刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本はこのままでいいのか?( `ー´)ノ

2023-01-21 16:37:57 | 古代史
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ネットの番組で勉強させていただいている保守の著名な言論人の方々の討論です。歴史研究家田中英道先生が古代史研究で得られた、一般に認知されてはいない独自の日本人観を披露して、激論になっています。田中先生は日本国史学会創設の発起人になっており、「唯物論的な経済史観、階級闘争史観とは異なった日本史観による、あらたな日本の国史を形成し、議論する場としての学会をつくらなければならない、と強く感じ、」会を創設したと述べておられます。

しかし、歴史はイデオロギーに基づく歴史観で見ても、その歴史観に適合しない不都合な事実を無視することになるので歴史の真相を探求する科学とは呼べないものだと思います。そうであってもそういう思想そのものを否定するわけではなく、万人が理解できる科学的な学問として歴史学を捉えるべきだと思います。

田中先生のユダヤ人が日本文化に強い影響を与えたとのご意見は面白いですが、史実に基づかないものは幻想ですので、ついコメントしました。さらにもっと重要な論点を提起して、皆さんに気づいていただこうと思いコメントしました。ちょっと長いかもしれませんが、おつきあいください(#^.^#)


しかし、戦後この没落を考えれば、どこかで近代日本人の反省をしっかりし、国を建て直さねばなりません。

個人的にはその覚悟や反省が田中先生にはありません。

もちろんリスペクトあってですが、、。

臭いものに蓋をしてきた戦後からの脱却が一番。

その最後は勿論独立自尊です。


刮目天
ユダヤ人と見られる埴輪が出土した芝山古墳群の造営は6世紀後半から7世紀初頭となっています。日本建国は前方後円墳が発祥した纏向遺跡で3世紀なのですから、ユダヤ人に建国された話にはなりません。秦氏は3世紀ごろから活動していると思われますが、それは武内宿禰を祖とする波多氏だと突き止めています(注1)。能(猿)楽の祖と言われる秦河勝は6・7世紀の人ですが、その子孫とされる観阿弥・世阿弥が日本書紀で隠された建国の秘密を暴露する内容を演じているのです(詳細は拙ブログ「【刮目天の古代史】謎を解明する <秦氏と能楽の謎>」参照)。



ほとんどの日本人は日本書紀が、天武天皇が編纂を命じたので、天皇の歴史書だと習っていますが、崩御して34年も後に完成しているのです。その当時の権力者は藤原不比等でした。皇位継承に関する不比等と鵜野讃良の謀略の証拠が次々と発見されています。日本書紀の神代の内容は不比等の創作です。またその後の神武天皇から持統天皇までの歴史も酷く改ざんされているので、古代史は謎だらけなのです。ようやく考古学と民俗学などの成果を用いてヤマト王権の成立過程を解明しました。卑弥呼の正体・邪馬台国の場所も分かりました。よろしければ拙ブログ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。

刮目天
折角、保守の皆さんがここにお集まりですから、今の日本が変わらなくてはならない、真の独立を勝ち取らねばならない一番重要と考える理由について述べたいと思います。現在の日本国民の8割くらいが女性天皇・女系天皇まで容認しているこの現実は真の日本の危機だと思います。

実は下で日本書紀の正体について触れましたが、女性天皇は日本の歴史で存在していたと皆思わされているだけで、藤原不比等のフェイクだったということを知ってほしいのです。日本書紀の神話がウソだったということを朝廷が告白したと考えられます。それは、984年、宋に派遣した東大寺の奝然(ちょうねん)が献上した王年代紀によって、「日本は古の倭の奴国」とシナに認知されて、ようやく倭国から日本という国号に変えてもらったという史実があったのです(詳細は「「日本国」へ、八百年も掛かったのか?」参照)。奝然の俗姓も秦氏でした。

不比等が権力を握るために行った、天武天皇の皇后とされる鵜野讃良(中大兄の女)を持統天皇に即位したことにして、その孫を文武天皇に即位させ、不比等の娘宮子を妃とし、外戚として実権を握ったことの正当性を主張するために創られたのが高天原の最高神アマテラス女神とニニギノミコトの天孫降臨神話なのです。さらに皇后が即位する正当性を言うために、二人の女帝(推古天皇と皇極・斉明天皇)の前例も創作していることが判明しています。これらの説明は込み入っているので、拙ブログ「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密」、「謎の世紀と倭の五王(その1)~(その3)」、「神話が隠した不自然な史実」などをご参照ください。



