刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】事実で検証しない仮説は空想?( ^)o(^ )

2025-03-06 20:52:45 | 古代史

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隋書倭国伝・多利思北孤(タラシヒコ)の謎に迫る
古代史ハルキー@YouTube

@katumoku10
いい話題を有難うございます。

史料の信ぴょう性の問題だというのは明らかで、隋書と日本書紀のどちらかが誤りだということですね。ですから、客観的に見て判断する必要がありますね。

隋書俀國伝を636年(貞観10年)に編纂した魏徴が、600年に隋の文帝に朝貢した倭国王の名前を書き加えることに何らかの動機があったのでしょうか?
630年の第1回の遣唐使から聞いたアメノタリシヒコを書き加えたのならば、それによる魏徴のメリットは何でしょうか?

しかし600年の遣使の記事で、多くの方が良く分からないと思っているのは、「天を兄、日を弟である倭王」の部分ではないでしょうか?

これは倭国王の政治理念の話なので、建国の歴史を解明しないと分からないと思いますから、ここでは触れませんが、明らかに弟の倭王は男王ですので、女帝ではないのです。ですから、男王名アメノタリシヒコは最初から書かれていたと見るのが妥当でしょう。

ということは、日本書紀では推古天皇ですから、推古天皇の遣使ではないということです。

ここで重要なことは推古天皇が実在人物なのかどうかということです。沢山記事があるから実在人物だというのはちょっといただけません。もしも実在の女帝だったら、600年の遣使は九州王朝の倭王の話ということになります。しかし、九州王朝とヤマト王朝の二朝並立が存在した考古学的な証拠はなく、日本書紀の記述が正しいという前提で作られた説なのです。倭の五王も建国の歴史を解明するとヤマトの大王だったと分かりました。

しかし、日本書紀はとても「天皇の歴史書」の内容ではないことは、冷静になれば直ぐに気づくはずです。もしも自家の歴史書を書く時に、自分の先祖のスキャンダルを面白おかしく書く人は居ません。通説でも、編纂に藤原不比等が関与したことは認めています。

日本書紀の内容を精査すれば、藤原氏が権力を持ち続けるのに不都合な史実を誤魔化して、歴史を改ざんしていることが推古女帝の話からも分かりますよ。日本書紀が「藤原氏の勝者の歴史書」だということに気付けば日本の古代史の謎はほとんど解けますよ。詳細は「【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)


@takedaharuki
そうです。この問題。隋書と日本書紀の矛盾といったところが根底にあるので、どこを疑うかといったあたりが要だと私は考えています。しかし、その疑う場所についての仮説が多くあり、どの仮説が妥当かの判断は難しいところです。それぞれの論者が持つ物差しによるところもあります。

@katumoku10
 @takedaharuki  さん 早速お返事ありがとうございます。

客観的な評価が得られる科学的な考察が仮説には必要ですよ(#^.^#)。

仮説は事実、つまり考古学や民俗学などの成果で検証すると、棄却すべきかどうか分かります。

検証できない仮説は空想と考えるのが妥当です。

しかし、もしもその仮説が正しいとしたらどういうことが起こるのかを事実で検証できますから、必ずしも空想だとは限りません。こういう作業を繰り返すことにより、帰納法的にその仮説の妥当性・蓋然性が分かります。

それもできないような仮説はさらに空想と思うべきです。神が与えたとか、原理的に検証できないものは仮説とすることはできないのです(;^ω^)

ですから、アブダクションと呼ばれるこのような科学的な手法で仮説構築する必要があります。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」をご参照ください。

【関連記事】

【刮目天の古代史】科学的な解明方法とは?(#^.^#)

この手法は、関連する事実に基づき仮説を検証し、結果によって変更・修正・拡張・詳細化を行い、検証を繰り返すことにより仮説構築する科学的な推論手法です。

【古代史問題の科学的解決手法

空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)(その2)(その3)

日本書紀が天皇の歴史書だという洗脳が解けると、古代史の謎はイモずる式に解けてきます。古事記は日本書紀が隠した史実を暴露する暗号書だったのです。暗号を解くと、不比等によって隠された二人の天皇が現れてきます。豪華な副葬品で話題になった富雄丸山古墳の被葬者もこのような検討によって判明しています。これによって倭の五王はヤマトの大王(オオキミ、天皇)であることが分かり、九州王朝説は架空の仮説だと分かりました。

