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【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その2)

2021-07-21 22:22:59 | 古代史
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前回(その1)景行天皇の九州遠征の話の続きです。すでに当ブログで何度も述べているので、前回あまり述べませんでしたが、景行天皇というのは実在の天皇ではありません。というかまだ、天皇が生まれる日本建国の前の時代の話です。ですから初代応神天皇の父とされる仲哀天皇ですが、この方も天皇でもなく、応神天皇の本当の父でもありません。「日本書紀」が史実を隠すために天皇として登場させた人物です。

仲哀天皇は纏向狗奴国の卑弥弓呼大王に最初に派遣された倭国征討軍の主将の尾張王乎止与命(ヲトヨ、記紀では仲哀天皇)がモデルです。仲哀天皇の和風諡号タラシナカツヒコを使った方がいいかも知れません。彼が、倭国王難升米を追い払って、卑弥弓呼大王を裏切り倭国王に立とうとしたので、征討軍に参戦した山陰から北陸の縄文海人を配下にしていた狗古智卑狗(久々遅彦、スサノヲ大王直系の王)らが反発し千人ほどが殺される内戦が起こって、尾張王乎止与命が殺されます(鳥栖市の九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に埋葬されたと推理しています)。

そして狗古智卑狗が倭国に加えて山陰・北陸まで支配し、魏を後ろ盾として纏向狗奴国と対立し、結局は滅ぼされたので、後世大和に国譲りした大国主と呼ばれます。景行天皇は「日本書紀」では仲哀天皇の祖父という設定ですが、この九州での戦乱の考古学の証拠から、大国主と女王台与の倭国追討のために派遣された乎止与命の後を継いだ尾張王だと推理しています。和風諡号は建稲種命(タケイナダネ、記紀の景行天皇、仲哀天皇の祖父)です。ですから倭国の中枢部に攻め込み、父乎止与命の恨みをはらすために大国主を殺し、結果的に日本を統一することが尾張王建稲種命の九州遠征の目的となります。

さて、「日本書紀」では景行天皇(建稲種命)は速見邑の行宮で速津姫から「茲(この)山に鼠石窟という大きな岩屋があり、青と白という土蜘蛛が住んでおり、直入県(なおいりのあがた、竹田市)の禰疑野には打猿(うちざる)、八田(やた)、国麻侶(くにまろ)と言う三人の土蜘蛛が住んでおり、これらの土蜘蛛が皇命に従わず、戦うと言っています」という悪い情報を聞き、取り敢えず直入郡北部の来田見邑(くたみのむら、竹田市久住町、旧直入郡球覃郷くたみのさと)に移動して、宮処野神社(みやこのじんじゃ、大字仏原)に行宮を造り、群臣と謀ることにしました。

(クリックで拡大)

速見邑から来田見邑へのルートは、大分市内の下郡遺跡に戦跡がみられますので別府湾を横断して、ここを攻撃し、更に雄城台遺跡でも銅鏃が見つかっていますので、ここも攻撃して来田見邑の行宮まで進軍したと考えられます。

行宮で景行天皇(建稲種命)は、今、ここで多くの兵を動かして土蜘蛛を討とうとしたら、わが兵の勢いに恐れて山野に隠れてしまうだろうから後できっと災いがある。ということで強い兵を選んで椿の木で作った椎(つち)を持たせて石室の土蜘蛛を襲撃し、稲葉川の上流でことごとくその仲間たちを殺しました。「血は流れて踝(くるぶし)までつかった」とあり、そこを血田(ちた)、椿の木の椎を作った所は海石榴市(つばきち、つばいち)と呼ばれています。

豊後国風土記には海石榴市と血田の場所については、図のとおり大野郡の条にあるのですが、稲葉川は大野川の支流で、その川上は大野郡よりもずっと西側の直入郡です。ですから、竹本晃「景行巡行伝承にみる『豊後国風土記』撰者の試み」(万葉古代学研究年報 = Annual report of Man'yo historical research (13) 15 - 30 2015年3月)には、海石榴市も血田も直入郡のどこかにあるはずで、撰者が石室を鼠石窟と思い込み、さらに稲葉の川上を大野郡内と誤解したためだと主張されています。

しかし、その場合、来田見邑が直入郡内であり、稲葉の川上を現在の稲葉川のことだとしたら大野郡に戻るのは不自然であるということからの発想ですが、そのような解釈では海石榴市も血田の場所も、更に現在でも鼠石窟は不明となっているようですが、それらすべてが不明ということになります。

鼠石窟のことですが、竹本氏は速津媛が速見郡の行宮で「茲(この)山」と言ったことから行宮から西南方向に位置する直入郡に入る途中に在り、そこでの出来事だろうという見解です。しかし、それならば鼠石窟の青・白を退治する話は省略し、別の石室に居た土蜘蛛が退治されたことになり、これも不自然な話です。

そこで、刮目天が師匠と仰ぐ、邪馬台国宇佐説を最初に学説として提唱された富来隆先生の「鼠ノ石窟と土蜘蛛」(別府史談 No.9 1995. 11 ,p.24- 30)にヒントがありました。つまり、鼠ノ石窟の朝鮮語の発音「チー・トーングル」が「大将(ティ、チ”ャング)」とか「鍛冶屋(ティ、チ”ャングカン)」に類似しているという指摘です。鉄鏃が大量に出土したのは大野川流域です。となるとその流域の鍛冶屋集団を纏めていたのが鍛冶屋の大将「青と白」と考えられます。

