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古代史ランキング
2020-07-20 14:05:41に掲載したこの記事は、二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱を収めるために女王卑弥呼が共立され、二四七年頃に卑弥呼が死んだとする魏志倭人伝の記録の内容を解明するための重要なヒントとなりました。倭国王難升米に懐柔されて、狗奴国を裏切って邪馬台国連合倭国を成立させた、縄文系ムナカタ海人族の玄界灘を支配していたワニ氏の祖である、卑弥呼の父の赤坂比古を見つけ出すヒントになりました(「女王を共立した赤坂比古は?」参照)。さらに、卑弥呼の死が二四七年三月二十四日の日食と関係していることを裏付けるものとなっていますから大発見ですよ(「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。少し込み入っていますが、お付き合いください(*^▽^*)。
前回のブログ「【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆」のコメントで推理したとおり、
卑弥呼が日蝕(ひはえ)神社で祀られていたとしたら、邪馬台国の謎、卑弥呼の正体が一気に判明します。以下に説明します。もう一度そのコメントをここに書きます。
日牟禮(ひむれ)八幡宮 滋賀観光ホームページより
kunorikunori様
早速、よい情報を有り難うございます!
なる程、日牟禮八幡宮の山が日触山だったのですね!やはり、このあたりで日蝕が観測されたと考えるべきか?あるいは和邇氏がここで卑弥呼を祀るために社としたのか?
歴史改ざんの犯人不比等の歌に日群れの社と出てくるならば、日蝕神社が本当の名前だったのを強権で日群之宮と変えさせたら、地元は日触として朝廷と妥協したのではないかと想像できますね?ちょっと込み入った話ですが、どうでしょうか?o(^o^)o
当時の近江は鉄を抑えてましたから朝廷に対しても発言権はあったのではないかと想像しますが、どうでしょうか?
八幡宮のwikiによれば、「持統天皇5年(691年)、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天(あめ)降りの 神の誕生(うまれ)の八幡(やわた)かも ひむれの杜に なびく白雲」)。」とあります!
不比等は卑弥呼の霊を祀る日蝕神社に参拝して、社名変更を迫ったようです(*`Д´*)
それでは、一つ一つ見ていきましょう(*^▽^*)
日牟禮八幡宮の祭神は、宇佐神宮とまったく同じですが、八幡大神を祀るようになったのは宇佐神宮の歴史年表によれば、以下のとおりです。
和銅五年(712年) 鷹居社を造り、八幡大神を祀ったのが最初で、霊亀二年(716年)八幡大神を小山田社に移し祀り、神亀二年(725年)小椋山(現在の本殿地)に八幡大神一之御殿を遷座する。また、東方の日足に弥勒禅院を建立する。(注1)
つまり、不比等がこの和歌を詠んだということであれば、この時には八幡大神は宇佐にも祀られていませんから、日牟禮八幡宮という名前ではなく「日群(ひむれ)の杜」でもなく別の名前の神社だったということでしょう。不比等によって比牟禮(日群)杜に変えられたということです。
そして八幡神はWikiによれば、「八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[4]。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される[4]。」とありますから、691年の時点では八幡神は応神天皇のことではないと考えられます。
というのも、天降りの神は、スサノヲとアマテラスの誓約(うけい)で生まれ、諸説ありますが、宇佐嶋(安心院町三柱山)に降臨した宗像三女神(比売大神)を意味します。ここの「八幡(やわた)」は同じくWikiに、『「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる[4]。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り[4]、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる[4]。』とあります。
つまり、比売神(ムナカタ女神)卑弥呼の依り代としてこの神社に立てられた多数の旗を意味します。この八幡が応神天皇降誕を示すという説は、不比等の歌の時点では当てはまりません。そして、最後のフレーズ「ひむれの杜に なびく白雲」ですが、和邇氏が比売神卑弥呼を祀る日蝕(ひはえ)神社を、その社名から類推して日群(む)れの杜と言い換えたというのが無理のない考えだと思います。比売神が日食のために殺された卑弥呼だという歴史の真相を隠すためでしょう。(2020.7.22 赤字追加)
和邇(和珥)氏は前回見たとおり、Wikiによれば、「出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した日の御子信仰[1]または太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団とする説や[2]、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説がある[3][4]。」。
和珥氏は、卑弥呼の一族である縄文海人ムナカタ族の一派じゃないでしょうか?!
