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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】天智天皇の謎?( ^)o(^ )

2024-10-12 08:27:33 | 古代史

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#すでに記事にした謎の天智天皇についてまとめましたので、よろしければご参照ください(#^.^#)

三世紀末の初代ヤマトの祭祀王応神天皇の時代から倭の五王の時代、飛鳥時代の乙巳の変、そして天智天皇の治世までの話は日本書紀がかなり力を入れて史実を改ざんしていますので、以下の記事をお読みいただくと、謎だった天智天皇の出自がご理解いただけると思います。

【わかった!】アメノタリシヒコの正体!

天智天皇とは何者だ?( その1 )

天智天皇とは何者だ?(その2)

天智天皇とは何者だ?( その3 )

天智天皇とは何者だ?( その4 )

【関連記事】

【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?
百済の歴史はどこかおかしい!502年に馬韓の伯済国の倭人斯摩(しま、百済武寧王)が武烈天皇と事前の盟約があって、百済王を討って、百済を乗っ取ったと推理できます(^_-)-☆

【わかった!】隅田八幡神社人物画像鏡のなぞ(^_-)-☆

和歌山県橋本市隅田(すだ)八幡神社所蔵の青銅製で径19.9cmの人物画像鏡です。その周縁部の漢字48字の銘文に古代大王名などの人名が記されています。古代史解明のための重要な資料ですので国宝に指定されています。



任那(みまな)の正体は?(@_@)

ヤマト王権が3世紀末に成立して、その後の政治情勢は半島の動向と関係があります。倭国と半島の強い絆は何なんでしょうか?

天智天皇の漢風諡号が悪いのは何故?(@_@)?

それではなぜ、天皇家の始祖に天智玉に因む悪い名前を付けたのかですが、漢風諡号は奈良時代末期の文化人で、天智天皇の子大友皇子の曽孫淡海三船が付けたものと言われています。普通は自分の祖先に悪い諡号を付けるはずないのですが、三船は当時の人々の歴史観に従ったのだと思います。

空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)

2世紀から3世紀の日本建国の過程を理解すると、藤原不比等が日本書紀で隠した史実をそれとなく暴露する目的から9世紀の学者多人長(おおのひとなが、太安万侶の子孫)が創作した「古事記」の、「日本書紀」と違う部分ををヒントにして解明できましたよ(^_-)-☆

 

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【刮目天の古代史】仮説検証は東西交流の事実から?( ^)o(^ )

2024-10-10 19:21:37 | 古代史

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原の辻・三雲貿易について解説します。なお、三雲遺跡は伊都国の遺跡です。原の辻・三雲貿易って、まさに伊都国が貿易の中心となった邪馬台国を彷彿させる時代です。考古学的に邪馬台国と結び付く点で興味深い論考と考えます。 この貿易論をざっくり説明するとこんな感じ。

1.時代は、弥生時代後期後半から古墳時代中頃初頭

2.対象は、半島と列島との間における長距離交易

3.区分は、交易の中心地の変遷が基準

4.視点は、流通する土器 以下の区分で、2の原の辻・三雲貿易の時代について解説します。

1.勒島貿易の時代 2.原の辻・三雲貿易の時代 3.博多湾貿易の時代

 

弥生時代中期から古墳時代初頭にかけて各地にどのような政治勢力が存在したか、相互の関係はどうだったのかを知るために、時代の大きな変化をもたらしたと考えられるターニングポイントとなる史実群を抽出し、ヤマト王権成立過程の仮説を構築しました。他の事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって検証してもっともらしい仮説が得られています(詳細は「刮目天の古代史 なぜヤマト王権の始まりが分かるの?」「【刮目天の古代史】仮説を検証する!」参照)。お邪魔しました(;^ω^)
 
