一族の倭国との戦争だったことが鉄鏃・銅鏃の出土状況から判明しました。詳しくは拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。魏志倭人伝にイト国が伊都国と書かれたことから謎が解明されました。「伊都国の意味がヒントだった?」もご参照いただけると邪馬台国や日本建国の過程が分かりますよ(^_-)-☆
大規模古墳は大王墓やそれに次ぐ王墓であることは確かだと思います。宇佐市安心院町で径百余歩の卑弥呼の墓は、鎮魂のために日本最大の巨大円墳で葬られたと考えられます。また、記紀で神功皇后とされた女王台与は九州遠征した尾張王建稲種命(記紀で景行天皇とされたニギハヤヒの子孫)に討たれ、糸島市平原王墓に埋葬されましたが、子の応神天皇が纏向遺跡の箸墓で改葬したと推理しています。これも鎮魂のためだと考えています。
そして父である大国主久々遅彦を桜井市茶臼山古墳で改葬したと推理しています。茶臼山古墳が箸墓の後に造られたと考えられますので、やはり茶臼山古墳も父の鎮魂が第一の目的だと思われます。応神天皇を大王とした狗奴国王(記紀の崇神天皇)が崩御した後に、茶臼山古墳を造営したのであれば首長継承の儀式を行ったのかも知れません。茶臼山古墳が大国主久々遅彦のものであるという根拠は、その地が外山と書いてトビと呼ばれ、前回記事にしたように鳥見山(登美山)の北側に築かれており、古墳の南側に等彌神社(とみじんじゃ)があるので、前回の記事「長髄彦(ナガスネヒコ)の正体も?」で述べたにしたトビ・トミ=奴国大王大国主を祀っていることから分かります。
wiki「等彌神社」では「本社にあたる上津尾社の祭神は大日霊貴命とされるが、饒速日命とする説も存在する。」とあります。饒速日命という説は先代旧事本紀で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とされていることからだと思われますが、大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと)はアマテラス女神のことで藤原不比等の創作です。本当の伊勢神宮内宮の祭神天照皇大神は応神天皇の父大国主久々遅彦のことなのです。伊勢の外宮が豊受大神、つまり大国主の妃で応神天皇の母の女王台与なのですから。ですからここでも藤原氏が大国主を隠すために主祭神をすり替えたと見ています。
纏向遺跡で最初に造営された前方後円墳の石塚古墳ですが、当初纏向遺跡を造営した最初の狗奴国王卑弥弓呼(記紀の開化天皇)の墓かも知れないとしていましたが、主体部に遺骸はなかったという報告がありますので、纏向の最初の大王が、倉敷市楯築王墓に埋葬された奴国19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王をここで改葬して、大王を引き継ぐ儀式を行ったと考えています。それにしたがって図を修正しました。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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福岡県糸島市は、前方後円墳が60基以上点在し、前方後円墳が密集する地域です。
なかでも国指定史跡である一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳は、玄界灘沿岸で最大規模を誇る古墳で、石室や副葬品などから、ヤマト政権とのつながりをもちながら、玄界灘の制海権を掌握する北部九州を代表する大首長墓と考えられています。
この二つの古墳は、現地保存されており、いつでも見に行くことができます。
今回、そうした保存活用の一環として、一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳の歴史的な重要性をまとめた紹介映像『玄界灘を見据えた巨大古墳-一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳』(7分47秒)を作成しました。
刮目天
興味あるいい動画をありがとうございました。九州の前方後円墳は、3世紀末の日本建国の戦いで纏向遺跡を王宮とした旧奴国(狗奴国)勢力が九州を支配したときから作られています。こちらで見られた大型円墳は4世紀以降のムナカタ海人族和邇氏のものだと思います。
