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古代史ランキング
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刮目天一
邪馬台国解明のカギは、当時の倭人の中には漢字を読み書きできる人間が居たということです。弥生後期に福岡市雀居遺跡で木製の組み机一式が発掘されていますし、今まで砥石と思われていたものが硯の欠片であると分かってきました。
そうなると、従来漢字を読み書きできない倭人から魏の役人が聞いたとする地名や人名などは、その発音を聞いて韻書の最初の文字を当てたとする通説が成り立たなくなります。漢字で教えた倭人が居たということです。
そして、魏志倭人伝は陳寿が何のために書いたものかを考えると、西晋の宣帝、魏の実力者司馬懿の功績を寿ぐ目的だったということに気付きます。そうなると、邪馬台国は魏にとって戦略上重要な位置にあるとしなければならないことなど潤色がかなりあり、行程記事はそれのつじつま合わせで作られた可能性があります。また、邪馬台国7万戸というのも、方角もあてにならないと分かります。ですから、行程記事に頼らずに、考古学の成果から日本建国の過程を推理することによって邪馬台国を見つけなければならないということで、それは既に可能になっています。
さらに、現存する日本最古の正史「日本書紀」は壬申の乱を勝利した天武天皇が編纂を命じたので多くの方は天皇家の歴史書だと思い込んでいますが、実は完成前に崩御しており、その三十年も後に完成していますから、その当時の権力者藤原不比等が藤原氏に都合のよい歴史に書き換えたと考えることができます。そうすると不比等の目的を考えて、考古学や民俗学の成果を用いて日本建国の真相を解明することができました。詳しくは拙ブログ「
古代史の謎を推理する」をご参照ください。その過程で卑弥呼の宮室も墓も見つかっています。お邪魔しました。
北島正隆さん
伊都の国
伊には「神と通じる聖職者」の意味があり、都は首都、みやこ。
すると伊都の国とは「神と通じる聖職者が政治を行っていた首都」という意味になります。
代々王がいるし帯方郡の使者が常駐する?常に足を止める?ともあるし。
名前の意味と、魏志倭人伝に書かれた内容が一致します。
従って、この側面からも倭人の発音に魏の人間が漢字を充てた説が成り立たなくなります。
邪馬壱国は中華思想から考えると、東夷の倭人の国に「壹」と高貴な漢字を使ってるのが疑問です。
しかも同一国名に邪という悪い意味の漢字と壹と両方使っているのが尚更です。
狗邪韓国ー対馬ー壱岐の略で邪馬壱国と呼んだ可能性を考えます。
魏志倭人伝にはいくつか版本が現存し、邪馬一という表記もあるとのこと。
邪馬一は狗邪韓国・対馬・一支の略で表記ゆれがあるもの、と解せます。
方角と旅程は誤差の範囲で正確だとは思います。
(参考記事)「【邪馬台国問題】短里がダメな理由!(;一_一)」
刮目天一
@北島正隆 さん いい情報をありがとうございます。
「伊」の意味はおっしゃるとおりです。
Wiktrionary「伊」によれば『
「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。』とあります。伊都国はこの伊尹に因む王都を意味します。「孟子 尽心上篇」によれば伊尹は放蕩の主君太甲を追放したことでその評価が議論されています。この伊都国の男王が最初の魏への使者大夫難升米で、107年に後漢に朝貢した帥升(正しくは師升)王の一族の頭目(かしら)を意味する名前でした。彼が魏志倭人伝にある倭国の地名・人名などを漢字で伝えた人物である証
拠が幾つか見つかりました。よろしければ拙ブログ「
【検証22】難升米という人物は?(その1)」をご参照ください。
また、邪馬台も難升米が帯方郡太守劉夏との談合で名付けたもので、意味はヤマコクに住む女王です。ヤマイチという母音を重ねるのは当時の倭人は避けていたようです(
安本美典「倭人語の解読」勉誠出版)。ヤマユイと読むとしても、そのような意味を持つ国は見つかっていませんが、邪馬台国は宇佐市安心院町で発見しています。奈良時代に野麻郷と呼ばれていました。三柱山に径百余歩の円墳が見つかり、そのすぐ近傍に残る血野という地名は、地元では戦国時代に安心院氏が斬り殺されたという別の伝承が残されているのですが、卑弥呼の奴婢百余名を殺した場所を示唆しています。また、卑弥呼の宮室は三女神社だと思われますが、西の河原に同名の頓宮があり卑弥呼の墓の遥拝所です。その地名が字ヒカケという日食を意味しますので、247年3月24日の日没前の日食が理由で卑弥呼が殺されたことを示唆しています。よろしければこちらも拙ブログ「
