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古代史ランキング

刮目天一
8 日前
纏向遺跡に九州の土器がほとんど出土してませんから、大陸、半島への玄関口であった伊都国に居た卑弥呼への贈り物を間違いなく届ける役目の一大率やその部下が来ていません。また祭祀を共にしていないので北部九州の倭国とは敵対する勢力がヤマト王権の発祥地の勢力と言えます!魏志倭人伝の記述から狗奴国と考えるのがよいです!熊本県の菊池の地名は狗奴国の官の狗古智卑狗に因む地名ですが狗奴国ではありません!東海地方は纏向遺跡の外来土器の半分ですからヤマト王権の勢力ですので狗奴国ではあり得ません!ですから纏向遺跡にある前方後円墳の箸墓は卑弥呼の墓ではないと断言すべきですよ!卑弥呼の直径約150mの墓は宇佐市安心院町三柱山で見つけました!詳しくは、拙ブロク「卑弥呼の墓は見つかっているよ!」をご参照下さい。お邪魔しました^_^


<纏向遺跡のルーツはどこだ?>
Takuya Amano
8 か月前
箸墓古墳は最初期の古墳でありながらデザインが完成されていますね。3世紀中頃、どこからこのデザイン感覚と土木技術が伝わってきたのか・・・、これからの調査と研究の進展が楽しみです。
考古学チャンネル
8 か月前
いつもコメントありがとうございます。本当にそうですね。先行する纏向石塚、勝山、矢塚、ホケノ山の延長線上にあると思いますが、これらの要素がどこから、どのようにしてこの地に結集されたのか、不思議ですね。少しずつ明らかになっていくことを期待したいですね!
awa kimi
2 か月前
@考古学チャンネル 宮崎県からでは無いのですか? 当然 神武東征によって。
刮目天一
8 日前
@考古学チャンネル さん 寺澤薫氏が前方後円墳の属性のルーツについて調べていますよ!墳形は漢、楽浪がルーツです。詳しくは拙ブログ【検証2】前方後円墳のルーツ」をご参照下さい。

宮古島パーントゥ
1 日前
赤穂の有年原田中遺跡の墳丘墓が葺石古墳にとても似ています
刮目天一
1 日前
@宮古島パーントゥ さん いい情報ありがとうございます。1号墳の両方に通路のようになっているのは楯築王墓と共通しているようですね。2号墳は橿原市瀬田遺跡と同様で、円形周溝墓に通路が一ヶ所つくられているので、前方後円墳のルーツだと考えていましたが、やはり吉備から来た勢力のものと考えていいと思います。
記紀神話で神武天皇よりも先に天孫降臨していたニギハヤヒは、楯築王墓の被葬者と推理していますので、その子孫が纏向に旧奴国勢力を集めた狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)でしょう。開化天皇と崇神天皇のモデルだと考えています。開化天皇の墓が纏向最初の前方後円墳の石塚古墳だと比定しています。ひょっとしたらニギハヤヒ大王を纏向で再葬したものかも知れませんが。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください(*^▽^*)
宮古島パーントゥ
17 時間前
@刮目天一
https://youtu.be/ynmkgFW9zZY
荻原2号墳はホケノ山古墳に似ているそうです。やはり岡山から徳島にかけての勢力が日本にとって重要な存在ですね。
刮目天一
17 時間前
@宮古島パーントゥ さん おっしゃる通り、ヤマト王権成立において重要な存在は確かです。しかし、阿波と讃岐の勢力は3世紀初頭はヤマト王権についていましたが、3世紀半ばから纏向に来ていません。そして萩原二号墓の朱が中国産と聞きましたので、卑弥呼が魏から貰ったものである可能性が高いです。阿波・讃岐の勢力は九州の邪馬台国勢力になったと考えられます。纏向には九州の外来土器はほとんどありませんから、纏向の祭祀にも参加していない邪馬台国とは敵対勢力と考えるべきです。そうすると纏向遺跡は狗奴国の本拠地と考えるのが良いですね(^_-)-☆