日触が原因で殺された卑弥呼の祟りが起こらないように密かに祀っているのだと思います(^◇^)
和邇氏は四世紀から六世紀にかけて、葛城氏没落後に天皇(大王)の妃を多数だした有力氏族です。天理市和邇町に四世紀後半頃の築造と推定される、中平年銘の鉄刀出土の東大寺山古墳があます(注2)。その北側に在る和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)の御祭神が阿田賀田須命と市杵嶋比賣命となっています。Wiki「宗像氏」によると、宗像氏の出自は「大国主神の六世孫、あるいは三女神の七世孫の吾田片隅命の子孫」とありますから、和邇氏は宗像氏と同祖だったのでしょう。だから、近江八幡市でも日牟禮八幡宮と大嶋神社・奥津嶋神社で宗像三女神を祀っていますから、和邇氏は縄文海人ムナカタ族の一派とみて間違いないでしょう。
つまり、和邇氏が日牟禮八幡宮で八幡大神とされる応神天皇を祀るのはヤマト朝廷の要請か朝廷への配慮でしかないということです。元々日蝕を連想させる名前の神社で卑弥呼(市杵嶋比賣命)を祀っていたということを意味します。
ズバリ、日蝕(ひはえ)神社だったと思います(^_-)-☆
日触(ひふれ)という言葉は和邇日触使主の他に見当たりません(注3)。
日触(ひふれ)についてどなたか、詳しいことをご存知の方はお教えください。
ちなみに能「日触詣」は明治になって作られたようですが、観世流は秦氏ですから、何か真相を伝えたかったのかも知れません。国会図書館のデジタル・コレクションからダウンロードできますが、草書体なので簡単に読めません。どなたか堪能の方にお願いしたいです。何かヒントが隠されているかもしれませんよ。
日触(ひふれ)が日蝕(ひはえ)の連想で作られた言葉であれば、
やはり、247年3月24日に北部九州一帯で見られた日食(北九州市付近は皆既)が原因で
卑弥呼が殺されたということを裏付けるものということです。
卑弥呼の正体は、縄文海人ムナカタ族の姫巫女でしょう!
不比等の歌の最後の部分「なびく白雲」を調べると、「青旗の 葛木山に たなびける 白雲隠る…(『万葉集』丹比笠麻呂)第4巻509番歌」がヒットしました。葛木山とは、葛城山の古い表記だそうです(「青旗の」が葛木(城)山の枕詞)。(2020.7.21 訂正)
Wiki「葛城氏」では大泊瀬皇子(雄略天皇)が兄安康を殺した敵対勢力の一掃に踏み切った「一連の政変で滅びたのは玉田宿禰系のみであって、葦田宿禰系は5世紀末までしばらく勢力を存続させていたと主張する議論もみられるが[6]」(「空白の世紀と倭の五王(その1)~(その3)」参照)。つまり、葛城氏と同祖ではないかも知れませんが、大国主・応神天皇の大王家にゆかりのある縄文海人ムナカタ族の和邇氏も、葛城氏が没落し雄略天皇になびいたように、「藤原氏になびくのだぞ!」と神社名の変更を押し付けた歌ではないでしょうか(;一_一)(2022.12.10 赤字修訂)
八幡宮の名称は「日本書紀」完成の721年ころからということですから、「神の誕生の八幡かも」を応神天皇のこととするならば、不比等の歌ではなく、後に作られた話になりますよ。日群れの由来の応神天皇がこの地で二つの日輪を見たというのもとても怪しい(卑弥呼が見た日食はこれだ(*^▽^*) 参照)
いずれにしても和邇氏がこの地で比売神卑弥呼を祭神として祀っていた社は
日蝕(ひはえ)の社というのが最初の神社名であったのではないでしょうか?
