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神籠石は最初に誰が作った?( ^)o(^ )

2022-04-22 23:12:30 | 古代史
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今回のテーマ「神籠石(こうごいし)」は「九州地方から瀬戸内地方にある、石垣で区画した列石遺跡の総称。一般には『日本書紀』や『続日本紀』に記載がなく遺構でのみ存在が確認される山城を指す。」(wiki「神籠石」より)とありますが、文献が一切なく、7世紀の白村江の敗戦後に作られたという説が有力です。しかし、神籠石の名前の由来は、高良大社の主祭神高良玉垂(たまだれ)命が大石の上に神馬の蹄(ひづめ)の址を残されたと伝承のある磐座「馬蹄石」から始まる列石です。高良大社の祭神としては他に八幡大神と住吉大神(仲哀天皇こと尾張王ヲトヨはこの神の祟りで死にました)を祀っており、これらの神はどちらも大国主のことです(八幡大神を応神天皇とするのは後のことです)。また本殿内には御客座があり、豊比咩大神(とよひめおおかみ)が合祀されており、高良玉垂命とは夫婦との説もあるようで、大国主と台与のことだと直ぐに分かります。大国主が高良山城に立てこもり奮戦して戦死したと推理した内容を下の動画にコメントをしましたので、お付き合いください( ^)o(^ )


考古学的に見る邪馬台国の場所。
1,950 回視聴2022/04/16 kanrekiman@YouTube

Y Oさん
動画お疲れ様です。
面白かったです。 墓の形で考えれば、これが正解に近いのではないかと存じます。
あとは「神籠石」が何者が作ったかの考察があればなぁと思っております。


kanrekimanさん
コメントありがとうございます!
高良大社の神籠石は磐井の乱のときに磐井が高良大社に山城を作ったという伝承もあるのでその時かもしれませんね。高良は戦略上の要所ですから邪馬台国の時代から山城として使われていた可能性もあるし、天智天皇時代に唐の侵攻に備えて改築したという可能性もあると思います


刮目天一
@kanrekiman さん 卑弥呼が倭国王難升米に暗殺された後に狗奴国側の倭国征討軍が北部九州に到着し、卑弥呼の弟赤坂比古が倭国から離反したので、難升米は帯方郡に逃亡したのだと考えています。

無傷で倭国を手に入れた征討軍の大将尾張王ヲトヨが狗奴国王卑弥弓呼を裏切って倭国王に立ったので、副将の山陰・丹波、北陸を支配する狗古智卑狗と内戦になって結局狗古智卑狗が勝利し、魏使張政の進言で13歳の台与を女王に立て、魏を後ろ盾にして狗奴国と対立することになります。

邪馬台国女王卑弥呼の領土を手に入れて、狗奴国側の領土を除いてほとんど支配したので、後世大国主と呼ばれました。狗奴国は恐らく呉を後ろ盾にしていたのですが、狗奴国側の実力者尾張王ヲトヨが殺されたので、父を殺された恨みを晴らすために建稲種命が大国主に復讐します。

その当時、大国主側の集落青谷上寺地遺跡などが狗奴国勢に攻撃され、無防備の人々が虐殺されます。そして尾張勢は大国主の本拠地を攻め、結局高良山に立てこもった大国主を討ち、女王台与を伊都国に追い詰めて敵(かたき)を討ちました。

そのころに大国主が高良山に山城を築いた址が神籠石として残っているのだと思います。

討たれた大国主は祇園山古墳に、女王台与は平原王墓に葬られたと推理しています。

日本書紀では尾張王ヲトヨが九州遠征で神の祟りで殺された仲哀天皇、その子の建稲種命を仲哀の祖父の景行天皇として誤魔化していますが、民話のさるカニ合戦はこの話をモチーフにして伝えられたものですよ。詳しくは拙ブログ「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)、(その2)」「尾張と言えばカニだ~わ!」をご参照ください。



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