【補足】時代のターニングポイントなどの史実群

(1)紀元前4世紀ころの吉武高木遺跡に最初の三代の王や妃・王族の墓が見られます(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。
(2)紀元前3世紀ころ福岡平野に交易センターとして比恵・那珂遺跡群が形成され始めます。奴国王は須玖岡本遺跡を王宮としています(詳細は「【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)」参照)。
(3)紀元前3世紀末に須玖タカウタ遺跡で青銅祭器製造の官営工場が出現します(詳細は「【驚き!】徐福が日本史を変えた!(@_@)」参照)。
(4)紀元前108年前漢武帝が漢四郡を設置
(5)紀元前82年半島南部の真番郡が廃止
(6)57年後漢光武帝から倭の奴国王に金印
(7)107年倭国王帥升(ウィト国王師升)が160人生口献上して朝貢(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)
(8)出雲から日本海沿岸部などに大型四隅突出墳丘墓が出現(詳細は「国引き神話は史実だった?(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)
(9)吉備に楯築王墓(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)
(10)大分県大野川流域・阿蘇山麓に半島南部の鉄素材を用いた鉄製武器製造の鍛冶集落群
(11)2世紀末倭国大乱のころ
筑紫平野・佐賀平野などの環濠集落で大量の鉄鏃が出土
菊池川流域方保田東原遺跡などで大量の鉄鏃出土(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
(12)204年公孫氏が半島を平定し帯方郡設置
このころ倭国女王卑弥呼が登場し倭国大乱が収まる
このころ纏向遺跡が突然築造され、各地から王族レベルが集合
(13)238年公孫氏が魏により滅亡
翌年倭大夫難升米が朝貢
〇倭国は魏を後ろ盾に対外交易を活発化させ、列島内の九州・中国西部・四国などとの
(14)247年卑弥呼は狗奴国との抗争を魏に報告・魏使張政が倭国に派遣され、到着したら卑弥呼はすでに死んでいた
(15)卑弥呼の死後に男王が立つも皆服さず千人の殺し合い(第二次倭国大乱)
(16)卑弥呼の宗女台与13歳が女王となり魏に朝貢
(17)263年魏により職が滅亡
(18)265年魏から西晋に帝位禅譲
(19)266年倭女王西晋に朝貢
(20)古墳前期初頭に景行天皇の九州遠征ルート上から矢戦の痕跡
同じ時期に崇神天皇の四道将軍の遠征ルート上から矢戦の痕跡
同じ時期に日本武尊の東海道遠征ルート上に矢戦の痕跡があり沼津市高尾山古墳が築造(第三次倭国大乱、詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)
(21)280年呉が西晋に滅ぼされる
(22)3世紀末ヤマト王権が成立
(23)4世紀初頭箸墓などが築造される(詳細は「【検証27】箸墓の築造年代は?」参照)

上記のとおり、弥生時代中期に成立した倭国を支配した奴国から後期後半に伊都国王が倭国を支配することになります。したがって倭国大乱(第一次)の原因は伊都国王の倭国と旧奴国(奴国の残存勢力、狗奴国)との抗争だと考えています。(12)の倭国大乱を収めた卑弥呼は倭国王と狗奴国(旧奴国)の一部の勢力との交渉の結果登場したと考えられます。

この結果に基づいて推理したヤマト王権成立過程の図と関係する人物の系譜を以下に示します。
 
 
【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)




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【刮目天の古代史】高天原の謎?( ^)o(^ )

2024-10-08 21:15:49 | 古代史

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魏志倭人伝に隠れていた高天原の正体|三貴神はみな対馬海峡の支配者だった      地図をなぞって日本古代史を考える@YouTube

983年に東大寺の僧奝然(ちょうねん938?―1016 俗姓秦氏)が宋の太宗に献上した王年代紀に初代王天御中主から筑紫日向宮に居た23代までの王の名前が記録されています(下の図を参照、宋史に奴国王の名前が記載されている)。日本書紀の一書四や古事記の中に、高天原に最初に降り立った神と記されています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。そして、奴国王の中に高天原を追放された乱暴者の神スサノヲが第18代王素戔嗚尊とされており、神話が107年に後漢に160人もの生口(奴隷)を献上した倭国王帥升の倭国乗っ取りの史実から作られたことが分かります(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

スサノヲの先代の17代王が国生みの神とされた伊弉諾尊で、スサノヲの次の19代王が天照大神尊となっています。女王とは書かれていません。神話のアマテラス女神はスサノヲの姉で先に高天原の支配者となっていますから、天照大神尊は女神とは別の男王です。女性と分かる王は王年代紀にひとりもいません。上の帥升のクーデター事件で奴国を脱出したスサノヲの弟ニギハヤヒと推理しています(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

そして23代王の四男が大和州橿原宮に遷都した初代神武天皇と書かれ、64代円融天皇(在位:969年- 984年)まで正史に書かれた天皇を列記して、女帝は分かるように記されています。

