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#すでに記事にした謎の天智天皇についてまとめましたので、よろしければご参照ください(#^.^#)
三世紀末の初代ヤマトの祭祀王応神天皇の時代から倭の五王の時代、飛鳥時代の乙巳の変、そして天智天皇の治世までの話は日本書紀がかなり力を入れて史実を改ざんしていますので、以下の記事をお読みいただくと、謎だった天智天皇の出自がご理解いただけると思います。
【わかった!】アメノタリシヒコの正体!
天智天皇とは何者だ?( その1 )
天智天皇とは何者だ?(その2)
天智天皇とは何者だ?( その3 )
【関連記事】
【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?
百済の歴史はどこかおかしい!502年に馬韓の伯済国の倭人斯摩(しま、百済武寧王)が武烈天皇と事前の盟約があって、百済王を討って、百済を乗っ取ったと推理できます(^_-)-☆
和歌山県橋本市隅田(すだ)八幡神社所蔵の青銅製で径19.9cmの人物画像鏡です。その周縁部の漢字48字の銘文に古代大王名などの人名が記されています。古代史解明のための重要な資料ですので国宝に指定されています。
ヤマト王権が3世紀末に成立して、その後の政治情勢は半島の動向と関係があります。倭国と半島の強い絆は何なんでしょうか?
それではなぜ、天皇家の始祖に天智玉に因む悪い名前を付けたのかですが、漢風諡号は奈良時代末期の文化人で、天智天皇の子大友皇子の曽孫淡海三船が付けたものと言われています。普通は自分の祖先に悪い諡号を付けるはずないのですが、三船は当時の人々の歴史観に従ったのだと思います。
2世紀から3世紀の日本建国の過程を理解すると、藤原不比等が日本書紀で隠した史実をそれとなく暴露する目的から9世紀の学者多人長(おおのひとなが、太安万侶の子孫)が創作した「古事記」の、「日本書紀」と違う部分ををヒントにして解明できましたよ(^_-)-☆
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通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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とてもいい話題を有難うございます。 これらの地域間での土器の流通の変遷を調べるのが古代史解明のひとつのカギですね。ご存じと思いますが、弥生後期から古墳前期初頭の北部九州から東北・北海道までの土器編年と並行関係が調べられています(西相模考古研・兵庫考古懇談会編「弥生時代の東西交流」一六書房2020年)。ただし、半島と岡山については記載されていませんので、ご紹介いただいた編年並行関係図はとても有用です。