【刮目天の古代史】天智天皇の謎?( ^)o(^ )

600年に遣隋使を送ったアメノタリシヒコは欽明天皇崩御後に即位した敏達天皇でした。日本書紀はこの時代に、物部・中臣氏と蘇我氏の崇仏廃仏戦争があったとされていますが史実ではなく、蘇我馬子とされた応神天皇の子孫が敏達天皇を討ってヤマトの大王を取り返した用明天皇のことだと推理しました。607年に隋の煬帝に送った有名な聖徳太子の手紙から、用明天皇が送ったものだと判明しました。つまり、アメノタリシヒコは二人いたのです(詳細は「【わかった!】アメノタリシヒコの正体!」参照)。しかも二人ともヤマトの大王ですから九州王朝説は成り立ちません(;^ω^)

幻の九州王朝説がなぜ生まれるのか?(;^ω^)

九州王朝説も、日本書紀はヤマトの大王の系譜を正しく述べた天皇の歴史書だという思い込みが根底にある、つじつま合わせの仮説だったのです。不比等の意図を推理して仮説を事実で検証すれば、継体天皇も筑紫の磐井の乱も持統天皇も創作だと分かります(詳細は「「継体持統」によって架空の天皇を示唆したのか?」参照)。

日本の古代史はヤマト王権の成立過程を解明すると九州王朝は存在しなかったと分かります。

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【ほとんどの日本人が知らない】建国の本当の英雄?( ^)o(^ )

2025-03-05 22:56:39 | 古代史

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#多くの皆さんは表題からヤマトタケル(日本武尊)を思い浮かべると思います。でも、ヤマトタケルの武勇伝は日本書紀で創作された物語です。本当の英雄をモデルにしていますので、その話をしましょう(#^.^#)

下図は卑弥呼の死の直前の状況ですが、それは死の直後の話から始まります。狗奴国の実力者で、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)と同族のニギハヤヒ大王の子アメノカグヤマの子孫の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀の仲哀天皇)が率いる狗奴国軍が倭国(奴国)に到着すると、倭国の実力者で卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、和邇氏の祖)が姉の死を知って戦意喪失したので、倭国王難升米(帥升の子孫)は逃亡します。無傷で倭国を手に入れた乎止与命は捕らえた魏使張政の甘言で倭国王に立ったのです。奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った帥升の子孫から奪い返したので、狗奴国王を裏切って倭国王に立ったと推理しました。

それに不服だった副将として参加した、日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦(王の襲名、豊岡市久久比神社祭神、スサノヲの子孫高野御子)が反発しました。従兄弟だった赤坂比古はかつての主筋の久々遅彦に加勢して、乎止与命を討ちました。狗奴国の実力者の尾張王を倒したことで、狗奴国王から処分されるのを怖れて、また、捕らえた張政の進言を受けて、卑弥呼の宗女で13歳の台与(近江・越を根拠地とするムナカタ族息長氏の祖息長宿禰王・神話の少彦名命の姫)を女王に立てて魏を後ろ盾にして狗奴国王を裏切ります。久々遅彦は楽浪郡・帯方郡と交易を開始し、半島南部の鉄資源も独占して隆盛になりました。当時の最先端技術の高温鍛冶技術を傘下に惜しげもなく与えたので吉備から畿内と東海の狗奴国勢以外は久々遅彦に従いました。久々遅彦は記紀神話で大国主と呼ばれました。

 

大国主の裏切りによって狗奴国は劣勢に立たされて、倭国に呑み込まれる寸前でした。大国主への恨みを晴らすために、丹後半島から山陰までの無防備な大国主側の集落を襲いました。鳥取市青谷上寺地遺跡では老人や女性、赤ん坊まで100人くらい無差別殺人をしています(通説では弥生後期としていますが、古墳時代初頭270年頃の事件です。詳細は「【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`)」参照)

大国主は高良山に立派な居城を作り倭国を支配していたので、父を殺された尾張王建稲種命は仇討ちを決行しました。その話が日本書紀で景行天皇の九州遠征の話になって詳細に語られていますので、物証となる鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、ほぼ景行天皇のルート上で戦の跡を発見しました(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)。

(左クリックで拡大)

山口県防府市から福岡県東部に入り、当初福岡市を目指したと思われますが、守りが厳しいので、大分県の方に南下し、大野川流域で激戦の末にほぼ半数の兵力を失い、宮崎県に落ち延び新富町川床遺跡で兵士を葬ったと推理しています。