奝然上人は高天原神話を説明せずに、神武天皇の前の歴代王は後漢から金印を賜った奴国王の時代だと説明したので、その後のシナの正史新唐書宋史において倭国から日本国へ国号が正式に認められ、「日本は古の倭の奴国」と正しく記されたわけです。

ヤマト王権の源流は倭の奴国だった証拠が以下の図で見られるヤマト(畿内)の地名と北部九州の倭国の地名の不思議な対応・一致です。ヤマト政権の人々の古の倭国の記憶・伝承によるものと考えられますよ(^_-)-☆



(朝倉卑弥呼伝説harazuruonsen0201@YouTubeより)

【関連記事】

【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)
 記紀が天皇の歴史書じゃないと分かれば、考古学の成果から、通説となっていた倭国の中の有力なひとつの国という奴国に対する考えが変わるはず(^_-)-☆

 

本来、中国(なかつくに)は日本の古称だぞ!

日本人の本当の神話は長江文明から生まれた三皇神話なのですよ(#^.^#)

日本書紀で創作された日本神話は、藤原氏が権力を握りつづけるために八世紀に創作された神話だったのですよ。古来から伝承されていた本当の神話は中世日本紀に見られた中国(なかつくに、龍蛇神国)神話だったのです。天皇の称号は人類の始祖神天皇伏羲に由来するものだったのです(^_-)-☆

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【刮目天の古代史】ウソはいつかバレる?(@_@)

2024-10-07 00:13:01 | 古代史

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長屋王の変の真相と謎!藤原氏との対決と祟り
むらくも歴史チャンネル@YouTube

とても参考になる動画をありがとうございます。
天武天皇の後に高市皇子が即位していた証拠が見つかり、藤原不比等が暗殺して文武天皇を15歳で即位させたと推理しています。ですから持統天皇も存在しないということなのです。それを誤魔化すために前例として推古天皇皇極・斉明天皇も創作しましたが、これらもフェイクであることが、天智天皇の出自を調べて分かりました(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。

ということで、持統の後の女帝元明天皇元正天皇聖武天皇の娘孝謙・称徳天皇もすべて架空の女帝ですので、史実を誤魔化したと分かります。ですから、藤原四兄弟長屋王(本当は親王で、即位していたかも?)やその後の政権抗争の史実は続日本紀の内容とかなり異なるはずです。

大きな流れは藤原四家の権力闘争で最終的に南家の仲麻呂を倒した北家の左大臣永手や式家の良継百川兄弟が天智天皇中大兄の孫光仁天皇(白壁王)を立て、その後、百川が光仁天皇の皇子の桓武天皇(山部親王)を立てることによって遷都してヤマトの大王の時代(奈良時代)が終了したということだと思います。おっしゃるとおり、この辺りを今後証拠を固めて、もっと詰めていく必要がありますね。日本の古代の真相究明はまだこれからですよ。どうもお邪魔しました(;^ω^)

@user-ukiy
父、鎌足と中大兄のせいなんです、
不比等、皆んなにあやまれw

@katumoku10
平安時代末期ころは、日本書紀の神話は、全く異なるナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀と呼ばれるものに変貌していたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書 など参照)。

古事記は祭祀関係の氏族によって細々と読み継がれていたのですが、江戸時代になって国学者本居宣長が発掘して大絶賛しました。その影響を受けた神道家平田篤胤が記紀神話に基づく復古神道を提唱したのです。それが幕末の志士たちに人気になり、明治新政府は、神仏分離令を出したら全国的に廃仏毀釈の運動が起こり、神を祀っていた寺院が打ち壊され、無理やり僧侶は還俗させられたのです。日本版文化大革命でした。

国家神道が創設されて学校で国史が教えられるようになって、記紀神話が日本古来からの伝承だと洗脳されたので、戦後の日本人も何となく日本の歴史だと思わされてきたのです。今、ようやく日本書紀のトリックが解明されてきましたので、本当の古代史はようやくこれから分かってきますよ(^_-)-☆

不比等も不都合な歴史を隠すために神話まで創作したのですが、何でこんなに長くウソがバレなかったのか自分でも不思議に思っているはずですね(;^ω^)

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

日本神話が隠した大きな秘密?(@_@)?

