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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

大国主はトビヘビだった(^◇^)

2022-01-20 16:24:24 | 古代史
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2020-05-29 15:12:54の記事に書いたリンク先が切れていましたので、内容を少し追加しました。最後までお付き合いください(*^▽^*)
登美の長髄彦(ナガスネヒコ)が神武天皇の即位に反対してニギハヤヒに殺されたという神話ですが(注1)、このニギハヤヒは、その直系のヤマトの大王を意味します。ヤマトに国譲りした大国主を、実は殺してヤマト政権を成立させ、大国主の子のホムダワケを祭祀王(初代天皇)として三輪山で大国主を祀らせた史実に基づいた神話だと分かりました。ナガスネヒコの父は事代主とのことです(紫竜様の「富家伝承と考古学~渡来編」のリンク先が切れていました。どなたかご存知の方はお教えください!)。事代主は大国主の子ですが、神話の中で創作された人物です。つまり三人とも大国主のことだったのです。日本建国の真相を隠すトリックでした。

最初の邪馬台国宇佐説の冨来隆先生が指摘していましたように富氏は登美(トミ・トビ)だと思います。その正体は東南アジアに生息する龍のように空を飛ぶトビヘビでしょう(注2)。



ご存知のとおり生駒市の富雄川流域にはナガスネヒコ、ニギハヤヒに関係する神社や遺跡が多いようです。また、奈良盆地南の桜井市の茶臼山古墳の所在地名が外山(トビ)ですから、大国主狗古智卑狗(出雲・丹波王)が第三次倭国大乱で戦死して葬られた久留米市の祇園山古墳(高良山の西麓)から、台与との間の子の応神天皇が即位した後、ヤマトに遷され前方後円墳で改葬されたと推理しました。大国主はヤマト朝廷が最も畏れる人物なのです。

前回見たとおり滇王国の羽人が出雲地方にも来ていました。滇王国は中国雲南省最大の淡水湖滇(てん)池付近に在った前漢時代の紀元前3世紀頃の国です。晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)から福岡県志賀島で発見された金印と同じ蛇紐の金印が発見されています。漢より与えられた金印などの紐(つまみ)の形は羊・亀など民族の特徴を表すことが知られているので、漢王朝は滇王と奴国王は同族と見ています。



ただし、奴国王はヘビをナーガと呼んで神と仰いでいた江南出身の倭(呉)人の王です。倭国の最初の王が紀元前4世紀に半島南部から福岡市早良平野の吉武高木遺跡に遷った天御中主(アメノミナカヌシ)です。「天」は海の意味ですからウミヘビ=奴(=ナーガ)を神とする国の御主人様=王という名前でした。呉王夫差の流れを汲む皇室の始祖王です。つまり倭人は周の先王古公亶父(ここうたんぽ)の長男太伯の後という「魏略」の伝承は正しかったということです。大国主狗古智卑狗は「宋史 王年代紀」第18代奴国大王スサノヲの直系の子孫です。

一方、滇王国の人々は紀元前4世紀に長江下流に在った水田稲作・漁労民の越が牧畜・畑作民の楚に滅ぼされて、越人の一部がインドシナ半島、インドネシアやインドのベンガル地方などに散った人々の一部だとみています。日本列島に来たのは紀元前5世紀に越に滅ぼされた呉人が長江下流に残留していたので、その人たちがすでに半島南部・北部九州から列島各地に展開していた呉人(倭人)を頼って出雲地方に入植した可能性があります。大国主は「トビ」ですから、その人たちがヘビを「トビ」と呼んでいたようです。

GaneshPrasad Arunkumar et.al. " A late Neolithic expansion of Y chromosomal
haplogroup O2a1-M95 from east to west " 2015 Institute of Botany, Chinese Academy of Sciences
より)
弥生文化や日本語と強い関係が知られるインド南東部タミル地方(スリランカの東側)に約20%程度存在することが上の分布図から分かる。(詳細は「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」

ついでに、神功皇后のモデルとなった母の台与は、武器を取って奮戦し、戦死した糸島市の平原王墓に葬られましたが纏向遺跡の箸墓古墳で改葬されたと考えています。箸墓が台与の墓と指摘する研究者は多いですね。箸墓の伝承では、大物主大神の正体が可愛いオロチ(蛇)だとわかったので驚いて尻もち着いたところ、大事な所に箸が刺さって死んだヤマトトトビモモソヒメということですから、大国主の妻で女王台与ということです。姫の名の「トビ」は言うまでもないですね(^_-)-☆