円形、方形周溝墓44基、土壙墓149基で構成される集団墓で、鉄刀、鉄鏃などの鉄製品が91点副葬されていた。弥生時代後期の遺跡らしい。個々の墓の副葬品は少なく各墓で1,2個、殆どの土壙墓では鉄鏃1個が副葬されていた。また、周溝墓では鉄刀などが副葬されているが、宗教的な豪華な副葬品はない。その様式は北九州のものらしい。tonomuraのブログ より)

44基の周溝墓は将校のもの、149基の土壙墓は兵卒のもので、合計193基です。周溝墓ですから、様式は恐らく北九州のものではなく畿内のものと考えられますので、尾張勢だけではなく畿内勢(後の物部氏)も併せて恐らく四・五百人の軍勢だったのが半減させられたのではないかと見ています。そして南九州で増援を待って、恐らく1年後に再び熊本県南部から攻め上ったようです。

苦難の末に、油断していた大国主を久留米市高良山で討ち取ったと推理しています。大国主は高良山の西麓の久留米市祇園山古墳に葬られたと考えています(詳細は「大国主の墓はここ!(^_-)-☆」参照)。初期の神籠石は大国主のものでしょう(詳細は「「神籠石は最初に誰が作った?( ^)o(^ ) 」」参照)。また、鳥栖市安永田遺跡を根拠地とした赤坂比古も討たれて、卑弥呼の墓に次ぐ大きさの直径約140mの円墳(鳥栖市愛宕神社古墳)に葬られたと推理しています。

吉野ケ里遺跡の謎の石棺は息長宿禰王(少彦名命)のものですが(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】少彦名命の正体?(#^.^#)」参照)、この時に尾張勢に討たれたのかははっきりしません。

女王台与は伊都国で辰砂の取引など対外交易を担当していたようです。この地で物部勢に包囲されて、剣を振り回して抵抗したので、葬られた糸島市平原王墓の棺の上に素環頭大刀が一振り置かれています。この史実から男勝りの女傑の神功皇后のイメージができたようです(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆」参照)。

大国主と台与と赤坂比古を討って、見事に仇討ちを成功させた尾張王建稲種命は、九州の支配を物部勢に任せて、纏向遺跡に凱旋したようです。そこで狗奴国王から大国主の傘下を平定するように命令されました。早速、東海道から遠征する途中の駿河で戦になり流れ矢に当たって戦死したと推理しています。伝承ではヤマトタケルの副将として参戦し、帰る途中で駿河湾で水死したとあります。沼津市高尾山古墳に葬られたと推理しています。詳しくは「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」をご参照ください。

この後は尾張王尾綱根命が父の遺志を継いで物部勢と一緒に遠征し、大国主の傘下を平定したようです。記紀で崇神天皇の四道将軍の話となっています。そのルート上に鉄鏃・銅鏃が出土していることから判明しています(「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。
(左クリックで拡大)。

記紀では日本統一の戦いを大国主の国譲り神話としています。高天原の命令でタケミカズチとフツヌシが活躍して国つ神の大国主から天照大神に葦原中国(あしはらなかつくに)を譲ったとしています。藤原氏の春日大社では祭神として第一殿に武甕槌命 (タケミカズチ)と第二殿に経津主命(フツヌシ)を祖神として祀っていますが、尾張王建稲種命と物部氏の祖神フツノミタマが正体です。お隠しして大変申し訳ありませんが、藤原氏に祟らないで下さいねという気持ちからでしょう(#^.^#)

尾張王建稲種命は、大和盆地では天理市の全長183mの前方後方墳「西山古墳」で改葬されたと推理しています。後方部の中段から上は前方後円形となる特殊な墳形をしていますので分かります。渋谷向山古墳(山邊道上陵)が景行天皇陵に治定されていますが、応神天皇陵ではないかと推理しています(詳細は「真の応神天皇陵を推理する!」参照)。

また、地元尾張ですが、名古屋市熱田神宮では、妹でヤマトタケルの妃宮簀媛命(みやすひめのみこと)とともに祀られていますが、長久手市景行天皇社で景行天皇として祀られていることは余り知られていないと思います。景行天皇社の元の場所は長久手市根の神にあったと考えています。現在、根の神に隣接した蟹原に道了山大雄院が建立されていますが、建稲種命の居館があったと考えています。

父の乎止与命は娘の宮簀媛命が祀られている氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)を居城にしていたと考えています。記紀神話ではタケミカズチの父となる火の神カグツチとされ、愛知県で最も数多く見られる秋葉神社で祀られています(詳細は「天香山のひみつ(#^.^#)」参照)。

【関連記事」

サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?
抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)
抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!


