刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

正しい建国史を知ろう!(^_-)-☆

2022-04-17 00:00:12 | 古代史
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わたしの経済学の師匠としてYouTubeで勉強させてもらっている三橋貴明先生が建国史と考えているものは日本国を正しく導くものではないと考えているので、ご迷惑かも知れませんがその都度誤りを指摘するコメントをしています。お付き合いください(*^▽^*)



ここに居られる方は皆日本を大切に思うことで共通していると思います。しかし、学問に対する姿勢によってその人の語ることが真実かウソかを見分けられます。学問であるかそうでないかは事実に基づくかどうかで判定できます。イデオロギーに基づき事実を曲げるものは学問ではないのです。

残念ながら神武天皇の存在を学問的に示す証拠は現在までありません。例えば、初代天皇とされる天皇家の最も重要な方の陵墓として明らかになったものは日本に存在していません。橿原の陵墓は江戸時代にお上の権威を示すために定めたものと言われています(「橿原神宮(奈良)には誰が祀られている?神武天皇が日向から旅立ち」参照)。

日本の古代史が謎だらけなのは、文献に書かれていることが事実ではないことから起こっています。文献に事実が書かれているのならば考古学などの成果と矛盾することはありません。そういうことから現存する最古の正史「日本書紀」や最古の歴史書とされている「古事記」は事実を記録したものではなく、いわば創作された偽の歴史書だと考えられます。

「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じたので天皇家の歴史書だと思い込んでいますが、崩御されて30年以上経った720年に完成しています。ですから、時の権力者藤原不比等が不都合な史実を隠蔽し、藤原氏に都合のよい歴史に改ざんしたと推理できます。

712年に完成したとされる「古事記」が初めて登場するのは9世紀です。「日本書紀」を講義していた学者多人長(おおのひとなが)が言い出して表に出ましたが、その序文は人長が書いたものだと分かります。偽書説はwiki「古事記」にありますのでご参照ください(「古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4)」参照)。そういうことを語らずに、最古の歴史書だから信じるというのは学問に対する姿勢がダメだと言わざる得ません。

ということですが、これらの歴史書を無視していいと言っているのではありません。歴史を記すには文献が必要だからです。ですから、藤原不比等の意図を推理して考古学や民俗学の成果によって歴史書の真偽を判定し、事実にそった歴史を書き表すことができます。詳細は拙ブログ「古代史の謎を推理する」を参照してください。

【関連記事】
正史は正しい歴史なのか?|д゚)
「魏志倭人伝」を聖典のように考えている研究者が多いが、シナの正史も権力者の正統性を主張するための政治文書なので、どこに歴史の改ざんがあるのかを見抜く必要がある。編纂者の陳寿は史官として当然、権力者にとって不都合な真実を隠したが、歴史家のプライドから「魏志の筆法」として真相解明のヒントを後世に残した。だが、すでに恐らく隋・唐代あたりから現代まで関係史料の原本が戦乱などで散逸し、ほとんど残っていないので、その知識で「魏志倭人伝」をいくら正しく読んでも正解は得られないことは、二十一世紀になっても邪馬台国の場所が確定しないことから証明されている。史書に書かれたものが事実かどうかも考古学などでしか検証できないので、ここで提案する科学的な手法によって歴史の真実を推理し、検証して解明するしかないということに気付く必要がある。
誤解と幻想の神武東征(^◇^)
神武天皇はいつ即位した?

【科学的に推理した日本建国史】




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倭人が邪馬台国と書いて教えたのはホント?( ^)o(^ )

2022-04-16 09:49:25 | 古代史
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2022-04-13 00:00:43 にアップした「邪馬台国と卑弥呼の日食の謎(^_-)-☆」でご紹介した方との邪馬台国の文字に関わる議論が続いていますので、お付き合いください。


北島正隆
@刮目天一 さん
邪馬台国と書いた時、当時の魏の発音では ジィア ラ アイ クヮクだったようです。Wikipediaにあります。
(Wikipedia 邪馬台国 2022年4月15日閲覧 3.1 発音と表記)
母音が重なっています。
刮目さんのご意見の通りなら、倭人の発音を記したということと母音の重なりを嫌うという、両方とも刮目さんのご意見ですが、矛盾しますが?
当時の読み方はどうであったか、ということを全く知らずに組み立てた論だから矛盾がある、ですね?