実は、天武崩御後に長男高市皇子が即位していたと突き止めました。そして(高市皇子)崩御したら文武天皇が15歳という異例の若さですぐに即位していますので、鵜野讃良は即位していない、持統天皇は存在していないということなのです。高市皇子も43歳で突然亡くなっていますので、不比等に暗殺されたと考えられます。多くの古代史研究者も国民も騙されていますが、不比等の父鎌足らのヤマトの大王家(蘇我氏)に対するテロ・クーデターを隠すのも目的ですが、上の史実を隠すために不比等は日本書紀で天皇の歴史書を改ざんしたと考えています(「日本書紀とは何だったのか?」参照)。よろしければ拙ブログに疑問点などをお寄せください。よろしくお願いいたします。(#^.^#)

ですからその後の5人の女性天皇とされている人物も、天皇の代わりに政務を行う称制であったとしても、最も大切な宮中祭祀を主宰する天皇に即位まではしていないと考えられます。京都の天皇家の菩提寺の泉涌寺では明治時代になるまで、天智天皇から江戸時代までの女性天皇を誰一人祀っていないことが知られている関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」(ワニ文庫)2016、p.243)。江戸時代の二人の女性天皇の仏事に掲げる肖像画も明治になって作られたと分かっています。つまり、天皇家では女性天皇は認知されていなかったのです。

ということで、皇位継承の現状を考えると、悠仁殿下だけに重荷を負わせるわけにはいきませんので、皇位継承可能な方々に皇族復帰していただく必要があります。天皇陛下やご皇族の最も重要なお仕事はGHQが押し付けた(偽)日本国憲法に規定されたもの以外の日本国と国民のための宮中祭祀だと思います。長々とお邪魔しました(#^.^#)

(注1)田中英道「武内宿禰はユダヤ系であった」日本国史学会 連続講義 令和4年12月10日 日本経済大学(2022/12/10)を見つけて腰を抜かしました。田中先生は記紀の記述から連想して物語を組み立てたのだと思います。でも、武内宿禰は不比等が創作した五代の天皇に仕えた300歳の神話的な人物で、刮目天は狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦)の最後の大国主をモデルにした架空の人物と突き止めています。応神天皇の父で大和朝廷がその祟りを最も恐れた日本建国の主役とされる人物だと突き止めました。






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弥生は遅れた文化じゃなかった!?(;^ω^)

2023-01-20 18:28:32 | 古代史
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YouTubeで精力的に情報発信されておられる方のいい動画にだいぶ前でしたが、たくさん議論できました。もう一度読み返して、また以下のコメントしましたので、おつきあいください(#^.^#)



歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。

こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太


刮目天
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みなさん、卑弥呼の謎で盛り上がっていましたが、魏志倭人伝と、後はこれを引いた文献だけですからいまだに謎だということです。ですが、いつまでも謎のまま存在させることはできないと、陳寿はヒントをくれたのですよ(^_-)-☆

それに気づかないのは日本書紀が原因だったのです。日本に漢字が伝わったのは応神天皇の時代とあるのを鵜吞みにしているから、当時の倭人は漢字を読み書きできないので、倭国の地名や人名・職名などは、魏の役人が倭人の発音を聞いて韻書の冒頭の字をあてたというのがほとんど定説になっていたようです。

でも、冷静に考えると、西暦57年(弥生時代後期)には国宝金印が倭の奴国王に授けられています。当然、詔書もおくられて、それに対する返事も倭人が書いているはずです。それができないような倭国王に最高位の金印を送るはずないですよ(^_-)-☆
この時代に出土した、当初、砥石と思われていたものが硯の欠片だったと最近分かってきました。すでに福岡市雀居(ささい)遺跡では木製の組み机一式が出土していますし、伊都国では三雲遺跡番上地区に楽浪土器が集中して出土しており、華僑が居住していたと考えられ、伊都国の王族らも当然交流していたはずですから、倭人全員ではないですが、一部には漢字は使われていたはずです。

そして107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升[范曄後漢書の原本は現存しないのですが、現本を引いたと思われる史書から倭の回土(ウィト)国王師升というのが正しい]は名前から考えてシナ人ですから、シナ語を話せたと考えることができます。あの徐福が連れてきた楽師の子孫だったのです(拙ブログ「徐福は龍神(奴国王)が招へいした?」参照)。