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【刮目天の古代史】中国文化の本家は日本だった?!( ^)o(^ )

2025-03-04 00:00:06 | 古代史

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【海外の反応】「日本文化なんて全部中国のパクリだろ!」普段何気なく使っていた漢字が実は日本からの逆輸入だったと知った瞬間、中国人が絶句…
魂JAPAN@YouTube


@katumoku10
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みなさん驚かれると思いますが、中国神話の三皇五帝の筆頭の神が人類の始祖神で、日本の天皇のルーツだった証拠が倉敷市楯築王墓で見つかっていますよ。

墳頂の神社の亀石というご神体が天皇伏羲と同じ人面蛇体(人首蛇身)だったのです。

亀石の顔は被葬者なのです。日本書紀は吉備津彦と誤魔化していますが、今上天皇の皇祖神だということが、平安時代の朝廷が備中国一宮吉備津神社吉備都彦命に特別な神階「品位(ほんい)」を贈っていますので分かりました。

品位は現在までにたった四柱しか送られていませんよ。

よろしければ詳細は

【大発見!】天皇家のルーツの証拠!

中国神話は日本人の神話だった?

をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

新唐書・宋史 日本伝にあるとおり「日本は古の倭の奴国」ですので、初代奴国王天御中主(あめのみなかぬし)は周の先王古公亶父(ここうたんぽ、武王の曾祖父、呉の太伯は長男)の子孫の呉の王族です。呉王は長江河口や江南などの倭人を統治していましたので、紀元前473年に呉が滅んで倭人の助けを借りて半島南部から福岡市吉武高木遺跡に落ち着いたことから日本の歴史が始まりました(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。


古公亶父は、夏王朝を建てた「禹」の子孫ということになります(注1)。つまり倭の奴国(中国=なかつくに)の王も禹王の子孫で間違いないのです。だから、日本書紀は藤原氏のための歴史書だった」で述べたとおり、日本人は今まで藤原不比等によって藤原氏に都合の良いデタラメな日本神話を押し付けられていますが、中国神話こそが龍蛇神(ナーガ)を信奉する倭人の中つ国神話だったということです。(2025.3.16 青字追加)

龍蛇神(ナーガ)は、日本列島の先住民縄文人も蛇信仰でしたから受け入れられています。第十七代奴国王伊弉諾尊(イザナギ)が縄文海人ムナカタ族の王女伊弉冉姫(イザナミ)を娶って生まれたスサノヲとニギハヤヒの兄弟が天皇の皇祖神ということなのです。

Wiki「神階」によると、六国史終了時点(887年)で以下の四柱にだけ特別な神階「品位(ほんい)」が与えられていることにより、日本の建国の真相がわかります(括弧【】内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名)。ただし、天安三年(859年)1月27日に伊佐奈岐命に一品、吉備都彦命に三品から二品に、天慶三年(940年)に一品 とされています。四柱の神のそれぞれの正体を略記しています(^_-)-☆

一品
伊佐奈岐命 淡路国 伊弉諾神宮】17代奴国王伊弉諾尊・記紀の国生みの神・皇祖神
八幡神・八幡比咩神 豊前国 宇佐神宮】18代王スサノヲの子孫応神天皇の父大国主高野御子・宗像女神市杵島姫卑弥呼
二品
吉備都彦命 備中国 吉備津神社】ヤマト王権を成立させた狗奴国王(記紀の崇神天皇)の祖神ニギハヤヒ大王(19代奴国王天照大神尊・先代旧事本紀 の物部氏の祖神天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)

中国というのは日本の古名の「なかつくに」です。

二・三世紀の日本の建国時代に奴国(ナーガ・龍蛇神国・中国)の王族が活躍した出雲・吉備の地域を今でも中国地方と呼んでいます。

中国(なかつくに)文化は春秋時代まで大陸にあった古い文化で、BC.473年に滅んだ呉の倭人(Y-DNA O-47z)はほぼ半島と列島に逃れて、さらに七世紀の白村江の戦いの後は半島の倭人(百済人など)がほとんど日本に引き揚げています。(「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。

