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隋書倭国伝・多利思北孤(タラシヒコ)の謎に迫る
古代史ハルキー@YouTube
@katumoku10
いい話題を有難うございます。
史料の信ぴょう性の問題だというのは明らかで、隋書と日本書紀のどちらかが誤りだということですね。ですから、客観的に見て判断する必要がありますね。
隋書俀國伝を636年(貞観10年)に編纂した魏徴が、600年に隋の文帝に朝貢した倭国王の名前を書き加えることに何らかの動機があったのでしょうか?
630年の第1回の遣唐使から聞いたアメノタリシヒコを書き加えたのならば、それによる魏徴のメリットは何でしょうか?
しかし600年の遣使の記事で、多くの方が良く分からないと思っているのは、「天を兄、日を弟である倭王」の部分ではないでしょうか?
これは倭国王の政治理念の話なので、建国の歴史を解明しないと分からないと思いますから、ここでは触れませんが、明らかに弟の倭王は男王ですので、女帝ではないのです。ですから、男王名アメノタリシヒコは最初から書かれていたと見るのが妥当でしょう。
ということは、日本書紀では推古天皇ですから、推古天皇の遣使ではないということです。
ここで重要なことは推古天皇が実在人物なのかどうかということです。沢山記事があるから実在人物だというのはちょっといただけません。もしも実在の女帝だったら、600年の遣使は九州王朝の倭王の話ということになります。しかし、九州王朝とヤマト王朝の二朝並立が存在した考古学的な証拠はなく、日本書紀の記述が正しいという前提で作られた説なのです。倭の五王も建国の歴史を解明するとヤマトの大王だったと分かりました。
しかし、日本書紀はとても「天皇の歴史書」の内容ではないことは、冷静になれば直ぐに気づくはずです。もしも自家の歴史書を書く時に、自分の先祖のスキャンダルを面白おかしく書く人は居ません。通説でも、編纂に藤原不比等が関与したことは認めています。
日本書紀の内容を精査すれば、藤原氏が権力を持ち続けるのに不都合な史実を誤魔化して、歴史を改ざんしていることが推古女帝の話からも分かりますよ。日本書紀が「藤原氏の勝者の歴史書」だということに気付けば日本の古代史の謎はほとんど解けますよ。詳細は「【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
@takedaharuki
そうです。この問題。隋書と日本書紀の矛盾といったところが根底にあるので、どこを疑うかといったあたりが要だと私は考えています。しかし、その疑う場所についての仮説が多くあり、どの仮説が妥当かの判断は難しいところです。それぞれの論者が持つ物差しによるところもあります。
@katumoku10
@takedaharuki さん 早速お返事ありがとうございます。
客観的な評価が得られる科学的な考察が仮説には必要ですよ(#^.^#)。
仮説は事実、つまり考古学や民俗学などの成果で検証すると、棄却すべきかどうか分かります。
検証できない仮説は空想と考えるのが妥当です。
しかし、もしもその仮説が正しいとしたらどういうことが起こるのかを事実で検証できますから、必ずしも空想だとは限りません。こういう作業を繰り返すことにより、帰納法的にその仮説の妥当性・蓋然性が分かります。
それもできないような仮説はさらに空想と思うべきです。神が与えたとか、原理的に検証できないものは仮説とすることはできないのです(;^ω^)
ですから、アブダクションと呼ばれるこのような科学的な手法で仮説構築する必要があります。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」をご参照ください。
【関連記事】
【刮目天の古代史】科学的な解明方法とは?(#^.^#)
この手法は、関連する事実に基づき仮説を検証し、結果によって変更・修正・拡張・詳細化を行い、検証を繰り返すことにより仮説構築する科学的な推論手法です。
【古代史問題の科学的解決手法】
空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)・(その2)・(その3)
日本書紀が天皇の歴史書だという洗脳が解けると、古代史の謎はイモずる式に解けてきます。古事記は日本書紀が隠した史実を暴露する暗号書だったのです。暗号を解くと、不比等によって隠された二人の天皇が現れてきます。豪華な副葬品で話題になった富雄丸山古墳の被葬者もこのような検討によって判明しています。これによって倭の五王はヤマトの大王(オオキミ、天皇)であることが分かり、九州王朝説は架空の仮説だと分かりました。
【刮目天の古代史】天智天皇の謎?( ^)o(^ )
600年に遣隋使を送ったアメノタリシヒコは欽明天皇崩御後に即位した敏達天皇でした。日本書紀はこの時代に、物部・中臣氏と蘇我氏の崇仏廃仏戦争があったとされていますが史実ではなく、蘇我馬子とされた応神天皇の子孫が敏達天皇を討ってヤマトの大王を取り返した用明天皇のことだと推理しました。607年に隋の煬帝に送った有名な聖徳太子の手紙から、用明天皇が送ったものだと判明しました。つまり、アメノタリシヒコは二人いたのです(詳細は「【わかった!】アメノタリシヒコの正体!」参照)。しかも二人ともヤマトの大王ですから九州王朝説は成り立ちません(;^ω^)
幻の九州王朝説がなぜ生まれるのか?(;^ω^)
九州王朝説も、日本書紀はヤマトの大王の系譜を正しく述べた天皇の歴史書だという思い込みが根底にある、つじつま合わせの仮説だったのです。不比等の意図を推理して仮説を事実で検証すれば、継体天皇も筑紫の磐井の乱も持統天皇も創作だと分かります(詳細は「「継体持統」によって架空の天皇を示唆したのか?」参照)。
日本の古代史はヤマト王権の成立過程を解明すると九州王朝は存在しなかったと分かります。
最後まで読んでいただき、心より感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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@katumoku10