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」をご参照ください。
刮目天一
@北島正隆 さん それは面白いですが、なぜ纏向遺跡をヤマトと呼んだかについては、ヤマト王権の成立過程を推理して分かりました。詳細は拙ブログ「
何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」をご参照ください。
北島正隆さん
@刮目天一 さん
読みの問題は一度捨てた方がいいのでは?という話をしております。
その一例として邪馬台国からヤマトに繋がったとは限らないのでは、という話をしております。
その論拠として、邪馬台国の邪は当時の魏の発音ではヤとは読まなくて、ジャだったらしいという話をしております。
別の論拠として、ヤマトのヤも、数字の八から来てる可能性を例として挙げております。
そもそもは、伊都の国は神と通じる聖職者が政治を行う都という意味に取れるので、倭人の発音を聞いた説は論拠が無くなったという話もしております。
そこで「ヤマユイ」というのもおかしいのではないかと疑問を投げかけております。
北島正隆さん
日食の責任を取って殺されたのなら、立派な墓は残っていないのではという疑問もあります。
安心院にて夕方の日食が観測できるはずがないのでは、という疑問も投げかけております。
行程はつじつま合わせで作られた可能性があるとは仰っていますが、つじつま合わせで論を組みたてて
それが正しいと論じているのは間違いだと思います。
つじつま合わせで作られたというのは、あくまでそういう可能性があるということで、確定ではありません。
可能性がある、という部分と、確定している、ということをごっちゃにしてはいけません。
刮目天一
@北島正隆 さん
拙ブログをご参照頂き感謝します。
とても参考になるご意見を頂きました。順次お答えします。
①日食の責任を取って殺されたのなら立派な墓は残っていないはず
卑弥呼の政治を輔佐するとした男弟というのは伊都国に王都を構える男の王と推理しています(その根拠はいくつかありますが拙ブログ「
【検証22】難升米という人物は?(その1)」をご参照ください)。この倭国王が、247年3月24日の日食が太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎だったから起こったと考え、丁度狗奴国が攻め寄せる情報が入ったので、不吉な前兆と捉え、それを回避したいために卑弥呼を殺害したものと推理しています。魏志倭人伝にある持衰(じさい)に対する考え方と同様だと考えました(「
卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか?(^◇^)」参照)。
しかし、卑弥呼は倭国の統治者ではないと考えていますが、太陽神に近い高貴な人物だという認識なので、遺骸を討ち捨てると、不慮の死を恨み、倭国に祟りをなすかもしれないと畏れ、祀ったのだと考えられます。
百余名の奴婢を殉葬することも、高貴な人物が死後の世界でも困らないことを願うものと考えられますから、卑弥呼を殺しておきながら、それなりの大きさの墓に埋葬することは、矛盾するものではないと当時の人は考えるからではないかと思います。
そして、日食で殺されたことを示唆するものが、卑弥呼の墓から約500m南の深見川の河原に遥拝所が作られており、その地名が日食に因む地名「ヒカケ(日欠け)」が現在まで残っていることです。もうひとつは、卑弥呼の一族の末裔と考える和邇氏が近江八幡市で日食を連想する地名「日触山」で祀っていることです。もとは日蝕社という社名だったと考えています(「
【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆」「
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろ(@_@)」参照)。このような状況ですので、安心院町下毛字三柱山の径百余歩(直径約150m)の急造りの円墳を卑弥呼の墓と比定しました。
②(邪馬台国への)行程はつじつま合わせで作られた可能性があるとは仰っていますが、つじつま合わせで論を組みたてて それが正しいと論じているのは間違いだと思います。