したがって、以下のような古(いにしえ)の中国文化が今でも日本に残っています(^_-)-☆

(注1)周王朝の先王古公亶父の先祖の后稷は伝説上の人物ですが、帝舜が農業を司るものとして名付けたとありますので、農業の神として信仰されています。中田力「科学者が読み解く日本建国史」(PHP選書2014、p.98)で太伯が呉を建てた江蘇省付近は新石器時代に良渚文化を担った原始夏人(Y-DNA O1a)の土地ですので、洪水で良渚文化が消滅して、原始夏人は四散し、その一部が夏王朝を建てたとしています。周族は夏の遺民ですので原始夏人のグループと考えられるとあります。呉王族は、原始夏人が去った長江河口に文化を作ったO1b2グループの倭人(O-47z)を支配しました。(2025.3.16 青字追加)

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【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?

子供のおとぎ話のもととなったのは奴国宮廷楽師の師升らのクーデターを逃れた奴国王族ニギハヤヒが、吉備の裏切り者たちを討った史実だったのです(以下の吉備平定ルート図の詳細は「日本ピラミッドの謎?(@_@)?」参照)。

【刮目天の古代史】消された吉備の大王ニギハヤヒの謎?( ^)o(^ )

ニギハヤヒは師升らに殺されて奴国を奪われた18代奴国王スサノヲの弟です。ニニギの弟というのは日本書紀の誤魔化しだったのです。宋史 王年代紀には19代王天照大神尊とあったので、日本書紀が女神アマテラスにすり替えたのですよ(^_-)-☆

【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )

ほとんどの日本人は記紀が天皇の歴史書だと洗脳されているので、古代史の謎がロマンなのです!もう目を醒ます時期ですよ。日本が消えてなくなるる前に!^)o(^ )

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として倭国から日本に国号を変えたことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






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【刮目天の古代史】国宝金印の偽造説は陰謀論?(#^.^#)

2025-03-03 00:00:04 | 古代史

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#江戸時代に志賀島で発見された、范曄後漢書に書かれた「漢委奴国王」の金印をニセモノとしたい人がいて困ります。国宝金印が本物だという決定的な証拠があります。偽物だという決定的な証拠はないのですから、これこそ陰謀論の典型だと思います。

文献に書かれた内容と物証が一致するので、史実が存在した学術的にとても重要な証拠なのです。

ですから、YouTubeで偽造説を蔓延させるような動画を見つけましたらその都度反論コメントしています。今回もまた以下の動画に、ご迷惑とは承知で反論のコメントしましたら、問答無用で削除されてしまいました(^^;)

よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

古代中国から贈られた金印から明らかになった古代日本の歴史の真実…99%の日本人が知らない隠蔽された古代中国との関係と歴史を覆す驚愕の真実とは【ぞくぞく】【ミステリー】【都市伝説】
ぞくぞく家族団RUN@YouTube

@katumoku10

いい話題を有難うございます。ぞくぞくさんも本物だと考えておられるので安心しました。
でも偽造説が横行しているので、国宝金印がニセモノだと思われている方も少なからずおられるはずです。

しかし、本物である決定的な事実ですが、蛇鈕と書体などを学術的に調査した明治大学の石川日出志先生が江戸時代に後漢時代に作られた金印を再現できないと結論付けておられます。

国宝の金印が偽物、ではないことがわかった 石川 日出志 明治大学文学部 教授 2021.11.10

また漢代の金印の金の純度が95%もあることは、現代になって別の金印も発見されて測定した結果わかったので、これも江戸時代には知り得ない情報なのです(石川 日出志『3.「漢委奴國王」金印―真贋論争から璽印考古学へ―』)。

もしも偽造したのならば、職人に金の純度・寸法・蛇鈕を指定しなければニセモノはできませんので、その指示書が無ければ贋作ということができないと河村哲夫先生も主張されています第1回志賀島の金印論争と奴国その1 河村哲夫の日本古代史チャンネル@YouTube)。

偽造説の方はこれらの主張に反論することなく、決定的な証拠もなしに怪しいと主張されているわけですので、陰謀論という結論になります。

そして、何よりも重要なのは范曄後漢書に書かれていた実物が発見されたということですから、そういう史実があった、学術的に重要な物証なのです。

加えて、「倭」のニンベンを省略した「委」を使う減筆は1世紀から3世紀の流行だということも分かっています。

実は延光五年(125年)の銘のある、現存する日本最古の金文が1948年に発見された室見川銘板です。北京大学が鑑定したところ、当時の日本人は漢字を読み書きできないはずだから清朝の時代の偽造だとされてしまいました。