藤原氏によって強引に神社名を変更されたので、
和邇氏はちょっと目立たぬように逆らって
日群(ひむれ)に似た日蝕を思わせる「日触(ひふれ)」という言葉を作り、
日触山・日触之宮の名称を残したのだと推理できますよ。
それに合わせて、この神社を創建した和邇氏の祖日蝕使主(ひはえのおみ)を
日触使主(ひふれのおみ)と変えたのではないでしょうか?(^_-)-☆
「日本書紀」編纂の中で不比等らが書き換え、和邇氏が押し付けられた可能性もあります(注2)。(2020.7.20 青字訂正)
これに関して何か情報をお持ちの方はご一報ください。どうぞよろしくお願い致します。
(注1) 応神八幡神/顕現伝承に詳しい。それによると幾つかある八幡大神の顕現伝承の最古といわれるものに承和縁起に載る以下の説があります。
伝承①--大神清麻呂解状(弘仁6年-815-12月10日、解状-ゲジョウ--所管の宮司に上申する文書)--大神(おおが)氏系
伝承②--辛嶋家主解状(弘仁5年-814-2月23日)--辛嶋氏系
①は「大御神は、欽明天皇の御世(539--71)、豊前国宇佐郡馬城嶺(御許山)に始めて顕れた。大神比義が戊子の年〔欽明29年-568・同32年-571-ともいう〕、鷹居社を建てて祝(ハフリ・神官)となって祀り、後に菱形小椋山に遷し祀った」〔 〕内は原注とあり、応神天皇としていますが、②の後追いで作られたようです。
②によれば、創建年がハッキリしているのは和銅三年(710年)乙咩神社(おとめじんじゃ)のようですが、応神天皇ではなく比売大神です。それ故、宇佐神宮年表では和銅五年の鷹居社からにしているようです。(2020.7.22 追加)
(注2)東大寺山古墳の被葬者は和邇氏だと考えられます。この鉄刀が卑弥呼が公孫氏から貰ったという説がありますが、中平年間(184-188年)は半島は混乱していたので、遼東太守公孫氏と倭国との交流も難しかったのではないかと考えられます。公孫氏が半島の混乱を鎮静化させて204年に帯方郡を設置してから、伊都国男王が沖ノ島経由で旧奴国王族に半島南部の鉄素材を供給していたムナカタ族を懐柔して、ムナカタの姫巫女卑弥呼が女王に共立されたと推理しています。したがって別の目的で作られたこの鉄刀を4世紀に半島に遠征していた和邇氏が入手したものと考えています。
と書きましたが、その後、倭国王が公孫氏から貰ったものを、公孫氏が魏に滅ぼされたので、赤坂比古に下賜したと考えています。(2022.6.27 赤字追加)
(注3)Wiki「米餅搗大使主」によれば、「大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。[2]」です。
不比等は歴史の真相を暴露する和邇氏を正史から抹殺したようです。
【関連記事】
【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆
卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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2020-07-20 14:05:41に掲載したこの記事は、二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱を収めるために女王卑弥呼が共立され、二四七年頃に卑弥呼が死んだとする魏志倭人伝の記録の内容を解明するための重要なヒントとなりました。倭国王難升米に懐柔されて、狗奴国を裏切って邪馬台国連合倭国を成立させた、縄文系ムナカタ海人族の玄界灘を支配していたワニ氏の祖である、卑弥呼の父の赤坂比古を見つけ出すヒントになりました(「女王を共立した赤坂比古は?」参照)。さらに、卑弥呼の死が二四七年三月二十四日の日食と関係していることを裏付けるものとなっていますから大発見ですよ(「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。少し込み入っていますが、お付き合いください(*^▽^*)。
前回のブログ「【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆」のコメントで推理したとおり、
卑弥呼が日蝕(ひはえ)神社で祀られていたとしたら、邪馬台国の謎、卑弥呼の正体が一気に判明します。以下に説明します。もう一度そのコメントをここに書きます。
日牟禮(ひむれ)八幡宮 滋賀観光ホームページより
kunorikunori様
早速、よい情報を有り難うございます!
なる程、日牟禮八幡宮の山が日触山だったのですね!やはり、このあたりで日蝕が観測されたと考えるべきか?あるいは和邇氏がここで卑弥呼を祀るために社としたのか?
歴史改ざんの犯人不比等の歌に日群れの社と出てくるならば、日蝕神社が本当の名前だったのを強権で日群之宮と変えさせたら、地元は日触として朝廷と妥協したのではないかと想像できますね?ちょっと込み入った話ですが、どうでしょうか?o(^o^)o
当時の近江は鉄を抑えてましたから朝廷に対しても発言権はあったのではないかと想像しますが、どうでしょうか?
八幡宮のwikiによれば、「持統天皇5年(691年)、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天(あめ)降りの 神の誕生(うまれ)の八幡(やわた)かも ひむれの杜に なびく白雲」)。」とあります!