****************************************************
考古学チャンネル
2 か月前
箸墓に先行するホケノ山古墳が既に石室を持っていますので、その辺りの時期には阿波の影響は既にあるようですね。機会があれば萩原2号墓を取材しようと思っていますが、やはり遠いですね(;^_^A。
刮目天一
8 日前
朱は前方後円墳のルーツと考えられる楯築王墓に大量に使われていますよ!
外来土器から考えると阿波の勢力は三世紀頭初は纏向遺跡に来ていますが三世紀半ばには来ていません!このことから阿波の勢力は纏向遺跡の狗奴国を裏切り邪馬台国に味方したのでそのご褒美で卑弥呼が魏から貰った朱が与えられたと推理出来ますよ!
awa kimi
8 日前
@刮目天一
返信ありがとうございました。ひとつお聞きしますが楯築遺跡に用いられている水銀朱の産地は何処になるのでしょうか?
もし国産品ならば弥生期における水銀朱の生産が証明されている徳島県の若杉山遺跡産の物だろうと思うのですが・・・。
刮目天一
8 日前
@awa kimi さん 楯築遺跡の大量の朱はご指摘のとおり若杉山の辰砂だというのが知られているようです。ただ、辰砂は列島の中央構造線付近で取れますので、縄文時代から使われていたようですね。弥生時代の甕棺にも使われています。しかし、萩原2号墳の朱は中国産ということを知りましたので、上のような推理が成り立つと考えています。
awa kimi
7 日前
@刮目天一
萩原2号墳に中国産の辰砂が使われているのをよくご存じですね。
自分は吉備地方の古墳には詳しくないのですが、邪馬台国が吉備だったというなら吉備地方の古墳にも中国産辰砂が使われている事例が存在しているはずですよね。
少なくとも畿内地方の古墳には中国産の物が使われている事例は存在していないようですが、その辺どうなんでしょうか?
刮目天一
7 日前
@awa kimi さん
別の動画でどなたかが教えて頂いたので、有難かったです。
吉備の王墓の朱は時代が卑弥呼よりも百年近く早いので、恐らく国産のものでしょう。多分阿波のものでしょうね。
これからいろいろと検証されると、すでにわたしが推定した女王に従う21国がほぼ確定に向かうはずです。中国産は卑弥呼のものだと仮定して。詳しくは拙ブログでどうぞ!
awa kimi
7 日前
@刮目天一
氏は九州説の方だったのですか・・・楯築遺跡を持ち出したり纏向を狗奴国と言っているあたりてっきり吉備説の方だと判断しておりました。
ならば氏がどういう目的で楯築遺跡の事を持ち出して来たのか良くわからないです
刮目天一
7 日前
@awa kimi さん 吉備こそヤマト王権のルーツで、さらに日本が古の倭の奴国だったということに気付かれていない方が多いですが、8世紀に大和の大王(おおきみ)を天皇と呼ぶ理由を楯築王墓で発見しました。詳しくは拙ブログ「【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!」「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!」などでどうぞ!

最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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刮目天一
8 日前
纏向遺跡に九州の土器がほとんど出土してませんから、大陸、半島への玄関口であった伊都国に居た卑弥呼への贈り物を間違いなく届ける役目の一大率やその部下が来ていません。また祭祀を共にしていないので北部九州の倭国とは敵対する勢力がヤマト王権の発祥地の勢力と言えます!魏志倭人伝の記述から狗奴国と考えるのがよいです!熊本県の菊池の地名は狗奴国の官の狗古智卑狗に因む地名ですが狗奴国ではありません!東海地方は纏向遺跡の外来土器の半分ですからヤマト王権の勢力ですので狗奴国ではあり得ません!ですから纏向遺跡にある前方後円墳の箸墓は卑弥呼の墓ではないと断言すべきですよ!卑弥呼の直径約150mの墓は宇佐市安心院町三柱山で見つけました!詳しくは、拙ブロク「卑弥呼の墓は見つかっているよ!」をご参照下さい。お邪魔しました^_^


<纏向遺跡のルーツはどこだ?>
Takuya Amano
8 か月前
箸墓古墳は最初期の古墳でありながらデザインが完成されていますね。3世紀中頃、どこからこのデザイン感覚と土木技術が伝わってきたのか・・・、これからの調査と研究の進展が楽しみです。
考古学チャンネル
8 か月前
いつもコメントありがとうございます。本当にそうですね。先行する纏向石塚、勝山、矢塚、ホケノ山の延長線上にあると思いますが、これらの要素がどこから、どのようにしてこの地に結集されたのか、不思議ですね。少しずつ明らかになっていくことを期待したいですね!
awa kimi
2 か月前
@考古学チャンネル 宮崎県からでは無いのですか? 当然 神武東征によって。
刮目天一
8 日前
@考古学チャンネル さん 寺澤薫氏が前方後円墳の属性のルーツについて調べていますよ!墳形は漢、楽浪がルーツです。詳しくは拙ブログ【検証2】前方後円墳のルーツ」をご参照下さい。