でも素直にそう考えられないのは日本書紀の間違った刷り込みがあるからなのです。

考古学よりも文献を重視する間違った姿勢なのです。


魏志倭人伝にも伊都国の一大率が女王への外交文書や貢物をチェックして間違いなく届ける役割とあるので、文書を読み書きできないと務まりません。

その他にも、交易は大倭という高官が監督し、租税も取ったとあり、実際に権という計りの分銅が出土しており、十進法が使われていたと分かっています。このように、弥生時代は水田稲作と金属技術が導入された日本の産業革命の時代なのです。次の古墳時代前期とそれ程そん色のない文化程度だったと分かるのです(詳細は「変わる弥生時代観!」参照)。

そして、魏志倭人伝の行程記事に現れる倭国の地名などが、漢字を読み書きし、更にシナの古典まで理解する教養人が魏側に書いて教えたことが分かる証拠が、「伊都国」という深い意味のある国名なのです。これを魏志倭人伝で紹介していることから分かるのです。詳しくは拙ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。これによって謎の多い日本の古代史は一気に解明が進みました。ちなみに卑弥呼の正体も、邪馬台国の場所も分かりました。是非、これに関して皆さんのご意見をお聞かせください(#^.^#)


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徐福は龍神(奴国王)が招へいした?(^_-)-☆

2023-01-18 22:02:56 | 古代史
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以前、「近江と尾張の関係?」という記事でご紹介した下の動画のコメント欄で、表題の内容のコメントに気づきましたので、半年前のものに恐縮ですが、応答しました。お付き合いください。(#^.^#)


考古学的に見る邪馬台国の場所。
kanrekiman@YouTube
 チャンネル登録者数 1170人 3,322 回視聴 2022/04/16
女王国は畿内と九州の連合政権。
畿内の母体は吉備勢。
銅鐸文化圏の首都は伊勢遺跡。


等田米pleasure (6 か月前)
動画有難う御座います。
日本書紀は、年代以外は合ってる。賛成に1票。
半島にも、邪馬の付く地名があったし、邪馬臺、邪馬壱、邪馬壹、邪馬台、は同時に存在してるのかも?大王家の祖に表現される、天御影神、野洲市、息長系この時代が西暦150年頃の話で西暦240年の90年前なので、裴末之の『注』のように、誤植や改変をまず見抜くべきなのかも?
銅鐸文明の長、野洲市の息『四の意味』が四国の銅剣・銅矛・九州と移動した事は、日本書記からイメージ掴めるので、臺・タイ・鯛・周防。
魚の付く漢字は、日本で造られたので、鯛の周がタイの語源の臺に繫がるのかも?

ただ、裴末之は広開土王の時代だから、北部九州の情報で解釈したかも?は仕方がないのかな?

伊勢遺跡文明が何故?南下して瀬戸内から周防、門司を利用したか?を考察すると、東夷伝には、万里の長城建設で移動した民族や青州、徐州、琅邪県の移民を類推出来る文字列があるので、ルート変更して、徐州から半島南西部から海流にながされながら、門司に入るルートを?
半島に行く時は、長崎位から海流にながされながら、釜山に行くルート、往復は、海道が違う可能性がありますよね。

徐州市の人のDNAは、列島と近いらしいので、かなり交流が深く混血したのかな?
少人数では、万単位ね列島をどうにか出来ないし、弓や投石ですぐに駆逐できるので、友好的な商売相手だったんでしょうね。

出雲‼️もと当時は、出雲では、ないし、西暦240年に出雲がなんと呼ばれてたかで、漢字や発音は変わりますね。

面は、越の意味でもあるし、トルコの音訳は土耳古だし。

古代史妄想は、楽しいですね(笑)


刮目天 
古代史を考えるは楽しいのは同感ですが、書かれているものを無邪気に信じる想像は、事実に基づく検証をすれば古代妄想なのか、妥当な推論かを判定できますよ。

多くの方たちは日本書紀を天皇の歴史書だと習っているので、あり得ないようなことでも好意的に解釈してしまって、せっかくの考古学の物証も見逃してしまいます。

例えば、弥生時代には漢字を読み書きできる倭人はいなかったという定説は日本書紀の応神紀に王仁が千字もん(漢字)を伝えたという記事が根拠です。

でも、1世紀にすでに漢字が使われていたのは国宝金印で分かります。漢字を使えないような文化の遅れた倭国に金印など与えないのは常識ですが、それが理解できないのですから困ったものです。魏志倭人伝に描かれた倭国の地名・人名・役職名などは漢字を読み書きでき、しかも漢籍を読む教養人だったことが「伊都国」という深い意味のある国名を紹介していることから分かります。詳しくは「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。