邪馬壱国だった場合、壹は魏壹の意味から考えると大変高貴な文字であり、東夷に使うわけにはいかないのでこれを台にしたり一にして、
邪馬台国や邪馬一国という表記にしたというならわかります。逆はあり得ないのではないでしょうか?
邪馬台国を邪馬壱国と書き間違えたという話です。後日とはいえ中国人はそういう失敗は起こさないと思いますが。
台与と壱与についてもそうです。台与を壱与に書き写し間違いはしないと思いますが。
すると元々は邪馬壱国が正しいと回帰しませんか?

邪馬壹國でも邪馬臺國でも、邪という悪い意味の漢字と、壹または臺という画数が多い漢字を両方使っています。
画数が多い漢字は格が高い漢字という当時の価値から考えても、東夷に使っていること、しかも邪と同じ国名に使っていることに、
違和感を感じませんでしたか?

卑弥呼だって、卑(これは刮目さんの論によると蔑称です)と、彌という画数が多いしかもいい意味の漢字と両方使っています。
ここには疑問がなかったのですか?

万葉仮名はWikipediaによると7世紀初め(650年以前)にさかのぼるらしい。ですが卑弥呼の時代(250年頃)から400年もあとです。
更に、ヤを表すのに「邪」は使われていないようです。このWikipediaのページには「耶」はありましたが「邪」は無い。



刮目天一
@北島正隆 さん 参考になるご意見、ありがとうございます。
一つひとつ見て行きましょうね !

①母音が重なっています。
シナ人が漢字をどう発音しようと構いませんが、漢字を書いて教えた倭人は二重母音を避けていたということです。

②当時の読み方はどうであったか、ということを全く知らずに組み立てた論だから矛盾がある、ですね?
ですから、このご意見は当たりませんよ(*´Д`)

③すると元々は邪馬壱国が正しいと回帰しませんか?
ぜんぜん理解できません。魏壹という言葉を初めて聞きました。出典は?
壹与についても説明していませんでしたが、おっしゃる通り、「台与を壱与に書き写し間違いはしないと思いますが。」は概ね好いと思います。しかし絶対にそうだとは言い切れませんが、恐らく臺与を避けたのだと思います。
臺與はトヨと読みます。豊国、豊後・豊前、豊姫など九州の至る所に現れます。壹與が正しいとすると愛媛県くらいしか見当たりませんが(´ω`*)

④画数が多い漢字は格が高い漢字という当時の価値から考えても、東夷に使っていること、しかも邪と同じ国名に使っていることに、
違和感を感じませんでしたか?

全然違和感はないですよ。何故ならば教養人である倭人の王が自分の教養をひけらかす意味で画数の多い文字を使うことはあると思います。でもそれが格が高い文字だとか高貴だとかは言えるのか分かりませんね(´ω`*)

⑤卑弥呼だって、卑(これは刮目さんの論によると蔑称です)と、彌という画数が多いしかもいい意味の漢字と両方使っています。
ここには疑問がなかったのですか?

ご指摘、有難うございます。彌が卑を打ち消すなど全く思いもよりませんでした。じゃあ何故、「卑字」という言葉が存在するのですか?

⑥万葉仮名はWikipediaによると7世紀初め(650年以前)にさかのぼるらしい。ですが卑弥呼の時代(250年頃)から400年もあとです。
「万葉仮名(まんようがな)は、主として上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のことである。」wikiにあります。倭人の発音を漢字の音を当てていますので、当時に3世紀の倭人の発音が伝えられていたことが分かるのですよ(^_-)-☆

⑦更に、ヤを表すのに「邪」は使われていないようです。このWikipediaのページには「耶」はありましたが「邪」は無い。
これこそ大発見です。有難う御座います。「邪」という文字はよほどじゃないと使わないということなのでしょうね。書いて教えた人物の感情が入っている文字ですから、邪馬台国と漢字で書いて教えた人物が卑弥呼に対してどういう感情を持っていたのかまではっきり読み取れるということですね。