不比等は卑弥呼の霊を祀る日蝕神社に参拝して、社名変更を迫ったようです(*`Д´*)
それでは、一つ一つ見ていきましょう(*^▽^*)
日牟禮八幡宮の祭神は、宇佐神宮とまったく同じですが、八幡大神を祀るようになったのは宇佐神宮の歴史年表によれば、以下のとおりです。
和銅五年(712年) 鷹居社を造り、八幡大神を祀ったのが最初で、霊亀二年(716年)八幡大神を小山田社に移し祀り、神亀二年(725年)小椋山(現在の本殿地)に八幡大神一之御殿を遷座する。また、東方の日足に弥勒禅院を建立する。(注1)
つまり、不比等がこの和歌を詠んだということであれば、この時には八幡大神は宇佐にも祀られていませんから、日牟禮八幡宮という名前ではなく「日群(ひむれ)の杜」でもなく別の名前の神社だったということでしょう。不比等によって比牟禮(日群)杜に変えられたということです。
そして八幡神はWikiによれば、「八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[4]。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される[4]。」とありますから、691年の時点では八幡神は応神天皇のことではないと考えられます。
というのも、天降りの神は、スサノヲとアマテラスの誓約(うけい)で生まれ、諸説ありますが、宇佐嶋(安心院町三柱山)に降臨した宗像三女神(比売大神)を意味します。ここの「八幡(やわた)」は同じくWikiに、『「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる[4]。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り[4]、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる[4]。』とあります。
つまり、比売神(ムナカタ女神)卑弥呼の依り代としてこの神社に立てられた多数の旗を意味します。この八幡が応神天皇降誕を示すという説は、不比等の歌の時点では当てはまりません。そして、最後のフレーズ「ひむれの杜に なびく白雲」ですが、和邇氏が比売神卑弥呼を祀る日蝕(ひはえ)神社を、その社名から類推して日群(む)れの杜と言い換えたというのが無理のない考えだと思います。比売神が日食のために殺された卑弥呼だという歴史の真相を隠すためでしょう。(2020.7.22 赤字追加)
和邇(和珥)氏は前回見たとおり、Wikiによれば、「出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した日の御子信仰[1]または太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団とする説や[2]、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説がある[3][4]。」。
和珥氏は、卑弥呼の一族である縄文海人ムナカタ族の一派じゃないでしょうか?!
日触が原因で殺された卑弥呼の祟りが起こらないように密かに祀っているのだと思います(^◇^)
和邇氏は四世紀から六世紀にかけて、葛城氏没落後に天皇(大王)の妃を多数だした有力氏族です。天理市和邇町に四世紀後半頃の築造と推定される、中平年銘の鉄刀出土の東大寺山古墳があます(注2)。その北側に在る和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)の御祭神が阿田賀田須命と市杵嶋比賣命となっています。Wiki「宗像氏」によると、宗像氏の出自は「大国主神の六世孫、あるいは三女神の七世孫の吾田片隅命の子孫」とありますから、和邇氏は宗像氏と同祖だったのでしょう。だから、近江八幡市でも日牟禮八幡宮と大嶋神社・奥津嶋神社で宗像三女神を祀っていますから、和邇氏は縄文海人ムナカタ族の一派とみて間違いないでしょう。
つまり、和邇氏が日牟禮八幡宮で八幡大神とされる応神天皇を祀るのはヤマト朝廷の要請か朝廷への配慮でしかないということです。元々日蝕を連想させる名前の神社で卑弥呼(市杵嶋比賣命)を祀っていたということを意味します。
ズバリ、日蝕(ひはえ)神社だったと思います(^_-)-☆
日触(ひふれ)という言葉は和邇日触使主の他に見当たりません(注3)。
日触(ひふれ)についてどなたか、詳しいことをご存知の方はお教えください。
ちなみに能「日触詣」は明治になって作られたようですが、観世流は秦氏ですから、何か真相を伝えたかったのかも知れません。国会図書館のデジタル・コレクションからダウンロードできますが、草書体なので簡単に読めません。どなたか堪能の方にお願いしたいです。何かヒントが隠されているかもしれませんよ。
日触(ひふれ)が日蝕(ひはえ)の連想で作られた言葉であれば、
やはり、247年3月24日に北部九州一帯で見られた日食(北九州市付近は皆既)が原因で
卑弥呼が殺されたということを裏付けるものということです。
卑弥呼の正体は、縄文海人ムナカタ族の姫巫女でしょう!