実は日本最大の円墳は径百余歩(直径約150m)の卑弥呼の墓で、和邇氏の祖宗像三女神イチキシマヒメのものです。卑弥呼の父先代赤坂比古の直径約120mの円墳奥城古墳とともに宇佐市安心院町三柱山にあります。直径約140mの円墳が鳥栖市愛宕神社古墳で、卑弥呼の弟赤坂比古のものです。その横にある九州最古級の前方後方墳赤坂古墳が尾張王オトヨノミコト(記紀の仲哀天皇)のもので赤坂比古に討たれたので、3世紀末に尾張王建稲種命(記紀の景行天皇)が父の敵討ちで、九州遠征して赤坂比古を討って日本を建国したと推理しました。詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。現存する最古の正史「日本書紀」は天皇の歴史書ではないということに気づくと古代史の謎はほとんど解けますよ(^_-)-☆
巌流島男さん(6 か月前)
古墳時代とは、倭国大乱で多くの人民が火山の噴火が無い近畿地方に北部九州から移住し、その人口を支えるために土地改良事業に勤しみ多くの水田を作った時代。.土地改良事業により大量の土砂が出たので廃物利用してお墓を作った。土地改良事業を行う場所がなくなり近畿地方の古墳時代が終わった。古墳は権力者が無理やり作らせたお墓ではありません。
刮目天
古墳時代に先駆けて出雲地方から主として日本海沿岸部に四隅突出型墳丘墓や葺石のある方形墳丘墓が作られ始めました。これは、半島南部の鉄交易システムができて首長の序列化が進んだために、首長の権力が増大し、首長墓が大型化したことによると分かってきています。古墳はその考えを受け継ぎ、首長継承の儀式のために創られたと考えています。半島南部、北九州、出雲・伯耆・因幡・丹波・若狭から北陸、上越などを活動範囲とするムナカタ海人族が日本の建国で活躍しました。
倭国大乱は紀元前4世紀から続く倭国を支配した奴国が奴国宮廷楽師らの反乱によって滅び、旧奴国(狗奴国)の王族が出雲地方に逃亡して鉄の交易で隆盛になって、一方二世紀末の半島の混乱で楽浪郡との交易が途絶え衰退した伊都国に王宮を持つ師升の一族の倭国との戦争だったことが鉄鏃・銅鏃の出土状況から判明しました。詳しくは拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。魏志倭人伝にイト国が伊都国と書かれたことから謎が解明されました。「伊都国の意味がヒントだった?」もご参照いただけると邪馬台国や日本建国の過程が分かりますよ(^_-)-☆
大規模古墳は大王墓やそれに次ぐ王墓であることは確かだと思います。宇佐市安心院町で径百余歩の卑弥呼の墓は、鎮魂のために日本最大の巨大円墳で葬られたと考えられます。また、記紀で神功皇后とされた女王台与は九州遠征した尾張王建稲種命(記紀で景行天皇とされたニギハヤヒの子孫)に討たれ、糸島市平原王墓に埋葬されましたが、子の応神天皇が纏向遺跡の箸墓で改葬したと推理しています。これも鎮魂のためだと考えています。
そして父である大国主久々遅彦を桜井市茶臼山古墳で改葬したと推理しています。茶臼山古墳が箸墓の後に造られたと考えられますので、やはり茶臼山古墳も父の鎮魂が第一の目的だと思われます。応神天皇を大王とした狗奴国王(記紀の崇神天皇)が崩御した後に、茶臼山古墳を造営したのであれば首長継承の儀式を行ったのかも知れません。茶臼山古墳が大国主久々遅彦のものであるという根拠は、その地が外山と書いてトビと呼ばれ、前回記事にしたように鳥見山(登美山)の北側に築かれており、古墳の南側に等彌神社(とみじんじゃ)があるので、前回の記事「長髄彦(ナガスネヒコ)の正体も?」で述べたにしたトビ・トミ=奴国大王大国主を祀っていることから分かります。
wiki「等彌神社」では「本社にあたる上津尾社の祭神は大日霊貴命とされるが、饒速日命とする説も存在する。」とあります。饒速日命という説は先代旧事本紀で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とされていることからだと思われますが、大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと)はアマテラス女神のことで藤原不比等の創作です。本当の伊勢神宮内宮の祭神天照皇大神は応神天皇の父大国主久々遅彦のことなのです。伊勢の外宮が豊受大神、つまり大国主の妃で応神天皇の母の女王台与なのですから。ですからここでも藤原氏が大国主を隠すために主祭神をすり替えたと見ています。
纏向遺跡で最初に造営された前方後円墳の石塚古墳ですが、当初纏向遺跡を造営した最初の狗奴国王卑弥弓呼(記紀の開化天皇)の墓かも知れないとしていましたが、主体部に遺骸はなかったという報告がありますので、纏向の最初の大王が、倉敷市楯築王墓に埋葬された奴国19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王をここで改葬して、大王を引き継ぐ儀式を行ったと考えています。それにしたがって図を修正しました。
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