これによって魏志倭人伝や日本書紀などの文献の正体や歴史の真相まで分かってしまいます。勿論推論でしかないですが、事実に基づく推論は蓋然性の高いもので、単なる古代妄想とは区別すべきですよ!お邪魔しました(^_-)-☆


kanrekiman(6 か月前)
熊野から秦の貨幣が見つかっていますし、徐福ないし秦からの移民が日本に来たのは確かでしょうね。五十猛と徐福が同一人物なら面白いと思いますw



刮目天
@kanrekiman さん 半両銭ですね(^_-)-☆(注1) 
徐福の来日の証拠はたくさん見つかっていますね。国産の青銅器製造技術もそうだと考えています。須玖タカウタ遺跡は彼らの冶金工房だと思います。国内の鉄の冶金技術も半島のものとは異なりますので、徐福系技術者だと考えています。そして最も重視しているのは宮廷祭祀を行った楽師の存在です。徐福が連れてきた楽師の子孫が倭国王帥升(伊都=面土国王師升)です。師升が倭国王(奴国王)スサノヲを殺して倭国王に立ったことが分かったので、倭国大乱やヤマト王権成立過程が推理できました。徐福は平原広沢の吉野ヶ里で王になったという伝承も、遺跡でシナの影響を受ける祭壇が見つかっていますので可能性が高いですね。もっともっと証拠が見つかると思います(^_-)-☆


「史記」巻百十八「淮南衡山列伝」によると紀元前219年に方士徐福が海神(奴国龍王)の要請で三千人の童男童女・五穀の種・百工を連れてきたとあります(注2)。方士は宗教・医学・薬学・工学・化学の幅広い知識と技術を持った人のことです。百工は種々の手工業技術者と考えられます。

この頃に王宮の横の須玖タカウタ遺跡に「日本最古級の銅戈の土製鋳型」や「国内最古の多鈕鏡の鋳型」などが発見されています。つまり奴国の官営工場が造られた時期と一致しますので、徐福が連れてきた冶金技術者と考えられます(注3)。

また、ずっと後の107年に後漢安帝に朝貢した師升らは、奴国宮廷楽師たちであると考えられるので、奴国の祭祀を担当する人々にはそれなりの出自や経歴が必要です。なので、彼らの祖先は徐福が連れてきた楽師らの可能性が高いと思います(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

そして、徐福伝説は佐賀県に数多く残されていますので、「淮南衡山列伝」に徐福が平原広沢で王となったという記述もあり、上のような貢献によって奴国王から吉野ヶ里遺跡の王とされたのではないかと考えています(注4)。

【関連記事】
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆

(注1)「全国に散らばる徐福伝説」一条谷さおり@サライ 2020・12・30)

「これは徐福の宮のある丸山から発掘された半両銭です」
その時代のものですから徐福の一行のものの可能性がありますね(^_-)-☆

【日本での出土】(Wiki「半両銭」より引用)
全国で9か所の遺跡から25枚見つかっており、このうち現存するものは19枚ある。

福岡県志摩町御床松原遺跡出土……1枚(前漢紀元前175年以降)
福岡県志摩町新町遺跡出土 ……1枚( 〃 )
山口県下関市武久浜墳墓群出土……1枚( 〃 )直径2.2cm
山口県宇部市沖ノ山遺跡出土 ……9枚( 〃 )
三重県熊野市波田須町出土 ……7枚出土、内1枚現存(秦半両、秦の統一以降)直径3cm
特に波田須町出土のものは、当地で秦の始皇帝から蓬萊山へ派遣されたという徐福の伝承に関連する他の多くの出土品があり、これらと併せて当地は故地であることの有力な物証に挙げられている。


(注2)上記のとおり「史記 淮南衡山列伝」によると紀元前219年に徐福等が斉国の狼邪で始皇帝に会い、蓬莱・方丈・瀛州の三神山に仙薬を持つ仙人がいると報告すると、数千人の童男童女を連れて海を渡り仙薬を探すように命ぜられたとあります。「史記 秦始皇本紀」に前210年に再度始皇帝に会って仙薬がまだ手に入ってないのは大鮫魚が邪魔しているので、退治してほしいと告げたとあります。しかし、すでに前212年に始皇帝は徐福も含めて方士に騙されたとして方士や学者を捕らえて生き埋めにしていますので、前210年の話は矛盾します。それについて龜山勝「安曇族と徐福」(龍鳳書房 2009, pp.289-299)で解説されています。結論は、徐福自身が始皇帝に面会したのは前219年だけで、前210年は徐福のグループの方士であろうとのことです。『「淮南衡山列伝」で司馬遷は、その文才の趣くままに書き、徐福の逃亡がBC二一九年であったかBC二一〇年であったかは、それほど問題ではなかったのでしょう。』とあります(同書p.299)。したがって、弥生時代の年表を前219年に訂正しました。



