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天皇家が高麗にゆかりがあるのか?(;一_一)

2022-01-23 12:31:43 | 古代史
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2017-09-21 19:14:50に掲載した記事に、その後判明したのですが、謎が多いので、その解明を加えて大幅に改訂しました。最後までお付き合いください(*^▽^*)

韓国紙、「歴代天皇で初」と詳報=埼玉の高麗神社参拝
2017.9.21 15:02 時事通信

 【ソウル時事】21日付の韓国主要各紙は、天皇、皇后両陛下が20日、古代朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人を祭った埼玉県日高市の高麗神社を参拝されたことについて、「私的な旅行の一環だが、歴代日王(天皇)で初めて」と写真付きで詳しく報じた。

 中央日報は、天皇陛下が2001年の会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べたことなどを紹介。「韓国の歴史と文化に関心を示してきた」と伝えた。

 中央日報や朝鮮日報によると、陛下は、神社を案内した宮司に「高句麗はいつ滅亡したのですか」「高句麗人と百済人は、どのような違いがあるのですか」などと質問し、強い関心を見せたという。

 東亜日報は「天皇は訪韓に意欲を示してきたが、実現していない」と指摘。「18年12月または19年3月に退位するとみられており、在位中の訪韓は難しい状況だ」と解説した。


高麗神社(こまじんじゃ)をWikiで調べました。「現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷は716年武蔵国高麗郡が設置されたが、その辺りの高句麗からの帰化人が建てた神社」と言われています。

天智天皇五年(666年)に高句麗の使節の一員として玄武若光が日本に来てそのまま帰化したと「日本書紀」にあります。668年に高句麗が唐に滅ぼされましたが、救援依頼目的で来日したのです。しかし、すでに663年に倭国は白村江の戦いで敗北していたので、日本は最早高句麗を助けることができないということで、使節団はそのまま日本に留まったようです。

その37年後の大宝三年(703年)従五位下の高麗若光が高麗王(こにきし)として姓(かばね)を与えられたと「続日本紀」にあります。高麗神社はこの高麗王若光をご祭神にしています。

そこで、高麗神社の公式HPでは玄武若光と同一人物と見ており、以下のように解説されています。

若光の渡来から半世紀を経た霊亀2(716)年5月16日、大和朝廷は駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総・下総(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)の七国から高句麗人1799人を武蔵国に移し「高麗郡」を創設(続日本書紀巻第7の記述)。この時、若光は郡の長官に任命されました。若光は郡内の高麗人をよく指揮し、未開の地を開発し、この地で波瀾の生涯を終えました。郡民はその徳を偲び、その霊を祀り、高麗郡の守護神としたのです。

しかし、Wiki「高麗若光」では682年に没した最後の高句麗王の寶臧(宝蔵)王を父としていることになってはいますが、Wiki「宝蔵王」からは玄武若光が王子であったかわかりません。

「日本書紀」には「天智五年冬十月二十六日、高麗(こま)は臣乙(まえつきみ)の相奄鄒(おつそうあんす)らを遣わして調を奉った。大使は臣乙の相奄鄒(おつそうあんす)、副使の達抵遁(たつそうどん)、二位の玄武若光(げんむじゃくこう)等である。」とあるので、玄武若光は宝蔵王の臣下だと思われます。

高麗王の姓(かばね)を賜った高麗若光が玄武若光と同一人物であれば、高句麗の王子ではないと思います。しかし、もしも違う人物であればいつ日本に帰化したのか記録がないので、本当に高句麗王族なのか不明ですが、高麗王の姓を貰った時に従五位下だったので、すでに帰化して殿上人(貴族)になっていた可能性もあるのでやはり使節団の一行の玄武若光でしょう。ツングース系の高句麗王族ではないと思います。

高麗神社に、将軍標(しょうぐんひょう・韓国語:장군표、チャングンピョ)と呼ばれる、朝鮮半島の村落に見られる魔除けのための境界標が鳥居の手前に置かれています。天下大将軍・地下女将軍と刻まれ、男女の標が対になったものとなっている。朝鮮語でチャンスン(장승、長栍、長丞)とも呼ばれています。「竿頭に鳥が止まった神竿をソッテ(솟대)、人面を彫った神木をチャンスン(長栍)という。鳥は天地を往来して神の使いをすると信じられて神格化され、神木には人面を彫って人格神化したという[1]。」wiki「将軍標」より)



高麗神社のすぐ南に在る高麗山聖天院(しょうでんいん)勝楽寺のHPを見つけ、これまた驚くべき発見をしました(^_-)-☆

【聖天院縁起】によれば、以下のとおりです。
聖天院は奈良時代に高句麗より渡来した高麗王若光の菩提寺として、侍念僧勝楽上人により天平勝宝3年(751年)に創建されました。 若光の守護仏聖天尊を本尊とし爾来600年間法相宗の道場でありましたが、貞和年間(1345年)中興秀海上人の代に真言宗に改宗されました。 天正年間(1584年)圓真上人により不動尊(胎内仏弘法大師御作)を本尊とし聖天尊を別壇に配祀し、現在に至っています。 江戸時代には高麗郡の本寺として、門末54箇寺を擁するほどの隆盛を誇り「院主の格式は諸侯に準ずる」とも記録されています。

しかし、その縁起よりも前のこのHPの冒頭で、高浜虚子の作った謎の俳句がありました。

蛇氏(くちなわし) 汝も高麗の 遺臣かや(虚子)

蛇氏(くちなわし)って一体、どんな氏族のこと?