とてもいいコメントを有難う御座いました。お願いですが、今後はわたしのブログに直接コメントいただけると有り難いです。どうぞよろしくお願い致します。

【関連記事】
【検証22】難升米という人物は?(その1)
景初三年六月に帯方郡に出かけて太守劉夏と談合して行程記事を作ったこの人物が古代史解明のカギを握っていました(^_-)-☆
この人物が奴国を滅ぼした師升王の血を引く倭国王で漢字を読み書きできる教養人だったということが分かると、邪馬台国や卑弥呼に対する幻想が払しょくされ、キーマン難升米の感情まで推理できますよ(@_@)

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ
邪馬台国への行程記事は西晋の宣帝と諡された魏の実力者司馬懿の功績を曹魏第一とするために、司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏と倭国王難升米が談合して作られたものだと推理しました。帯方郡より東南万二千里の海上から魏のライバルの呉を挟み撃ちする位置に邪馬台国があるとして、邪馬台国への行程を以下の図のように改ざんしました。卑弥呼を倭国の支配者ということにして、自ら女王卑弥呼の男弟という設定にしたのも魏の朝廷の人々の注目を集めるためですよ。西晋の史官陳寿はこのような行程記事などが書かれた報告書を宮廷の書庫で見て、魏志倭人伝を書きました。(^_-)-☆ 



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ヤマトに祟る神はこの三柱だった?(´・ω・`)

2022-04-15 19:05:34 | 古代史
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刮目天一
毎度!なぜこんなにも祀る意味が良く分からない神様たちを祀らなければならないか分かりましたよ。
実は、日本建国時代にヤマトを怨んで亡くなった貴人が日本に天変地異や疫病などを引き起こす崇り神だとヤマト朝廷が考えて祀っています。主に、三柱が大和朝廷にとって怖ろしいと思っていたようです。しかし、大和朝廷を牛耳る藤原氏は日本建国の史実が都合が悪いので、この三柱の神の分身をいくつも作って、正体が分からないようにして多くの神社で祀ったのです。でも、多くの人々は怖い神々が誰のことか大体分かっていたようです。さて、一体誰のことでしょうか?詳しくは拙ブログ「古代史のカギを握る神々の正体?(^_-)-☆」を参照してね( ^)o(^ )


この三柱の神は以下のとおり、様々な分身として祀られています。

卑弥呼=八幡比咩大神=宗像三女神イチキシマヒメ等

大国主狗古智卑狗=サルタヒコ=武内宿禰=高良玉垂大神=天日矛=ツヌガアラシト等々

台与=アメノウズメ=神功皇后=ヒメコソ=アカルヒメ=白山比咩=菊理媛=豊受大神等々

さらに神仏習合して、仏教の神々として寺院のご本尊になっていますよ(^_-)-☆

卑弥呼=弁財天

大国主=弥勒菩薩=大日如来

台与=十一面観音=ダキニ天

日本という国を理解したければ、日本建国の歴史を知る必要があるということなのですから面白いですよ(^_-)-☆



【関連記事】
【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆


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邪馬台国と卑弥呼の日食の謎(^_-)-☆

2022-04-13 00:00:43 | 古代史
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刮目天一
邪馬台国解明のカギは、当時の倭人の中には漢字を読み書きできる人間が居たということです。弥生後期に福岡市雀居遺跡で木製の組み机一式が発掘されていますし、今まで砥石と思われていたものが硯の欠片であると分かってきました。
そうなると、従来漢字を読み書きできない倭人から魏の役人が聞いたとする地名や人名などは、その発音を聞いて韻書の最初の文字を当てたとする通説が成り立たなくなります。漢字で教えた倭人が居たということです。

そして、魏志倭人伝は陳寿が何のために書いたものかを考えると、西晋の宣帝、魏の実力者司馬懿の功績を寿ぐ目的だったということに気付きます。そうなると、邪馬台国は魏にとって戦略上重要な位置にあるとしなければならないことなど潤色がかなりあり、行程記事はそれのつじつま合わせで作られた可能性があります。また、邪馬台国7万戸というのも、方角もあてにならないと分かります。ですから、行程記事に頼らずに、考古学の成果から日本建国の過程を推理することによって邪馬台国を見つけなければならないということで、それは既に可能になっています。