宮古島パーントゥ
1 日前
赤穂の有年原田中遺跡の墳丘墓が葺石古墳にとても似ています
刮目天一
1 日前
@宮古島パーントゥ さん いい情報ありがとうございます。1号墳の両方に通路のようになっているのは楯築王墓と共通しているようですね。2号墳は橿原市瀬田遺跡と同様で、円形周溝墓に通路が一ヶ所つくられているので、前方後円墳のルーツだと考えていましたが、やはり吉備から来た勢力のものと考えていいと思います。
記紀神話で神武天皇よりも先に天孫降臨していたニギハヤヒは、楯築王墓の被葬者と推理していますので、その子孫が纏向に旧奴国勢力を集めた狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)でしょう。開化天皇と崇神天皇のモデルだと考えています。開化天皇の墓が纏向最初の前方後円墳の石塚古墳だと比定しています。ひょっとしたらニギハヤヒ大王を纏向で再葬したものかも知れませんが。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください(*^▽^*)
宮古島パーントゥ
17 時間前
@刮目天一
https://youtu.be/ynmkgFW9zZY
荻原2号墳はホケノ山古墳に似ているそうです。やはり岡山から徳島にかけての勢力が日本にとって重要な存在ですね。
刮目天一
17 時間前
@宮古島パーントゥ さん おっしゃる通り、ヤマト王権成立において重要な存在は確かです。しかし、阿波と讃岐の勢力は3世紀初頭はヤマト王権についていましたが、3世紀半ばから纏向に来ていません。そして萩原二号墓の朱が中国産と聞きましたので、卑弥呼が魏から貰ったものである可能性が高いです。阿波・讃岐の勢力は九州の邪馬台国勢力になったと考えられます。纏向には九州の外来土器はほとんどありませんから、纏向の祭祀にも参加していない邪馬台国とは敵対勢力と考えるべきです。そうすると纏向遺跡は狗奴国の本拠地と考えるのが良いですね(^_-)-☆

****************************************************
考古学チャンネル
2 か月前
箸墓に先行するホケノ山古墳が既に石室を持っていますので、その辺りの時期には阿波の影響は既にあるようですね。機会があれば萩原2号墓を取材しようと思っていますが、やはり遠いですね(;^_^A。
刮目天一
8 日前
朱は前方後円墳のルーツと考えられる楯築王墓に大量に使われていますよ!
外来土器から考えると阿波の勢力は三世紀頭初は纏向遺跡に来ていますが三世紀半ばには来ていません!このことから阿波の勢力は纏向遺跡の狗奴国を裏切り邪馬台国に味方したのでそのご褒美で卑弥呼が魏から貰った朱が与えられたと推理出来ますよ!
awa kimi
8 日前
@刮目天一
返信ありがとうございました。ひとつお聞きしますが楯築遺跡に用いられている水銀朱の産地は何処になるのでしょうか?
もし国産品ならば弥生期における水銀朱の生産が証明されている徳島県の若杉山遺跡産の物だろうと思うのですが・・・。
刮目天一
8 日前
@awa kimi さん 楯築遺跡の大量の朱はご指摘のとおり若杉山の辰砂だというのが知られているようです。ただ、辰砂は列島の中央構造線付近で取れますので、縄文時代から使われていたようですね。弥生時代の甕棺にも使われています。しかし、萩原2号墳の朱は中国産ということを知りましたので、上のような推理が成り立つと考えています。
awa kimi
7 日前
@刮目天一
萩原2号墳に中国産の辰砂が使われているのをよくご存じですね。
自分は吉備地方の古墳には詳しくないのですが、邪馬台国が吉備だったというなら吉備地方の古墳にも中国産辰砂が使われている事例が存在しているはずですよね。
少なくとも畿内地方の古墳には中国産の物が使われている事例は存在していないようですが、その辺どうなんでしょうか?
刮目天一
7 日前
@awa kimi さん
別の動画でどなたかが教えて頂いたので、有難かったです。
吉備の王墓の朱は時代が卑弥呼よりも百年近く早いので、恐らく国産のものでしょう。多分阿波のものでしょうね。
これからいろいろと検証されると、すでにわたしが推定した女王に従う21国がほぼ確定に向かうはずです。中国産は卑弥呼のものだと仮定して。詳しくは拙ブログでどうぞ!
awa kimi
7 日前
@刮目天一
氏は九州説の方だったのですか・・・楯築遺跡を持ち出したり纏向を狗奴国と言っているあたりてっきり吉備説の方だと判断しておりました。
ならば氏がどういう目的で楯築遺跡の事を持ち出して来たのか良くわからないです
刮目天一
7 日前
@awa kimi さん 吉備こそヤマト王権のルーツで、さらに日本が古の倭の奴国だったということに気付かれていない方が多いですが、8世紀に大和の大王(おおきみ)を天皇と呼ぶ理由を楯築王墓で発見しました。詳しくは拙ブログ「【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!」「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!」などでどうぞ!

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通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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