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【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その4)終焉の地か?

2023-01-30 10:53:56 | 古代史
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大国主久々遅彦の父で、二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱で大活躍した先代狗古智卑狗の墓についてすでに調べ(その1)(その2)(その3)狗古智卑狗の霊ライン?まで記事にしました。ここで茶臼塚古墳の墳頂に置かれた大日如来の石祠によって、約80kmも離れた、大国主が最初に国造りした豊葦原瑞穂の国(宇佐市安心院町佐田地区)と父の霊を呼び込むための祭祀場とした米神山の山麓に造られたストーンサークル(環状列石)である佐田京石や数々の巨石祭祀遺構の存在と、茶臼塚古墳との関係が霊ラインで連結されていることを知って驚きました。さらにこのラインを延長すると、なんと米神山からさらに約400km先に父の王宮で高野御子と呼ばれた大国主久々遅彦が生まれ育った場所(兵庫県豊岡市竹野町鷹野神社・五社大明神)を発見できたのでとても驚きました(「【刮目天の古代史】2022年の大発見!」参照)。

このように茶臼塚古墳の位置はとても重要なポイントなのですが、その築造年代は熊本:古墳マップ「茶臼塚古墳」によれば、四世紀後半から五世紀初頭の築造とされています。この墓域は津袋古墳群と呼ばれ、茶臼塚古墳の東側に小町塚古墳という元の直径が23.7mだった円墳があり、五世紀ころに築造されたとあります。さらにその北側に直径13.5mの円墳頂塚古墳があります。円墳は和邇氏のものだと考えられ、少し小振りですので、先代久々遅彦と同様にこの地で戦死した、先代の配下の武将の墓と考えられます。茶臼塚古墳よりも後で造られた古墳の可能性もありますので、この武将の子孫の和邇氏が造営したのかも知れません。

ということで、茶臼塚古墳が造営されたのは四世紀前半であれば応神天皇が祖父の墓を築造したことになりますが、四世紀後半ということならば次の宇治天皇(うじのわきのいらつこ)の御宇ですので、曽祖父の終焉の地に方墳を作り、和邇氏の祖の武将たちにも円墳を作ったと考えられます。時期的には同時ではないかもしれませんが。

しかし、そうであるならば、なぜ、大国主が父の墓を造らなかった?という疑問が起こります。

すでに大国主久々遅彦が卑弥呼の死後の内戦に勝利して最初に父の終焉の地に訪れたことは間違いありません。どこか近くに別の墓があるのかも知れないと、いつものようにGoogleMap探索をしていましたがそれらしい場所は見つかりませんでした。大国主は、父の終焉地の正確な場所が分からなかったのかも知れません。そうでしたら、巨石信仰を持つ大国主ならばどこかでストーンサークルなどの巨石遺構を造り、鎮魂の祈祷をしたと考えられます。ということで、米神山の月の神谷の不思議な石柱群を動画で教えていただいた超古代巨石文明研究家猿田彦氏からまたヒントを頂きました。有難うございます(^^♪



猿田彦氏の発見された菊池渓谷のストーンサークルではないかと思います。茶臼塚古墳から東に約20kmほど行った場所で、阿蘇山に向かう菊池川の上流です。当時の人々は川を丸木舟で移動しますので、阿蘇を経由して卑弥呼の墓のある宇佐市安心院町三柱山に向かったと思います。その途中の菊池渓谷は現在公園になっており、素晴らしいホームページに以下のような説明がありました。

菊池渓谷は、菊池市街地から東へ約 17km、阿蘇外輪山の北西部の標高500m~800mの間に位置し、約1,193haの広大な面積からなる”憩いの森”です。
 菊池川の源をなす菊池渓谷は、うっそうとした天然生広葉樹で覆われ、その間をぬって流れる淡水は、大小さまざまな瀬と渕と滝をつくり、その変化に富む渓流と,美しい森林とがおりなす姿は絶景です。
 また、天然クーラーと称され、夏の平均水温は13度と低く、身を切るような清流は避暑地として最適であり、渓谷ぞいは、川のせせらぎと小鳥のさえずりで、楽しい夢をさそい、秋は渓流に映える紅葉がすばらしく、春は新緑、冬は全山に霧氷の花が咲くなど四季を通うじて訪れる人々の心をなごませてくれるところです。


ガイドマップが貼られておりその中の広河原という開けた場所に、一番奥の橋が架かっていますが、このすぐ横に、槻(けやき)の木が巨石を包み込んでいる包岩槻が見られます。そこに太陽石と思われる大きな岩あり、外周の直径50mほどの二重のストーンサークルがあることを猿田彦氏が発見されました(動画32:01~)。

その広河原の片隅に水天宮があります。いわゆる水の神様の水神様です。総本社は久留米市の水天宮とされ、初代奴国王の天御中主(あめのみなかぬし)が主祭神です。ですから、龍王・龍神つまり歴代奴国王の霊を身に纏う大国主やその父狗古智卑狗のことも示唆しています。

ということはここで大国主が父の霊を弔う祭祀を行ったと考えられますので、さらに想像を膨らますと、菊池市うてな遺跡を居城としていた父狗古智卑狗が倭王難升米の急襲を受け、丸木舟で菊池川をさかのぼって落ち延びようとしたところ、菊池渓谷の広河原付近で追手に追いつかれて討たれたのがこの場所だったのかも知れませんね。だから、この場所にストーンサークルが見つかったのは龍神(歴代奴国王の霊)のお導きかも知れません。信じるか信じないかはあなた次第です!またかあ?って聞こえてくるようですが(#^.^#)

そして、時が過ぎ、大国主の孫の宇治天皇が、倭国大乱の英雄の曽祖父の墓に相応しい、広大な鹿本平野を見渡せる一本松公園に、丹波(タニワ)地方で盛行した方墳を造営したということではないでしょうか。石棺があったとしても遺骨などはなかった可能性があります。ここは調査記録を入手できれば何かわかるかも知れませんね。



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サルタヒコは大国主の分身ですよ(^_-)-☆


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