さらに、現存する日本最古の正史「日本書紀」は壬申の乱を勝利した天武天皇が編纂を命じたので多くの方は天皇家の歴史書だと思い込んでいますが、実は完成前に崩御しており、その三十年も後に完成していますから、その当時の権力者藤原不比等が藤原氏に都合のよい歴史に書き換えたと考えることができます。そうすると不比等の目的を考えて、考古学や民俗学の成果を用いて日本建国の真相を解明することができました。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。その過程で卑弥呼の宮室も墓も見つかっています。お邪魔しました。

北島正隆さん
伊都の国
伊には「神と通じる聖職者」の意味があり、都は首都、みやこ。
すると伊都の国とは「神と通じる聖職者が政治を行っていた首都」という意味になります。
代々王がいるし帯方郡の使者が常駐する?常に足を止める?ともあるし。
名前の意味と、魏志倭人伝に書かれた内容が一致します。
従って、この側面からも倭人の発音に魏の人間が漢字を充てた説が成り立たなくなります。

邪馬壱国は中華思想から考えると、東夷の倭人の国に「壹」と高貴な漢字を使ってるのが疑問です。
しかも同一国名に邪という悪い意味の漢字と壹と両方使っているのが尚更です。
狗邪韓国ー対馬ー壱岐の略で邪馬壱国と呼んだ可能性を考えます。
魏志倭人伝にはいくつか版本が現存し、邪馬一という表記もあるとのこと。
邪馬一は狗邪韓国・対馬・一支の略で表記ゆれがあるもの、と解せます。

方角と旅程は誤差の範囲で正確だとは思います。


(参考記事)「【邪馬台国問題】短里がダメな理由!(;一_一)」

刮目天一
@北島正隆 さん いい情報をありがとうございます。
「伊」の意味はおっしゃるとおりです。Wiktrionary「伊」によれば『「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。』とあります。伊都国はこの伊尹に因む王都を意味します。「孟子 尽心上篇」によれば伊尹は放蕩の主君太甲を追放したことでその評価が議論されています。この伊都国の男王が最初の魏への使者大夫難升米で、107年に後漢に朝貢した帥升(正しくは師升)王の一族の頭目(かしら)を意味する名前でした。彼が魏志倭人伝にある倭国の地名・人名などを漢字で伝えた人物である証
拠が幾つか見つかりました。よろしければ拙ブログ「【検証22】難升米という人物は?(その1)」をご参照ください。
また、邪馬台も難升米が帯方郡太守劉夏との談合で名付けたもので、意味はヤマコクに住む女王です。ヤマイチという母音を重ねるのは当時の倭人は避けていたようです(安本美典「倭人語の解読」勉誠出版)。ヤマユイと読むとしても、そのような意味を持つ国は見つかっていませんが、邪馬台国は宇佐市安心院町で発見しています。奈良時代に野麻郷と呼ばれていました。三柱山に径百余歩の円墳が見つかり、そのすぐ近傍に残る血野という地名は、地元では戦国時代に安心院氏が斬り殺されたという別の伝承が残されているのですが、卑弥呼の奴婢百余名を殺した場所を示唆しています。また、卑弥呼の宮室は三女神社だと思われますが、西の河原に同名の頓宮があり卑弥呼の墓の遥拝所です。その地名が字ヒカケという日食を意味しますので、247年3月24日の日没前の日食が理由で卑弥呼が殺されたことを示唆しています。よろしければこちらも拙ブログ「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」をご参照ください。

刮目天一
@北島正隆 さん それは面白いですが、なぜ纏向遺跡をヤマトと呼んだかについては、ヤマト王権の成立過程を推理して分かりました。詳細は拙ブログ「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」をご参照ください。

北島正隆さん
@刮目天一 さん
読みの問題は一度捨てた方がいいのでは?という話をしております。
その一例として邪馬台国からヤマトに繋がったとは限らないのでは、という話をしております。
その論拠として、邪馬台国の邪は当時の魏の発音ではヤとは読まなくて、ジャだったらしいという話をしております。
別の論拠として、ヤマトのヤも、数字の八から来てる可能性を例として挙げております。
そもそもは、伊都の国は神と通じる聖職者が政治を行う都という意味に取れるので、倭人の発音を聞いた説は論拠が無くなったという話もしております。

そこで「ヤマユイ」というのもおかしいのではないかと疑問を投げかけております。


北島正隆さん
日食の責任を取って殺されたのなら、立派な墓は残っていないのではという疑問もあります。
安心院にて夕方の日食が観測できるはずがないのでは、という疑問も投げかけております。