(注3)日本で最古の青銅器製造の遺跡は紀元前三世紀前葉の八ノ坪遺跡(熊本県)とのことです(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書 2015,p.113)。土器が単品ではなくセットで出土していることから、半島南部から移住してきた人としています。もしも、江南系倭人(アズミ族)であれば奴国王の支配下ですので、その時代にすでに奴国で生産されていなければならないと考えられます。したがって、八ノ坪遺跡の住人はおそらく縄文人か江南の倭人と混血した縄文系倭人と考えられます。

(注4)『福永(光司)氏は、文献実証学の立場から、・・・・・「徐福と吉野ヶ里の墳丘墓とを結びつけるものとして、墳丘墓の南側にある祭祀遺跡と西南の方向から入る墓道がある。これらは漢の武帝が、泰山の麓で行った明堂の祀りと一致していることが確認できた」と指摘しています。』(龜山勝「安曇族と徐福」龍鳳書房 2009, pp.300-301)


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大国主の墓はここ!(^_-)-☆

2023-01-16 21:49:19 | 古代史
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祇園山古墳は、古墳時代前期に築かれたと見られる古墳です。墳丘形態は方墳で、規模は東西約23.7メートル、南北約22.9メートル、高さ約5メートルを測ります。墳丘は本来の地形を整形した上部に盛土を行うことにより構築されており、墳丘裾部と上段の盛土部分には葺石が確認されています。
埋葬施設は、墳頂部のほぼ中央に納められた箱式石棺です。石棺の大きさは底部付近で長さ約2メートル、幅約90センチメートル、深さ約90センチメートルで棺内には蓋石も含めて朱が塗られていました。石棺は古い時代に盗掘を受けたと見られ、内部からの副葬品の出土はありませんでした。
祇園山古墳は現在久留米市内で確認されている古墳の中で最も古い段階に築かれた首長墓です。
祇園山古墳の墳丘外周からは、発掘調査時に甕棺墓3基、石蓋土坑墓32基(未調査5、不明2を含む)、箱式石棺墓7基、竪穴式石室13基、不明7基の埋葬施設が確認されています。また、第1号甕棺からは銅鏡片や勾玉、管玉が出土しています。
(立看板より転載)


刮目天
一番行ってみたかった古墳です。どうもありがとうございます。
実はこの古墳は、魏志倭人伝にある狗奴国の官狗古智卑狗の子で、出雲大社やいろいろな神社で祀られている日本で最も恐れられ、人気のある神様の大国主命の墓だと考古学や民俗学などの成果から推理しました。記紀や神話・伝承では高良玉垂大神・武内宿禰とされています。伊勢神宮内宮でも祀られている本当の祭神です!ちなみに父は二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱で活躍して、戦死し、山鹿市で全く同じ様式・規模の方墳茶臼塚古墳に葬られています。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」などにありますので、よろしければどうぞ( ^)o(^ )


大国主久々遅彦(ムナカタ海人族の王として代々襲名)は半島南部の鉄資源を手に入れて日本各地に高温鍛冶技術を伝えたので、九州全土、中国地方西部、四国、山陰、北陸、関東、東海地方東部などを勢力圏にし、吉備から・畿内、東海地方西部を支配権とする狗奴国と対立しました。


狗奴国を裏切った復讐で、大国主の根拠地青谷上寺地遺跡や丹後半島の箱石浜遺跡などを狗奴国勢が襲撃し、無防備な民間人を大量虐殺しています(「青谷上寺地遺跡の虐殺は大国主への復讐による狗奴国勢の無差別テロだった【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その11)6.日本建国の謎①」参照)

狗奴国の実力者だった尾張王の父を大国主勢に討たれたので、父の敵討ちのために尾張王建稲種命が九州へ遠征し、何度も撃退されましたが、苦難の末に大国主をこの地で討ち取ったと推理しました。その話が記紀の景行天皇の九州遠征で詳しく書かれています。大国主が居城としたのがここ高良山城でしょう!詳細は「神籠石は最初に誰が作った?( ^)o(^ ) 」をご参照ください(^_-)-☆


 
【関連記事】
【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その3)狗古智卑狗の霊ライン?