「つじつま合わせ」という言葉が二度出てきますが、前者と後者は意味が違いますので混同してはいけないと思います。最初のものは魏志倭人伝の基になったと考える魏使の報告書の中の邪馬台国への行程が書かれた理由です。後者は当方が採用した仮説構築の手法の話ですので、分けて考えていただきたいと思います。前者については「
【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)」を、後者は「
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」をご参照ください。
なお、当方が構築した仮説は現在分かっている事象群を無理なく説明できるものです。この仮説が歴史の真相を表している蓋然性が高いと考えていますが、あくまで仮説ですので、真相そのものであるとは断定しておりません。事象の因果関係の誤謬や事実誤認の可能性もあり、将来発見される事象によっては覆される可能性があります。そういう意味であくまでも仮説なのです。しかし、構築の過程で事象群を適切に説明するものですので、大きくは変わらないだろうとは考えています。
刮目天一
③邪馬台国からヤマトに繋がったとは限らないのでは
邪馬台国の読みが「ヤマト」ですが、「邪」は「ヤ」と読み、「台」も正しくは「ト」(甲種)ではなく「トゥ」(乙種)と読むことは知られています(
安本美典「倭人語の解読」勉誠出版)。ヤマトは「日本書紀」景行天皇紀十七年に「夜摩苔」と書かれていますし、その他万葉集仮名で当てられたものは乙種の「ト」の文字となっていることから分かっています(「
文献にあらわれたヤマト」より)。
④「ヤ」が数字の八から来ている
「ヤ」と「マ」を分解して意味を考えられていますが、「邪馬」は「山」の意味でこのような卑字をあてたものと推理しています。それは漢字を読み書きできた、伊都国を王都とする倭国王難升米(魏志倭人伝の伊都国男王)が帯方郡太守劉夏に書いて教えたのだと推理しています。伊都国はおっしゃる通り
「聖職者が政治を行う都という意味」もあり、難升米が奴国宮廷楽師で司祭だったと推理した師升に因む王の名前だからです(「
【検証22】難升米という人物は?(その1)」、「
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。伊都国にこのような好い意味の文字が使われており、その他の多くの地名や人名などにいわゆる「卑字」がたくさん当てられていることから分かります。難升米が漢字を読み書きできない倭人や敵対する人物をバカにして「卑字」を当てたと推理しています。
⑤倭人の発音を聞いた説は論拠が無くなったという話もしております。 そこで「ヤマユイ」というのもおかしいのではないかと疑問を投げかけております。
范曄後漢書倭伝の邪馬台国の唐注に
「案今名邪摩惟音之訛也」とあり、倭人語の二重母音を避ける「邪摩惟(ヤマユイ)国」との発音を主張される方もいるようなので、例に出しただけです。隋書俀国伝などでは「邪靡堆」などと「堆」が使われているので、「邪摩惟」というのは誤写と考えるのが好いと思います(
塚田敬章「魏志「邪馬壹(邪馬壱)国」説」より)。
北島正隆
@刮目天一 さん
そもそも卑弥呼が火の巫女、日の巫女に繋がるとは言えないのでは。
台湾の学者の話だと卑は酒器のことだそうです。卑弥呼とは酒器をもって
神に仕えるような巫女的性格を表しているという見解です。
つまり「卑」は別称ではないという指摘です。
残念ながら、こういう点においては中国や台湾の方が正確だと思います。
魏志倭人伝は中国語で書かれた中国の書物です。
伊都の国には卑弥呼の弟がいたと断言できるものでもありません。
卑弥呼が日食の責任を取らされたとも断言できるものでもありません。
ヤマトの音の元になったのは邪という漢字に限らないのでは、
例えば八がヤの音の元になったとかありえないだろうか、という疑問です。
魏の当時、邪はジャと発音していたらしい、とWikipediaにあります。
八の字がヤマトのヤになった、とまでは主張はしてません。
Wikipediaには、当時、馬はマ、バ、ではなくラだったらしいともあります。
邪馬壱はジャライ、ジャライーだったかもしれません。
邪馬壱国が狗邪韓国・対馬・壱岐の略なら、倭人が母音の重なりを避けるとしても
こう名前を付けたのは中国側でしょう。倭人風に名付けたとは限らないのでは?