行程はつじつま合わせで作られた可能性があるとは仰っていますが、つじつま合わせで論を組みたてて
それが正しいと論じているのは間違いだと思います。
つじつま合わせで作られたというのは、あくまでそういう可能性があるということで、確定ではありません。
可能性がある、という部分と、確定している、ということをごっちゃにしてはいけません。


刮目天一
@北島正隆 さん
拙ブログをご参照頂き感謝します。
とても参考になるご意見を頂きました。順次お答えします。

①日食の責任を取って殺されたのなら立派な墓は残っていないはず
卑弥呼の政治を輔佐するとした男弟というのは伊都国に王都を構える男の王と推理しています(その根拠はいくつかありますが拙ブログ「【検証22】難升米という人物は?(その1)」をご参照ください)。この倭国王が、247年3月24日の日食が太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎だったから起こったと考え、丁度狗奴国が攻め寄せる情報が入ったので、不吉な前兆と捉え、それを回避したいために卑弥呼を殺害したものと推理しています。魏志倭人伝にある持衰(じさい)に対する考え方と同様だと考えました(「卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか?(^◇^)」参照)。



しかし、卑弥呼は倭国の統治者ではないと考えていますが、太陽神に近い高貴な人物だという認識なので、遺骸を討ち捨てると、不慮の死を恨み、倭国に祟りをなすかもしれないと畏れ、祀ったのだと考えられます。
百余名の奴婢を殉葬することも、高貴な人物が死後の世界でも困らないことを願うものと考えられますから、卑弥呼を殺しておきながら、それなりの大きさの墓に埋葬することは、矛盾するものではないと当時の人は考えるからではないかと思います。

そして、日食で殺されたことを示唆するものが、卑弥呼の墓から約500m南の深見川の河原に遥拝所が作られており、その地名が日食に因む地名「ヒカケ(日欠け)」が現在まで残っていることです。もうひとつは、卑弥呼の一族の末裔と考える和邇氏が近江八幡市で日食を連想する地名「日触山」で祀っていることです。もとは日蝕社という社名だったと考えています(「【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆」「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろ(@_@)」参照)。このような状況ですので、安心院町下毛字三柱山の径百余歩(直径約150m)の急造りの円墳を卑弥呼の墓と比定しました。

②(邪馬台国への)行程はつじつま合わせで作られた可能性があるとは仰っていますが、つじつま合わせで論を組みたてて それが正しいと論じているのは間違いだと思います。
「つじつま合わせ」という言葉が二度出てきますが、前者と後者は意味が違いますので混同してはいけないと思います。最初のものは魏志倭人伝の基になったと考える魏使の報告書の中の邪馬台国への行程が書かれた理由です。後者は当方が採用した仮説構築の手法の話ですので、分けて考えていただきたいと思います。前者については「【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)」を、後者は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」をご参照ください。
なお、当方が構築した仮説は現在分かっている事象群を無理なく説明できるものです。この仮説が歴史の真相を表している蓋然性が高いと考えていますが、あくまで仮説ですので、真相そのものであるとは断定しておりません。事象の因果関係の誤謬や事実誤認の可能性もあり、将来発見される事象によっては覆される可能性があります。そういう意味であくまでも仮説なのです。しかし、構築の過程で事象群を適切に説明するものですので、大きくは変わらないだろうとは考えています。

刮目天一
③邪馬台国からヤマトに繋がったとは限らないのでは
邪馬台国の読みが「ヤマト」ですが、「邪」は「ヤ」と読み、「台」も正しくは「ト」(甲種)ではなく「トゥ」(乙種)と読むことは知られています(安本美典「倭人語の解読」勉誠出版)。ヤマトは「日本書紀」景行天皇紀十七年に「夜摩苔」と書かれていますし、その他万葉集仮名で当てられたものは乙種の「ト」の文字となっていることから分かっています(「文献にあらわれたヤマト」より)。