はい、刮目天の古代史をご覧の方は直ぐにひらめくと思います。

そうです。龍蛇神(ナーガ)、つまり奴国大王スサノヲの血筋であった大国主命を奉祭する氏族のことでしょう。

え?と思われる方は高麗神社の御祭神をもう一度よくご覧ください。

そうなんですよ。御祭神は高麗王若光だけではなく、大国主命の分身の猿田彦と武内宿禰が御祭神だったのです(「古代史のカギを握る神々の正体?」参照)。高麗王若光は大国主久々遅彦を奉祭する一族だったということでしょう。高句麗の領土に居た倭人の一族が統一新羅から日本に亡命して帰化したと考えられます。

高浜虚子がどうして気付いたかは分かりませんが、聖天院にも「天下大将軍」と「地下女将軍」の将軍標が置かれていました。

つまり、「天下大将軍」と「地下女将軍」の正体はサルタヒコとアメノウズメであり、三世紀の実在人物の大国主久々遅彦と女王台与でした。女将軍は神功皇后台与のイメージです。実際に台与はヤマト軍に伊都国まで追い詰められ、武器を持って奮戦し戦死した史実の伝承から来たものと考えています。糸島市の平原王墓が女王台与の墓ということです(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。

現在の日本の神社の形はどうも古代朝鮮半島南部の倭人が祀っていたものが起源のようです。蛇が鳥となる文化は前回の「大国主はトビヘビだった?」で見たとおりです。鳥居はその名前からもソッテが起源でしょう。勿論、注連縄は二匹の蛇が絡み合った姿です。大国主と台与が二匹の龍蛇神とされています。そして今まで謎だった狛犬(こまいぬ)の起源こそ高麗の将軍標ではないでしょうか?つまり、高麗狗(こまいぬ)は神社に置かれた大国主と台与を象った将軍標から来たものでしょう!天下大将軍が大国主狗古智卑狗だからかもしれませんね( ^)o(^ )

だから高句麗は百済とは異なり、血統的にご皇室とは所縁(ゆかり)が無いはずですが、両陛下は半島から渡来した倭人(渡来人)に親しみを感じておられるのでしょう。現代コリアンが日本の起源に異常反応していることも彼らの文化の基層部分は日本の神々だったということに気付いているからなのかもしれませんね。(注1)

【参考記事】
半島の古代史だ!(漢四郡まで)



渡来人は異民族とは限らない?
新羅については、仏教の伝来を調べていて分かりましたが、新羅ではもともと龍神(ナーガ)を祀っていたとありましたから、間違いなく倭人(江南の呉人)でした(崔琮錫「弥勒信仰の新羅的受容と変容」東アジア仏教学術論集2017-01、p.201)。倭人は弁韓・辰韓にも居ましたので、渡来系の新羅人は、列島に戻って来た倭人ということです。筑前・豊前から豊後にかけて奴国大王スサノヲ(龍王、第四代脱解王のモデル)の子孫たちや縄文系ムナカタ海人族卑弥呼と関わりのある倭人の子孫が住み着いたようです。宇佐地方で辛嶋氏が祀っていた原八幡神は宗像女神卑弥呼です。

(注1)百済と日本の関係については、桓武天皇の生母高野新笠が百済の武寧王の子純陀太子を先祖とすると『続日本紀』に書いてあるので、ゆかりがあるにはあるが、神武天皇以来の男系男子による万世一系というのが重要なのだ!もしも、男系に臣民の血が入ると王朝交代ということになるからだ。そしてそのような事実は認められないというのが日本の天皇家のすごいところだ(何故万世一系なのか、その理由は括目天の古代史をご覧ください)。

しかし、コリアンによる百済が日本の起源というウリナラ起源説が拡められていて、韓国首相も日本の教科書にその記述が無いことで文句を付けているようです(「韓国首相「日本の起源は百済…日本の歴史歪曲、絶対許せない」(1)ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.04.10 09:35」)。

金容雲「日本=百済説」(三五館)という本を読みました。しかし、考古学の裏付けのない珍説であって、逆に百済人の多くが倭人だったと分かる話です。これはY染色体DNAハプロタイプの分布からも裏付けられています。百済滅亡で日本に亡命できたのは倭人語を話していた倭人だからでしょう。日本に残る地名を百済が起源だというように根拠が逆立ちしてしまっていますが、百済に残る地名も倭人が付けたものでしょう(「渡来人は異民族とは限らない?(注3)」参照)。

また百済王家は高麗王と同様に、帰化して天皇の臣下になっていましたが、文献のどこにも百済王が日本の支配者だと言う記述はありません。

半島南部に前方後円墳が築造されていることは五世紀にヤマト王権の支配下にあったことを示すもので、高句麗の広開土王碑の記述とも一致することはよく知られています。

だから百済の武寧王が日本を統治した物証など皆無です!武寧王と王妃の木棺が日本特産のコウヤマキを使っていた事実は、百済王族も倭人であったことを示唆していますよ。

もしも日本=百済説が本当だったら、今頃日本の国名は百済となっていたはずですね( ^)o(^ )!

【関連記事】
【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?


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通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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