刮目天一
@北島正隆 さん 早速、問題の本質に迫るいいご意見をありがとうございます。
一つひとつ見て行きましょう。
①つまり「卑」は別称ではないという指摘です。
蔑称だと思いますが、卑という字に元々酒器からそういう意味があったのはいいと思いますが、難升米という倭人の王が政治的な理由で懐柔した、それまで敵対勢力だった教養のない縄文系海人ムナカタ族の姫巫女を卑弥呼として卑字を使うことは十分考えられる話と考えています。勿論、魏使の報告書に書かせるわけですので、その時代の他の倭人は報告書などを見る機会は余りないし、ほとんどの人間は見ても漢字の意味は分からなかったと思いますけどね(^_-)-☆
②伊都の国には卑弥呼の弟がいたと断言できるものでもありません。
断言に近いですが、推理しているのですよ(*^▽^*)
政治的な理由は先に述べています。
③卑弥呼が日食の責任を取らされたとも断言できるものでもありません。
これも同じく、断言しているのではなく、すでに述べた証拠からその可能性が高いと推理しているのです。
④ヤマトの音の元になったのは邪という漢字に限らないのでは、
「邪」も「よこしま」という意味ですから卑字の例と考えてよいのではないかと考えています。
貴兄は「邪」は「八」の意味だとまでは主張していないのですか?
「邪馬壱はジャライ、ジャライーだったかもしれません。」とのことですが、ならば「邪馬壹」とはどういう意味があるのでしょうか?
当方は、邪馬壹国は邪馬台国の誤写か、魏臺が魏の明帝を指すこともあるので、写した役人が東夷の女王に「臺」という高貴な字を用いるのを憚って似た文字の「壹」に置き換えたものと考えています。つまり邪馬台はヤマコクに住む女王卑弥呼を指す言葉と考えています。安心院町は奈良時代には野麻(ヤマ)郷とされていました。龍王山の南側に仙の岩という代表的な耶馬渓もありますよ。そうです、「邪」をこれから分化した「耶」と置き換えていますね。後の時代の人だと思います(^_-)-☆
⑤こう名前を付けたのは中国側でしょう。倭人風に名付けたとは限らないのでは?
漢字を読み書きできる倭人で、孟子も読む教養人の倭国王難升米が書いて教えたという推理をしています。これによって、従来考えられていたような邪馬台国の場所とは異なる安心院町宮ノ原遺跡付近で卑弥呼の宮室や墓やその他の証拠と言えるものを発見したことを裏付ける話になっているのですよ( ^)o(^ )
貴兄がいろいろな事象をどのように解釈しても構いませんが、それによって謎が解明されるのであればその解釈は意味があると言えます。しかし、そのようなものを示さなければ、その解釈はあまり意味がないと思います。
まさに、邪馬台国問題が二、三百年たっても解決しなかったのはそういう単なる解釈のための解釈だったのが原因だったと考えています。分かり易い言葉でいうと、
「木を見て森を見ない」ということです。ですから、それを打破するために科学的な推論法を適用して仮説を構築し、数多くの検証を加えて、謎を解き明かしていますので、拙ブログ
「古代史の謎を推理する」で提案した解決手法を是非ご理解くださいね( ^)o(^ )
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は
「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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