④「ヤ」が数字の八から来ている
「ヤ」と「マ」を分解して意味を考えられていますが、「邪馬」は「山」の意味でこのような卑字をあてたものと推理しています。それは漢字を読み書きできた、伊都国を王都とする倭国王難升米(魏志倭人伝の伊都国男王)が帯方郡太守劉夏に書いて教えたのだと推理しています。伊都国はおっしゃる通り「聖職者が政治を行う都という意味」もあり、難升米が奴国宮廷楽師で司祭だったと推理した師升に因む王の名前だからです(「【検証22】難升米という人物は?(その1)」、「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。伊都国にこのような好い意味の文字が使われており、その他の多くの地名や人名などにいわゆる「卑字」がたくさん当てられていることから分かります。難升米が漢字を読み書きできない倭人や敵対する人物をバカにして「卑字」を当てたと推理しています。

⑤倭人の発音を聞いた説は論拠が無くなったという話もしております。 そこで「ヤマユイ」というのもおかしいのではないかと疑問を投げかけております。
范曄後漢書倭伝の邪馬台国の唐注に「案今名邪摩惟音之訛也」とあり、倭人語の二重母音を避ける「邪摩惟(ヤマユイ)国」との発音を主張される方もいるようなので、例に出しただけです。隋書俀国伝などでは「邪靡堆」などと「堆」が使われているので、「邪摩惟」というのは誤写と考えるのが好いと思います(塚田敬章「魏志「邪馬壹(邪馬壱)国」説」より)。

北島正隆
@刮目天一 さん
そもそも卑弥呼が火の巫女、日の巫女に繋がるとは言えないのでは。
台湾の学者の話だと卑は酒器のことだそうです。卑弥呼とは酒器をもって
神に仕えるような巫女的性格を表しているという見解です。
つまり「卑」は別称ではないという指摘です。
残念ながら、こういう点においては中国や台湾の方が正確だと思います。
魏志倭人伝は中国語で書かれた中国の書物です。

伊都の国には卑弥呼の弟がいたと断言できるものでもありません。
卑弥呼が日食の責任を取らされたとも断言できるものでもありません。

ヤマトの音の元になったのは邪という漢字に限らないのでは、
例えば八がヤの音の元になったとかありえないだろうか、という疑問です。
魏の当時、邪はジャと発音していたらしい、とWikipediaにあります。
八の字がヤマトのヤになった、とまでは主張はしてません。
Wikipediaには、当時、馬はマ、バ、ではなくラだったらしいともあります。
邪馬壱はジャライ、ジャライーだったかもしれません。

邪馬壱国が狗邪韓国・対馬・壱岐の略なら、倭人が母音の重なりを避けるとしても
こう名前を付けたのは中国側でしょう。倭人風に名付けたとは限らないのでは?


刮目天一
@北島正隆 さん 早速、問題の本質に迫るいいご意見をありがとうございます。
一つひとつ見て行きましょう。
①つまり「卑」は別称ではないという指摘です。

蔑称だと思いますが、卑という字に元々酒器からそういう意味があったのはいいと思いますが、難升米という倭人の王が政治的な理由で懐柔した、それまで敵対勢力だった教養のない縄文系海人ムナカタ族の姫巫女を卑弥呼として卑字を使うことは十分考えられる話と考えています。勿論、魏使の報告書に書かせるわけですので、その時代の他の倭人は報告書などを見る機会は余りないし、ほとんどの人間は見ても漢字の意味は分からなかったと思いますけどね(^_-)-☆

②伊都の国には卑弥呼の弟がいたと断言できるものでもありません。
断言に近いですが、推理しているのですよ(*^▽^*)
政治的な理由は先に述べています。

③卑弥呼が日食の責任を取らされたとも断言できるものでもありません。
これも同じく、断言しているのではなく、すでに述べた証拠からその可能性が高いと推理しているのです。

④ヤマトの音の元になったのは邪という漢字に限らないのでは、
「邪」も「よこしま」という意味ですから卑字の例と考えてよいのではないかと考えています。
貴兄は「邪」は「八」の意味だとまでは主張していないのですか?「邪馬壱はジャライ、ジャライーだったかもしれません。」とのことですが、ならば「邪馬壹」とはどういう意味があるのでしょうか?
当方は、邪馬壹国は邪馬台国の誤写か、魏臺が魏の明帝を指すこともあるので、写した役人が東夷の女王に「臺」という高貴な字を用いるのを憚って似た文字の「壹」に置き換えたものと考えています。つまり邪馬台はヤマコクに住む女王卑弥呼を指す言葉と考えています。安心院町は奈良時代には野麻(ヤマ)郷とされていました。龍王山の南側に仙の岩という代表的な耶馬渓もありますよ。そうです、「邪」をこれから分化した「耶」と置き換えていますね。後の時代の人だと思います(^_-)-☆

⑤こう名前を付けたのは中国側でしょう。倭人風に名付けたとは限らないのでは?