平原王墓は古墳時代初期に盛行した底部に朱が敷かれた割竹形木棺墓が決め手です

割竹形や刳り抜き木棺は弥生前期から北部九州で見られますし、周溝から出土する遺物などによって、平原王墓は二世紀末築造という方が多いようです。しかし、これらの木棺からは朱は検出されてないようですし、王墓ではありません。その頃の伊都国にあのような豪華な副葬品で葬られた女王が居たことは記録に全くないですし、師升王の子孫の伊都国男王(大夫難升米)と旧奴国勢力との抗争の時代(第一次倭国大乱)でしたから、そのような女王は存在しないし、卑弥呼の墓は径百余歩(直径約150m)の円墳でもあり、卑弥呼のものではありません。

まして「日本書紀」で創作された持統天皇をモデルとするアマテラス女神の墓でもあり得ません。本当の天照大御神は吉備を平定してヤマト政権の基礎を築いた天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊ニギハヤヒ(「宋史 王年代紀」 第19代王天照大神尊)と突き止めました。クーデターで奴国司祭師升に殺された最後の奴国大王スサノヲの弟だと推理しています(注3)(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)」参照)。

応神天皇の即位の史実は「日本書紀」では崇神紀のオオタタネコの話でもあります。崇神天皇はハツクニシラススメラミコトのひとりですので、纏向に旧奴国王族を呼び集めた物部氏の祖である狗奴国王卑弥弓呼をモデルにしたと考えています。最初の前方後円墳纏向石塚古墳に埋葬されたとみています。応神天皇即位は卑弥弓呼王の直系のヤマト大王(物部氏の祖)が呼び寄せたと考えています(卑弥弓呼、正しくはヒコミコ?は襲名かも知れません)。

日本の神話は「日本書紀」完成時の権力者藤原不比等によって、藤原氏に都合の悪い日本建国の話を隠す目的で作られたことを関裕二さんが指摘しました。神話は全くの虚構ではなく史実を歪曲してはいますが、反映しているようなので、不比等の意図を見抜けば、古代史解明のヒントになります。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆



(注1)長髄彦(ナガスネヒコ)という名を聞いたことがあると思います。神武東征神話に登場する人物でイワレヒコ(神武天皇)に最後まで抵抗した大和側のリーダーです。イワレヒコ率いる皇軍が内つ国(大和)に着いてからナガスネヒコに撃退され、一旦は熊野まで回って再度、ヤマトの東から進撃し、ついにイワレヒコの皇軍は長髄彦(ナガスネヒコ)を討つことになります。そこからの話を以下に、『日本書紀・日本語訳「第三巻:神武天皇」』より引用します(青字は引用した個所)。

イワレヒコは、「戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空が暗くなってきて、雹が降ってきた。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄(とび)は光り輝いていて、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆、眩惑されてしまい力を発揮できなかった。

長髄(ながすね)というのはもと邑むら(村・領地)の名であり、それを人名とした。

皇軍が鵄(とび)の瑞兆を得たことから、当時の人たちは鵄の邑(とびのむら)と名づけた。
現在、鳥見(とみ)というのは、これが訛ったものである。」


時に、長髄彦は使者を送って、天皇に言上し、
「昔、天神の御子が、天磐船(あめのいわふね)に乗って天降られました。櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで私は、饒速日命を君として仕えています。一体、天つ神の子は二人おられるのですか? どうしてまた、天つ神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。私が思うのに、それは偽者でしょう」

天皇が答えた。
「天つ神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天つ神の子ならば、必ず表(しるし、証拠)があるだろう。それを示しなさい」

長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢(あまのははや、蛇の呪力を負った矢)と、歩靭(かちゆき、徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ)を天皇に示した。

これを天皇はご覧になって、
「偽りではない」
と言われ、帰って所持の天羽羽矢一本と、歩靭を長髄彦に示された。
長髄彦はその天つ神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。

けれども、兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。
そして、間違った考えを捨てず、改心の気持ちがなかった。

饒速日命は、天つ神たちが深く心配されているのは、天孫のことだけであることを知っていた。
長髄彦は、性格が捻れたところがあり、天つ神と人とは全く異なるのだと教えても理解しそうもなかったため、饒速日命により殺害された。

そして、饒速日命はその部下達を率いて帰順された。
天皇は饒速日命が天から下ってきたということが分かり、今ここに忠誠を尽くしたので、これを褒めて寵愛された。これが物部氏の先祖である。


イワレヒコはナガスネヒコとの決戦に至るまでに多くの敵に散々苦しめられましたが、その都度、天つ神の助けによって敵を滅ぼすことができました(今回は省略しましたが、最終戦に至るまでの模様は『日本書紀・日本語訳「第三巻:神武天皇」』を参照してください)。多くの方は誤解されているかも知れませんが、皇軍が圧倒的な大軍勢で敵を大いに討って大和を征服したという英雄譚ではないのです。勝利の過程も、投降した敵を酒に酔わせて騙し討ちにしたり、敵の屍体を斬って辺りを血だらけにするなどは、とても日本人の発想ではないものです。そして、すでに大和に降臨していた饒速日命が、その臣下で義理の兄でもある長髄彦を裏切って殺したことによりもたらされた勝利でした。