以下の図は藤原不比等が神話を創作して史実を隠した事実を示しています。神話の神と実在人物の対応関係が分かります。日本書紀が隠したかった大きな秘密のひとつは藤原不比等が権力を握るために天皇を弑逆した史実で、もうひとつは天智天皇と藤原氏の出自だったのです(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」・「天智天皇とは何者だ?( その1 )( その4 )」参照)。

 

 

 

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【わかった!】隅田八幡神社人物画像鏡のなぞ(^_-)-☆

2024-10-06 15:17:27 | 古代史

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#2024-07-09 00:00:04に記事にしましたが、その後分かったことを入れて、本文末に(注)を追加しました。よろしければまた、お付き合いください(;^ω^)



和歌山県橋本市隅田(すだ)八幡神社所蔵の青銅製で径19.9cmの人物画像鏡です。その周縁部の漢字48字の銘文に古代大王名などの人名が記されています。古代史解明のための重要な資料ですので国宝に指定されています。

金石文の内容はwiki「隅田八幡神社人物画像鏡」によると、
癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。」です。

癸未年を443年とするか503年とする説がありますが、諱に「斯麻(三国史記・三国遺事では斯摩)」を持つ百済の武寧王(在位:502年 - 523年)が作らせたと見るのが妥当ですので、503年説が正解だと思います。

「日十」を「日下(くさか)」つまり日本(ヤマト)と読み替えると、「ヤマトの大王の癸未の年八月」と読めます。「男弟王」を継体天皇の諱「乎富等、袁本杼(ヲホド)」とする説がありますが、「男弟」は「ヲオト」であり完全に一致しません。また、日本書紀によれば、継体天皇の在位は507年ー531年ですので該当しません。そして継体天皇は越前などに本拠地があり、新羅系と考えられますので反百済の大王のはずですから、百済王から鏡を贈られる理由が分かりません。単なる外交儀礼なのかも知れませんが、それにしては河内直(かわちのあたい)は百済王権に仕えた倭系百済官僚です。河内は物部氏と強い関わりがありますので親百済ではない継体天皇に贈る銘文に書く内容でもないと思います。

武烈天皇の在位が499年ー506年になり該当します。「三国史記」によれば502年に倭軍が新羅を攻め、その結果新羅王が薨去したとありますので、百済武寧王は武烈天皇に感謝の意味で鏡を贈ったと考えるのが妥当と思われます。

また、「中国の史書『梁書』武帝紀では、武烈天皇4年にあたる壬午年(502年)4月、(天監元年4月戊辰条)に「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」を進号されたと記載されている」とありますので、この「三国史記」の記事を裏付けるものでしょう。

wiki「倭の五王」によれば、倭王「武」は478年(昇明2年)に宋に『上表して、自ら「開府儀同三司」[注 5]と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする』と記録されています(『宋書』順帝紀、夷蛮伝)。また翌年479年(建元1年)には南斉の高帝の『王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号』(『南斉書』東南夷伝)とあります。

この時の倭王「武」は雄略天皇ですが、489年に崩御しています(【関連記事】「空白の世紀と倭の五王の謎(その3)」図参照)。

武烈天皇の和風諡号は「小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)」ですので、雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)と仁徳天皇(大鷦鷯天皇)の和風諡号から作られたものになっています。武烈天皇も倭王武としたのはよく分かりませんが、武烈天皇が倭王「武」として朝貢したか、シナの王朝に朝貢していた雄略天皇と似た名前なので「梁」の武帝が武烈天皇を倭王「武」と解釈したのではないかと思います。(2024.10.7 赤字追加)

それから「男弟(ヲオト)王」という名称ですが、魏志倭人伝の卑弥呼の政治を補佐する人物を連想します。武烈天皇も姉の姫巫女が発する太陽神の神託に基づく政治形態でしたので、男弟王と呼んだのではないかと思います。父仁賢天皇には七人の皇女がおり、武烈天皇が唯一の男子だったのですが、武烈天皇の同母姉に手白香皇女(継体天皇后)と橘仲皇女(宣化天皇后)がいましたので、どちらかが姫巫女だったのではないかと思います(琉球神道のヲナリ神、詳細は「誤解と幻想の卑弥呼」参照)。

武烈天皇は日本書紀では泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや、桜井市出雲に比定)を都として、悪逆非道の異常行動が記録されていますが、古事記には一切ありませんので、継体天皇を登場させるための日本書紀のデマのようです。「意柴沙加(おしさか)の宮」は桜井市忍阪と考えると、桜井市出雲とは1kmも離れていませんので、神社を探しました。