不比等の歌の最後の部分「なびく白雲」を調べると、「青旗の 葛木山に たなびける 白雲隠る…(『万葉集』丹比笠麻呂)第4巻509番歌」がヒットしました。葛木山とは、葛城山の古い表記だそうです(「青旗の」が葛木(城)山の枕詞)。(2020.7.21 訂正)
Wiki「葛城氏」では大泊瀬皇子(雄略天皇)が兄安康を殺した敵対勢力の一掃に踏み切った「一連の政変で滅びたのは玉田宿禰系のみであって、葦田宿禰系は5世紀末までしばらく勢力を存続させていたと主張する議論もみられるが[6]」(「空白の世紀と倭の五王(その1)~(その3)」参照)。つまり、葛城氏と同祖ではないかも知れませんが、大国主・応神天皇の大王家にゆかりのある縄文海人ムナカタ族の和邇氏も、葛城氏が没落し雄略天皇になびいたように、「藤原氏になびくのだぞ!」と神社名の変更を押し付けた歌ではないでしょうか(;一_一)(2022.12.10 赤字修訂)
八幡宮の名称は「日本書紀」完成の721年ころからということですから、「神の誕生の八幡かも」を応神天皇のこととするならば、不比等の歌ではなく、後に作られた話になりますよ。日群れの由来の応神天皇がこの地で二つの日輪を見たというのもとても怪しい(卑弥呼が見た日食はこれだ(*^▽^*) 参照)
いずれにしても和邇氏がこの地で比売神卑弥呼を祭神として祀っていた社は
日蝕(ひはえ)の社というのが最初の神社名であったのではないでしょうか?
藤原氏によって強引に神社名を変更されたので、
和邇氏はちょっと目立たぬように逆らって
日群(ひむれ)に似た日蝕を思わせる「日触(ひふれ)」という言葉を作り、
日触山・日触之宮の名称を残したのだと推理できますよ。
それに合わせて、この神社を創建した和邇氏の祖日蝕使主(ひはえのおみ)を
日触使主(ひふれのおみ)と変えたのではないでしょうか?(^_-)-☆
「日本書紀」編纂の中で不比等らが書き換え、和邇氏が押し付けられた可能性もあります(注2)。(2020.7.20 青字訂正)
これに関して何か情報をお持ちの方はご一報ください。どうぞよろしくお願い致します。
(注1) 応神八幡神/顕現伝承に詳しい。それによると幾つかある八幡大神の顕現伝承の最古といわれるものに承和縁起に載る以下の説があります。
伝承①--大神清麻呂解状(弘仁6年-815-12月10日、解状-ゲジョウ--所管の宮司に上申する文書)--大神(おおが)氏系
伝承②--辛嶋家主解状(弘仁5年-814-2月23日)--辛嶋氏系
①は「大御神は、欽明天皇の御世(539--71)、豊前国宇佐郡馬城嶺(御許山)に始めて顕れた。大神比義が戊子の年〔欽明29年-568・同32年-571-ともいう〕、鷹居社を建てて祝(ハフリ・神官)となって祀り、後に菱形小椋山に遷し祀った」〔 〕内は原注とあり、応神天皇としていますが、②の後追いで作られたようです。
②によれば、創建年がハッキリしているのは和銅三年(710年)乙咩神社(おとめじんじゃ)のようですが、応神天皇ではなく比売大神です。それ故、宇佐神宮年表では和銅五年の鷹居社からにしているようです。(2020.7.22 追加)
(注2)東大寺山古墳の被葬者は和邇氏だと考えられます。この鉄刀が卑弥呼が公孫氏から貰ったという説がありますが、中平年間(184-188年)は半島は混乱していたので、遼東太守公孫氏と倭国との交流も難しかったのではないかと考えられます。公孫氏が半島の混乱を鎮静化させて204年に帯方郡を設置してから、伊都国男王が沖ノ島経由で旧奴国王族に半島南部の鉄素材を供給していたムナカタ族を懐柔して、ムナカタの姫巫女卑弥呼が女王に共立されたと推理しています。したがって別の目的で作られたこの鉄刀を4世紀に半島に遠征していた和邇氏が入手したものと考えています。
と書きましたが、その後、倭国王が公孫氏から貰ったものを、公孫氏が魏に滅ぼされたので、赤坂比古に下賜したと考えています。(2022.6.27 赤字追加)
(注3)Wiki「米餅搗大使主」によれば、「大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。[2]」です。
不比等は歴史の真相を暴露する和邇氏を正史から抹殺したようです。
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