なぜ饒速日命が長髄彦を殺さねばならないのかの理由が上で説明されていますが、このような不合理な説明ではとても納得できません。長髄彦は自ら饒速日命を主君としていると言っていますので、イワレヒコに恭順するように饒速日命から命じられれば、いくら戦う準備が整っていたとしても長髄彦は命令に従わない理屈はありません。また、天照大神もはじめから、先に降臨している天孫の饒速日命に命じれば、ヤマトでの戦闘など起こりようがありません。

ヤマト王権が成立したのは三世紀の纏向遺跡であることは、ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の存在によって分かっています。ですから神武東征が史実であるならば考古学上の証拠があるはずですが、これも見つかっていることも聞きません。三世紀のヤマトでは戦乱の痕跡が全くありません。纏向遺跡も防御的な環濠集落ではない、突然建設され、九州を除く多くの地方から首長クラスの人々が集合して祭祀を行う政治都市というのが特徴です。さらに、ヤマトから九州や各地に遠征して、日本が統一されたことも考古学の成果から分かります(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。ですから、「日本書紀」で創作されたおとぎ話というのが常識的な見方になるはずです。しかし、最近になって保守層が初代神武天皇は存在したはずだから、史実だという主張がされるようになっていますが、学術的には相手にされることはありません。

ではなぜ「日本書紀」で荒唐無稽なおとぎ話のような神武東征神話を挿入したのかを考えると、日本の建国の史実を隠す編者の目的が見えてきます。編者は天武天皇の皇子だった舎人親王となっていますが、日本書紀完成当時の権力を握っていたのは藤原不比等でした(「神話が隠した不自然な史実」参照)。天武天皇の命により編纂された大宝律令が、崩御後の大宝元年(701年)に完成されました。日本史上初めて律と令が揃った本格的な律令です。この律令体制で藤原氏の権力を将来に渡って維持するためには、神祇祭祀で日本建国で活躍した有力な氏族が復活するのは不都合ですので、建国の史実を隠し、藤原氏(中臣氏から分かれたことになっている)の遠祖に活躍させるために改ざんする必要があったのです。不比等は各地の有力豪族が祀る神社の祭神や社名まで強引に変えさせています(「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)(2022.1.21 赤字訂正)

(注2)富来隆「卑弥呼」学生社、1970,pp.68-87
富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-」<抜粋>
▲八幡(やわた)大神がじつは蛇神であったと伝えられることは、私たちにあらためて八幡神の発現を考えなおさせずにおかない。
<中略>
長髄彦=登美彦の「登美」というのはトビすなわち大蛇神(生駒山の山ノ神であり、登美彦のトーテム)であって、それが時に「化して鳥(トピ)」となったものであろう。金ノ蛇→金の鳥(トビ)、また白蛇→白鳥の図式そのままの典型的な実例の一つである。そのトビが登美彦の側から飛び移って、天皇の弓にとまったのである。こうなってはもはや登美彦は、天皇軍に敗れざるをえなかった。書紀の一文の真意は、こういうことではなかっただろうか。

また、出雲地方ではウミヘビが漂着すると神社に奉納されるとあります。
出雲地方ではウミヘビを龍と呼ぶ?!より
リンクが不正となるので、URLを書けませんでした。
キーワード「出雲大社に龍神」で検索してください。

(注3)「宋史 王年代紀」
 其の年代紀に記す所に云う。
 初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。
 次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰い、其の後は皆な尊を以って号と爲す。
 次は天八重雲尊(あめのやえくものみこと)。
 次は天彌聞尊(あめのににぎのみこと)。
 次は天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)。
 次は贍波尊(みなみのみこと)。
 次は萬魂尊(よろずむすひのみこと)。
 次は利利魂尊(ととむすひのみこと)。
 次は國狭槌尊(くにさづちのみこと)。
 次は角龔魂尊(つのそむすひのみこと)。
 次は汲津丹尊(くみつにのみこと)。
 次は面垂見尊(おもだるみのみこと)。
 次は國常立尊(くにとこたちのみこと)。
 次は天鑑尊(あめのかがみのみこと)。
 次は天萬尊(あめのよろずのみこと)。
 次は沫名杵尊(あわなぎのみこと)。
 次は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。
 次は素戔烏尊(すさのおのみこと)。
 次は天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)。
 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)。
 次は天彦尊(あまつひこのみこと)。
 次は炎尊(ほむらのみこと)。
 次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
 彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。
 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。
 次は綏靖天皇。・・・・・
(2020.5.30 王の読みを『日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】2018年02月07日』により追加)


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