でも、最近すでに弥生時代に文字を使用していた証拠がたくさんあることが分かりましたので鑑定は見直すべきです。

この銘板には「高暘左 王乍永宮齊鬲」とあり、「左」は「佐(たすける)」、「乍」は「作(つくる)」の減筆だと分かりました。

そしてこれも范曄後漢書にある107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくは奴国宮廷楽師だった人物で、伊都国王師升)の史実を証明するものだったのです。

また魏志倭人伝に登場する倭大夫の難升米の「難」は「儺(な)」で、師升の史実を証明する人名(役職名)で、本当の倭国王だったと分かりました。ですから、卑弥呼が倭国を統治する女王だというのは政治的に作られたものだったのです。魏志倭人伝のデタラメな行程記事を作った人物と分かりました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

つまり、金印に「委」と彫られたことも証拠のひとつなのです(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。

それではどうして志賀島で発見されたのかについては「【刮目天の古代史】蛇鈕の金印は奴国王を示す!(^_-)-☆」に詳しく述べていますので、よろしければご参照ください。
どうも、お邪魔しました(#^.^#)

 

【関連記事】

【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )

記紀を天皇の歴史書だと思い込んでいるから古代史が謎のままなのです!( ^)o(^ )

 

王年代紀は記紀神話を正した!

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として倭国から日本に国号を変えたことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

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【刮目天の古代史】空想は楽しいが・・・(;^ω^)

2025-03-02 00:00:02 | 古代史

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#ANYAさんは活発に邪馬台国論を発表されていますので、時々反論コメントして、最初はお返事くれたのですが、最近は無視されて残念です。消すことまではしないのは紳士的ですが、ちょっとこの先が心配になりましたので、申し訳ないですがしつこく以下の動画にコメントしました。

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③【阿波説 討論】 歴史妄想 VS ANYA

ANYAチャンネル@YouTube

みなさんは驚かれるかと思いますが、いま語られているような記紀神話は江戸時代に本居宣長が古事記を発掘して絶賛し、独自に解釈した神話なのです。
 
それまでは720年に完成した日本書紀が創った日本神話が、神仏習合、修験道や道教などの影響で記紀神話とは全く異なる、ナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀に変貌していたのです。詳しくは斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書 2006)にあります(注1)

(詳しくは「天皇即位の密教の儀式の正体?」参照)
 
712年に完成したとされる古事記は9世紀の日本書紀の勉強会(日本紀講えん)で突然表に出てきたもので、正史に古事記の記録もなく、日本書紀が参照した痕跡もないものなのですから偽書なのです(注2)。
 
しかし、多くの日本人は天皇の歴史書だと刷り込まれているので、記紀神話を太古からの伝承だと考えています。 日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのはいいと思いますが、完成したのは崩御の34年後なのです。時の権力者藤原不比等が、権力を将来に渡り握り続けるために不都合な建国時代の歴史を神話を創って誤魔化し、人代もかなり改ざんしていることが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しています。
 
 
アブダクションと呼ばれる最近注目されている科学的な推論法に従って、事実に基づき仮説を構築しています(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」参照)。
 
事実に基づかない想像は空想ですが、空想に凝り固まって反論を受け付けないのは妄想という病気の症状です。余計なお世話かもしれませんが、ANYAさんも仮説を事実でもっと検証した方がいいと思います。
どうもお邪魔しました(;^ω^)

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(注1)この本のレビュー日本神話はトンデモない!? 豊饒な「日本書紀」、天皇が発する「勅語」という神話」(2017.2.8)がありますのでどうぞ(;^ω^)。しかし、記紀神話が偏狭なナショナリズムを生み出し、多くの日本国民を不幸にした大東亜戦争とその敗戦の元凶のように考えられていますが、それも一方的な偏った見方ではないかと思います。その時代にはその時代の考え方があり、封建社会から近代化に向かい、列強が支配する世界の荒波の中を生き抜く知恵として記紀神話が使われたことも事実です。歴史を知ることは未来を如何に賢く生きるかを教えてくれるものですから、前向きにポジティブ思考で考えてゆけばいいのだと思います(^_-)-☆