眼下に広大な鹿本平野を見渡す丘陵地の一本松公園に置かれていますよ( ^)o(^ )
【刮目天の古代史】2022年の大発見!(^_-)-☆
2022-12-29 22:54:57
 大国主は高野御子と呼ばれていました。生まれ育った場所も発見しました。先代狗古智卑狗の霊ラインが教えてくれましたよ(;^ω^)



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本当の日本の古代史って?!(#^.^#)

2023-01-15 22:38:38 | 古代史
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いい動画がありましたので、コメントさせていただきました。お付き合いください(#^.^#)



日本人の9割が知らない日本建国の真実【真・日本の歴史】
真・日本の歴史 チャンネル登録者数 5.44万人 362,500 回視聴 2021/03/25

以前作った動画にいただいたコメントによって気づかされたこともあり、今回も、神武東征について、より掘り下げた動画を作ることにしました。
いつも話しているように、我が国の古代史に関する学問が非常にゆがんでいて、日本の歴史学者たちや小説家たちは何の根拠なく神武天皇から開化天皇までの9代の初期の天皇について「実在しない」と断言しています。


刮目天
日本書紀は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと習っていますが、完成したのは崩御して34年後です。その時代の権力者の藤原不比等が、実際上編纂をさせたものなのです。不比等は父鎌足らや自らの悪行を隠ぺいするために創った歴史書だということが、考古学や民俗学などの成果から推理して判明しました。藤原氏が権力を維持するために不都合な日本建国時代に活躍した豪族の史実を隠し、自らの出自も誤魔化して遠い祖神を活躍させる神話まで創作して、神祇祭祀を独占し、豪族が祀る神社の社名や祭神まで強権で変えさせています。藤原氏にとって都合の好いような律令制度も制定して平安時代まで権力を握っていました。

しかし、歴史を消された豪族たちは藤原氏に気づかれずに密かに史実を暴露しようと努力していました。古事記は日本書紀よりも早く完成したと習っていますが、9世紀の日本書紀を講義していた多人長によって突然表に出てきたものです。万葉集や懐風藻や先代旧事本紀などなども日本書紀と異なる部分があるのは、そのためなのです。

江戸時代になって本居宣長が、古事記神話のストーリーが日本書紀よりも明確なので絶賛するまで、ほとんど読まれていなかったようです。幕末に宣長の影響を受けた平田篤胤が復古神道を提唱し、尊王攘夷運動が高まりましたので人気になりました。明治になって、西洋列強に対抗して国民をまとめるために記紀神話に基づく国家神道が創設され、皇国史観による国史を学校でも教えるようになりました。戦後もその影響で記紀神話が日本人のアイデンティティーと思わされてきました。しかし、上で述べたように日本神話は不比等が創作したものなのです。本当の日本の神話は中国(なかつくに)の神話だと突き止めていますよ(^_-)-☆

これは10世紀に東大寺の僧が宋の太宗に献上した王年代紀によって分かります。初代王天御中主から23代王まで筑紫日向宮に居て、最後の王の4男神武天皇が大和州橿原宮に都を移したと書かれており、これによってシナは「日本は古の倭の奴国」と認め、倭国から日本国に国号が正式に変わったのが事実です。考古学的にもそのことを検証して明らかにしました。神武天皇は建国の史実を誤魔化すために創作された天皇です。初代天皇は15代とされた応神天皇で3世紀末に即位したと分かりました(拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

上で述べたように、みなさんは日本書紀が天皇の歴史書だと騙されているので、日本書紀を好意的に解釈していますが、ほとんど間違いです。例えば、異様に長生きしている天皇は春秋二倍年歴で実際の年代を出せると信じておられますが、日本書紀の記事を見ればでたらめだと直ぐに分かります。もしも春秋歴が正しければ三月から八月の春夏の内容と、九月から翌年二月までの秋冬の内容が交互に現れるはずですが、事実はそうはなっていないのです。ヤマトには三世紀よりも前に王が存在した考古学的証拠はありません。ですから、長浜さんの説も間違いなのです。これはイデオロギーの問題ではなく実証主義からの結論ですので、書かれてあることが事実かどうかを科学的な態度で見る必要があるのです。詳細は拙ブログ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」などをご参照ください。ちなみに卑弥呼の墓も発見して「卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!」などで記事にしていますのでいろいろとご意見ください。どうもお邪魔しました。https://blog.goo.ne.jp/katumoku10

【関連記事】
日本書紀とは何だったのか?(;´Д`)
日本史を疑え!(^_-)-☆




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