漢字を読み書きできる倭人で、孟子も読む教養人の倭国王難升米が書いて教えたという推理をしています。これによって、従来考えられていたような邪馬台国の場所とは異なる安心院町宮ノ原遺跡付近で卑弥呼の宮室や墓やその他の証拠と言えるものを発見したことを裏付ける話になっているのですよ( ^)o(^ )

貴兄がいろいろな事象をどのように解釈しても構いませんが、それによって謎が解明されるのであればその解釈は意味があると言えます。しかし、そのようなものを示さなければ、その解釈はあまり意味がないと思います。
まさに、邪馬台国問題が二、三百年たっても解決しなかったのはそういう単なる解釈のための解釈だったのが原因だったと考えています。分かり易い言葉でいうと、「木を見て森を見ない」ということです。ですから、それを打破するために科学的な推論法を適用して仮説を構築し、数多くの検証を加えて、謎を解き明かしていますので、拙ブログ「古代史の謎を推理する」で提案した解決手法を是非ご理解くださいね( ^)o(^ )


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纏向遺跡のルーツはどこだ?(^_-)-☆

2022-04-12 00:00:53 | 古代史
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刮目天一
8 日前
纏向遺跡に九州の土器がほとんど出土してませんから、大陸、半島への玄関口であった伊都国に居た卑弥呼への贈り物を間違いなく届ける役目の一大率やその部下が来ていません。また祭祀を共にしていないので北部九州の倭国とは敵対する勢力がヤマト王権の発祥地の勢力と言えます!魏志倭人伝の記述から狗奴国と考えるのがよいです!熊本県の菊池の地名は狗奴国の官の狗古智卑狗に因む地名ですが狗奴国ではありません!東海地方は纏向遺跡の外来土器の半分ですからヤマト王権の勢力ですので狗奴国ではあり得ません!ですから纏向遺跡にある前方後円墳の箸墓は卑弥呼の墓ではないと断言すべきですよ!卑弥呼の直径約150mの墓は宇佐市安心院町三柱山で見つけました!詳しくは、拙ブロク「卑弥呼の墓は見つかっているよ!」をご参照下さい。お邪魔しました^_^


<纏向遺跡のルーツはどこだ?>
Takuya Amano
8 か月前
箸墓古墳は最初期の古墳でありながらデザインが完成されていますね。3世紀中頃、どこからこのデザイン感覚と土木技術が伝わってきたのか・・・、これからの調査と研究の進展が楽しみです。

考古学チャンネル
8 か月前
いつもコメントありがとうございます。本当にそうですね。先行する纏向石塚、勝山、矢塚、ホケノ山の延長線上にあると思いますが、これらの要素がどこから、どのようにしてこの地に結集されたのか、不思議ですね。少しずつ明らかになっていくことを期待したいですね!

awa kimi
2 か月前
@考古学チャンネル 宮崎県からでは無いのですか? 当然 神武東征によって。

刮目天一
8 日前
@考古学チャンネル さん 寺澤薫氏が前方後円墳の属性のルーツについて調べていますよ!墳形は漢、楽浪がルーツです。詳しくは拙ブログ【検証2】前方後円墳のルーツ」をご参照下さい。



宮古島パーントゥ
1 日前
赤穂の有年原田中遺跡の墳丘墓が葺石古墳にとても似ています

刮目天一
1 日前
@宮古島パーントゥ さん いい情報ありがとうございます。1号墳の両方に通路のようになっているのは楯築王墓と共通しているようですね。2号墳は橿原市瀬田遺跡と同様で、円形周溝墓に通路が一ヶ所つくられているので、前方後円墳のルーツだと考えていましたが、やはり吉備から来た勢力のものと考えていいと思います。
記紀神話で神武天皇よりも先に天孫降臨していたニギハヤヒは、楯築王墓の被葬者と推理していますので、その子孫が纏向に旧奴国勢力を集めた狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)でしょう。開化天皇と崇神天皇のモデルだと考えています。開化天皇の墓が纏向最初の前方後円墳の石塚古墳だと比定しています。ひょっとしたらニギハヤヒ大王を纏向で再葬したものかも知れませんが。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください(*^▽^*)