今、一番興味を持っている霊ライン解明の糸口になるかと思い、田畑誠(まこちん)「宇宙一わかりやすい「量子力学」大全」KADOKAWA 2024)を読み始めたのですが、すべての現象は各自の脳内で素粒子が作り出す情報でしかないと知って、少しショックを覚えています。学生時代には量子力学を独習しようとして途中で投げ出した覚えがあります。でも、もう一度勉強しなくてはならない予感がしています。頭が錆びついていますのでもう遅いかも知れませんが(;^ω^)

(注2)日本書紀が完成した翌年養老五年(721年)が最初とされますが、この時は講師を決めずにお披露目しただけです。その後、弘仁三年(812年)・承和十年(843年)・元慶二年(878年)・延喜四年(904年)・承平六年(936年)・康保二年(965年)の計7回行われたものと、史料などから考えられています。その弘仁三年の講師が多人長です。サブテキストとして古事記の存在を明らかにしましたが、序文はその内容から人長が書いたものとされています。通説では本文は、何らかの原本があったと見られていますが、すでに大和岩雄「古事記成立考」(大和書房 1974岡田英弘「倭国の時代」(文芸春秋 1976)で偽書と論証されているのです。これらを受け入れられないのは、多くの方が「記紀が天皇の歴史書」だという思い込みからでしかないのです(詳細は「【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )」参照)。

古事記は、日本書紀が隠した史実を、日本書紀に沿いながら違えることによってそれとなく史実を暴露する暗号書だったのです。以下に主な内容を示します。

(1)王年代紀は記紀神話を正した!

新唐書・宋史が記した王年代紀で示した初代奴国王天御中主を、日本書紀で高天原に最初に登場する神として古事記でも登場させ、日本書紀の神代七代前に五代の別天神を紹介することによって、神代の高天原の神々が、宋史王年代紀に記載した倭国を支配した奴国王のことだと示唆した(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)

(2)倭王帥升(すいしょう)は何者だ?

高天原を追放された乱暴者の神が、八百万の神々に髪の毛をむしられ、手足の爪を剥がされ、全財産を没収されて追放されたと書くことによって、107年に後漢に朝貢した倭の伊都国王師升が第十八代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った史実を示唆した(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

(3)ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!

日本書紀の神武東征神話が真の初代応神天皇の即位の史実を誤魔化す話であることを示唆した。日本書紀で登場するナガスネヒコの別名をトビヒコと明かすことにより、トビヒコの正体の大国主がヤマトのニギハヤヒ大王の子孫に殺された後に大国主の祟りにより、大国主の子(応神天皇)が祭祀王として纏向遺跡に呼ばれてヤマト王権が成立した史実を示唆した(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。

(4)日向三代神話は出雲三代がモデルだった!

日本建国の主役であったスサノヲの子孫の出雲・丹後王三代の王八束命(出雲国風土記の神八束水臣津野命の略称)・日高彦(大国主高野御子の父)の正体を日本書紀は日向三代の神話で隠したことを示唆する神名を与えた。八束命は淤美豆奴神(オミズヌノカミ)とした。またその子日高彦(穂高彦)を天之冬衣神(アメノフユキヌ)としたが、冬の季語がホダ(木切れ)なので八束命と日高彦が木霊イタケルの子孫であることを暗示した(詳細は「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」参照)。

(5)空白の世紀と倭の五王の謎

空白の四世紀の謎を解明するためのヒントを与えた。仁徳天皇が、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ、宇治天皇)を暗殺して皇位を奪った史実や卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)の孫の菟道稚郎子の妹八田皇女と仁徳天皇の子住吉仲皇子(住吉天皇)が即位した後、異母兄弟たち(履中天皇・反正天皇)に暗殺された史実に加えて、倭の五王の系譜を示唆するために日本書紀と異なる崩年干支を記載した(「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」参照)。これによって富雄丸山古墳の被葬者が判明した(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。

(6)天智天皇とは何者だ?

日本書紀が隠した天智天皇の真の系譜に気付かせるヒントを与えた。日本書紀が天智天皇の祖父とした押坂彦人大兄の妃糠手姫皇女(ヌカデヒメノヒメミコ)が、日本書紀が天智天皇の母とした宝皇女(タカラノヒメミコ、皇極・斉明天皇)と同じ名前の宝王(タカラノヒメミコ)だったことを明かすことで天智天皇(中大兄、中津王)の真の母が糠手姫皇女であったことを示唆した(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。

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王年代紀は記紀神話を正した!

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として倭国から日本に国号を変えたことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

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