忍坂坐生根神社(おしさかにますいくねじんじゃ)は式内大社で、旧社格は村社です。創建年代は不詳ですが、天平2年(730年)の『大和国正税帳』に「生根神戸」とあります。現在の祭神は少彦名神とされていますが、延喜式神名帳などに祭神が「生根神」とあり不詳です。

桜井市出雲の泊瀬列城宮跡付近に十二柱神社があり、境内には武烈天皇社の祠と「泊瀬列城宮跡」の石塔がありますが、古い形式でもなさそうです。武烈天皇(男弟王)が「意柴沙加の宮」に居たとすると、悪逆非道とされた武烈天皇ゆかりの忍坂の村民が朝廷に憚って「生根神」として祀ったのかも知れません。(;^ω^)

武烈天皇の父は億計天皇(仁賢天皇)で、履中天皇の長子市辺押磐皇子の第二子です。安康天皇が暗殺された後の後継者争いで父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されたため、弟弘計天皇(顕宗天皇)と共に身を隠しています。従って、武烈天皇は親新羅派の雄略天皇と敵対する親百済派の天皇と考えられますので、銘文に不明な個所はありますが、武烈天皇として矛盾はないようです。

ですから武烈天皇は実在人物と見ていいと思います。億計天皇・弘計天皇と同母姉の飯豊女王の話は作り話っぽいので、はっきりとは言えませんが、雄略天皇崩御から武烈天皇即位までの十年間はヤマトの大王は空位だったようです。高句麗が台頭し、半島情勢が不穏だったので、半島の鉄資源を確保するためにヤマトの豪族らが合議で、反雄略天皇の勢力と和睦するために武烈天皇をヤマトの大王に即位させたと考えています。だから、和邇氏・息長氏系の雄略天皇(注)と尾張系(ニギハヤヒ大王系)の仁徳天皇の名前を武烈天皇に付けたのではないでしょうか(#^.^#)(2024.10.6 赤字追加)

(注)雄略天皇の祖父住吉仲津皇子は、父が尾張腹の仁徳天皇ですが、母が和邇氏八田皇女ですから反尾張系だったです。つまり和邇氏の祖で、三世紀後半に卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主)が尾張王ヲトヨノミコトを討ったので、尾張王建稲種命に父の仇で討たれました。従って、三世紀末に応神天皇が即位して和邇氏系と尾張系の豪族が和解はしても、確執がありますので五世紀の雄略天皇は厳しい半島情勢に対応するために強いヤマトの大王を目指し、尾張氏と同族の吉備のニギハヤヒ大王の嫡孫(欽明天皇の父)を討ち、中央集権化しようとしたと推理しています。その過程で皇位継承権のある親族までほとんど討ってしまったのです。武烈天皇の登場で両者はまた和解したのですが、後継者を決めずに武烈天皇が崩御したので、吉備から九州に逃亡していたニギハヤヒ大王の直系欽明天皇が九州に拠点を置く物部系氏族の支援でヤマトの大王に立ちます。その史実を隠すために欽明天皇の父として継体天皇を登場させて、筑紫の磐井の乱の話を創作したと推理しています。

継体天皇は架空の人物だと推理しています。(2024.10.6 青字追加)


【関連記事】
【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?
馬韓の伯済国の倭人斯摩(百済武寧王)が502年に百済を乗っ取ったのは武烈天皇と強いつながりがあり、事前の盟約があって、倭国軍が支援したのかも知れませんね(^_-)-☆

「三国史記」によれば、高句麗の長寿王が475年9月に百済の首都漢城(ソウル特別市)に攻め入った際に、百済の蓋鹵王の命令で子の文周が新羅に救援(羅済同盟)を求め、兵1万を率いて都に戻った時には蓋鹵王は処刑されていたので、直ちに王位につき熊津(忠清南道公州市)に遷都したとあります。「日本書紀」では、雄略天皇21年(477年)3月に久麻那利(こむなり、熊津を指す)を百済の汶洲王に下賜して百済を復興をさせた、と記しているので、ヤマトの親新羅派も百済を支援していました。百済と新羅が本格的に反目しだすのは、この後のようです。武寧王の百済乗っ取り事件(502年)が関係しているのではないかと考えています。

空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)




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