そうだとすると、血田は風土記から大野川の支流の緒方川の右岸の河川敷ですので、その上流が鼠石窟ということになります。緒方宮迫西石窟東石窟のある豊後大野市緒方町宮迫の台地に陣を構えていた二人の大将(白は副将でしょう)が景行天皇(建稲種命)の強兵に奇襲されたということだと考えられます。(2021.7.22 赤字訂正)

そうなると竹本氏も「古代において、河川の名称がどこから変わるのかはわからないが、(途中略)「川上」の地をどこと推定するかで、認識も随分と異なってくる。」までは正しいと思いますが、「『豊後国風土記』撰者は、「稲葉の川上」を大野郡内と認識してしまったのではないだろうか。」というのではないようです。

むしろ「日本書紀」の編者が直入郡の来田見邑が稲葉川流域であることから鼠石窟の伝承にあった川上を稲葉川と誤解してしまったのを、「日本書紀」の後に完成したと言われる現存の「豊後国風土記」の撰者は、伝承が緒方川上流であることを原風土記から知っていましたが、「日本書紀」の誤りを修正できず「稲葉の川上」を消して鼠石窟、血田と海石榴市を伝承どおり大野郡の条に記述したのだと考えられます。

不比等は「日本書紀」の編纂にあたり、各地に風土記の編纂を命じています。不比等が集めた原豊後国風土記には史実である尾張王建稲種命の伝承が書かれていたはずです。「日本書紀」の編纂者はそれをもとに景行天皇の熊襲征伐に書き変えたものだと考えています。現存する豊後国風土記の撰者は「日本書紀」に合うように原風土記を書き変えたのでしょう。

上述の石窟の磨崖仏は平安時代後期に作られたものですが(注1)、末法思想から、伝承に在る鼠石窟の激戦の死者を弔い鎮魂のために作られたものと考えられます。大分県に石仏が多いのは恐らく、日本建国時代の戦死者の霊を弔うためではないかと思います。

景行天皇(建稲種命)軍は緒方川上流の戦場から、一気に阿蘇を抜けて倭国の本拠地に攻め上ろうと考えましたが、行く手にはまだ三人の土蜘蛛が残っています。

「また、打猿を討とうとして禰疑山(ねぎやま)を越えた。そのとき、敵の射る矢が横の山から飛んできて、降る雨のようであった。天皇は城原(きはら)に帰り、占いをして川のほとりに陣を置かれた。」(宇治谷猛「日本書紀(上)」講談社学術文庫,1988,p.157)とありますから、すでに景行天皇(建稲種命)は城原に入っており、城原を出て鼠石窟を襲った強兵部隊とどこかで合流したのかも知れません。しかし、福岡県東部の合戦の様子から景行天皇(建稲種命)はそれ程大軍で九州遠征したものでないかも知れないと考えられますから、景行天皇(建稲種命)が直接強兵部隊を率いて鼠石窟を襲撃したと考えて図にその後の経路を記しました。

景行天皇(建稲種命)は城原で体勢を立て直し、禰疑野の八田を破り、白旗を掲げた打猿を許さないのでみんな自ら谷に身を投げたと書かれています。景行天皇(建稲種命)は柏峡(かしわお)の大野(竹田市萩町柏原)に宿られ、そこで神意を占ったとあります。「踏石(ほみし)」と呼ばれる大きな岩のような石を蹴飛ばし「土蜘蛛を滅ぼすことが出来るなら柏の葉っぱのように舞い上がれ」と言って、大空に舞い上がったと書かれています。お願いした神様は、志我(しが)神、直入物部神と直入中臣神だとあります(この神についてはこのシリーズの最後に述べるつもりです)。

そして直ぐに日向に向かう話になりますから、景行天皇(建稲種命)の土蜘蛛退治は失敗したので、悔しくて岩を蹴飛ばしたというのが史実ではないかと思います。前回の遠征ルート図では大分市の下郡遺跡を攻撃するときに舟を係留した場所に戻ったのかと考えましたが、「豊後国風土記 速見郡条」に速津媛の話が以下のように書かれています。
「昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球磨贈於(クマソ)を征伐しようと筑紫に向かった。そこで周防国の佐婆津(さばつ)から船出して海部郡の宮浦に到った時、この村には速津媛(ハヤツヒメ)という女がおり、この者は村の長であった。」

海部郡宮浦は速見郡ではないことは明らかで「日本書紀」に矛盾します。上の図の佐伯市米水津大字宮野浦だと思います。これは撰者が意図的に書いたものかもしれません。あるいは、伝承では速見邑ではなく海部郡宮浦となっていて、緒方町宮迫を先に攻撃し、禰疑野で土蜘蛛にさんざんな目に遭って、一旦日向まで退却したという伝承だったのかも知れません。前回(その1)に掲載した景行天皇九州遠征図を変更しました。しかし冒頭、速津媛が「茲(この)山に鼠石窟という大きな岩屋があり」とありますので、海部郡宮浦で大野郡緒方町宮迫の台地を指したというのが自然のような気もしますね。

(注1)これらの磨崖仏の名称ですが、南に西石窟、北に「東石窟」とあります。以前から九州で時々おかしな方角になっているのは魏志倭人伝のフェイクによるものだと考えています。でもこの地名はずっと後ですから、元寇と関係あるのかも知れません。つまり九州内部の方角地名を魏志倭人伝に倣い、意図的に変えているのでしょうかね。この現象は長崎県や佐賀県にもみられますよ。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
次は日向国から先の話です。
今回も結構ややこしいので、うまく書けませんでしたが、次もよろしくお願いします。
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