宮古島パーントゥ
17 時間前
@刮目天一

https://youtu.be/ynmkgFW9zZY

荻原2号墳はホケノ山古墳に似ているそうです。やはり岡山から徳島にかけての勢力が日本にとって重要な存在ですね。

刮目天一
17 時間前
@宮古島パーントゥ さん おっしゃる通り、ヤマト王権成立において重要な存在は確かです。しかし、阿波と讃岐の勢力は3世紀初頭はヤマト王権についていましたが、3世紀半ばから纏向に来ていません。そして萩原二号墓の朱が中国産と聞きましたので、卑弥呼が魏から貰ったものである可能性が高いです。阿波・讃岐の勢力は九州の邪馬台国勢力になったと考えられます。纏向には九州の外来土器はほとんどありませんから、纏向の祭祀にも参加していない邪馬台国とは敵対勢力と考えるべきです。そうすると纏向遺跡は狗奴国の本拠地と考えるのが良いですね(^_-)-☆


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考古学チャンネル
2 か月前
箸墓に先行するホケノ山古墳が既に石室を持っていますので、その辺りの時期には阿波の影響は既にあるようですね。機会があれば萩原2号墓を取材しようと思っていますが、やはり遠いですね(;^_^A。

刮目天一
8 日前
朱は前方後円墳のルーツと考えられる楯築王墓に大量に使われていますよ!
外来土器から考えると阿波の勢力は三世紀頭初は纏向遺跡に来ていますが三世紀半ばには来ていません!このことから阿波の勢力は纏向遺跡の狗奴国を裏切り邪馬台国に味方したのでそのご褒美で卑弥呼が魏から貰った朱が与えられたと推理出来ますよ!

awa kimi
8 日前
@刮目天一
返信ありがとうございました。ひとつお聞きしますが楯築遺跡に用いられている水銀朱の産地は何処になるのでしょうか?
もし国産品ならば弥生期における水銀朱の生産が証明されている徳島県の若杉山遺跡産の物だろうと思うのですが・・・。


刮目天一
8 日前
@awa kimi さん 楯築遺跡の大量の朱はご指摘のとおり若杉山の辰砂だというのが知られているようです。ただ、辰砂は列島の中央構造線付近で取れますので、縄文時代から使われていたようですね。弥生時代の甕棺にも使われています。しかし、萩原2号墳の朱は中国産ということを知りましたので、上のような推理が成り立つと考えています。

awa kimi
7 日前
@刮目天一
萩原2号墳に中国産の辰砂が使われているのをよくご存じですね。
自分は吉備地方の古墳には詳しくないのですが、邪馬台国が吉備だったというなら吉備地方の古墳にも中国産辰砂が使われている事例が存在しているはずですよね。
少なくとも畿内地方の古墳には中国産の物が使われている事例は存在していないようですが、その辺どうなんでしょうか?

刮目天一
7 日前
@awa kimi さん
別の動画でどなたかが教えて頂いたので、有難かったです。
吉備の王墓の朱は時代が卑弥呼よりも百年近く早いので、恐らく国産のものでしょう。多分阿波のものでしょうね。
これからいろいろと検証されると、すでにわたしが推定した女王に従う21国がほぼ確定に向かうはずです。中国産は卑弥呼のものだと仮定して。詳しくは拙ブログでどうぞ!

awa kimi
7 日前
@刮目天一
氏は九州説の方だったのですか・・・楯築遺跡を持ち出したり纏向を狗奴国と言っているあたりてっきり吉備説の方だと判断しておりました。
ならば氏がどういう目的で楯築遺跡の事を持ち出して来たのか良くわからないです


刮目天一
7 日前
@awa kimi さん 吉備こそヤマト王権のルーツで、さらに日本が古の倭の奴国だったということに気付かれていない方が多いですが、8世紀に大和の大王(おおきみ)を天皇と呼ぶ理由を楯築王墓で発見しました。詳しくは拙ブログ「【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!」「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!」などでどうぞ!




最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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