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天智天皇とは何者だ?( その3 )

2024-08-08 19:59:27 | 古代史
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【わかった!】アメノタリシヒコの正体!で600年に文帝に朝貢した人物がニギハヤヒ系大王敏達天皇で、607年に煬帝に朝貢したのが604年の文帝崩御の直前に敏達天皇を討ったスサノヲ・大国主系大王用明天皇であると推理しました。そして、敏達天皇の皇太子「利歌彌多弗利」(ワカタラシヒコの誤記)が押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)のことですが日本書紀では舒明天皇の父となっていますので、天智天皇の祖父ということになります。

ところが不思議なことに、この人物とその周辺の人物が謎だらけなのです。日本書紀は何か重要なことを隠しています。すでにご存じのとおり、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺でお祀りしている最初の天皇が天智天皇なのです。初代天皇ではありませんので何か言えない事情があるはずです。先に日本書紀による天皇の系譜(29代~48代)を示します。



敏達天皇四年春一月九日、息長真手王(おきながのまでのおおきみ)の娘である広姫(ひろひめ)を立てて皇后とした。
一男二女をお生みになった。
第一が押坂彦人大兄皇子、またの名は麻呂古皇子(まろこのみこ)という。舒明天皇の父。

この月に、一人の夫人を立てた。

<中略>
そして、糠手姫皇女(ぬかてひめのみこ)、またの名は田村皇女(たむらのひめみこ)、舒明天皇の母をお生みになった。(『日本書紀・日本語訳「第二十巻 敏達天皇」』より)

とあり、舒明天皇紀には父である押坂彦人大兄皇子に触れず、舒明天皇が崩御して皇后の宝皇女が即位した皇極天皇紀の冒頭で以下のように書かれているだけです。

天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は敏達天皇の曽孫で、押坂彦人大兄皇子の孫であり、茅淳王(ちぬのおおきみ)の娘である。
母を吉備姫王という。
(『日本書紀・日本語訳「第二十四巻 皇極天皇」』より)

その後押坂彦人大兄皇子はどこにも登場しません。

古事記の敏達天皇(沼名倉太玉敷)のところで、以下の文章があるだけです(『古事記・現代語訳「下巻」』より)。

息長真手王の娘である比呂比売(ひろひめ)命を妻としてお生みになった御子は、忍坂日子人太子(おしさかひこひとのひつぎのみこ、押坂彦人大兄皇子)、またの名は麻呂古(まろこ)王、次に坂騰(さかのぼり)王、次に宇遅(うじ)王の三柱である。
<中略>
この天皇の御子たち合わせて十七柱の中で、日子人(押坂彦人大兄皇子)が異母妹の田村(たむら)王、またの名は糠代比売を妻としてお生みになった御子は、岡本宮で天下を治めた天皇(田村皇子舒明天皇)、次に中津(なかつ)王、次に多良(たら)王の三柱である。

驚くことに、押坂彦人大兄皇子は、生年も没年も不詳なのです。舒明天皇の父で天智天皇の祖父なのですよ(@_@)

そう言えば、アメノタリシヒコの妻「雞彌(キミ)」は敏達天皇の皇后広姫のことで、息長真手王の娘とあるのですが、息長真手王の素性がよく分かりません。【わかった!】アメノタリシヒコの正体!の中で、継体天皇の曽祖父の意富富杼王(おおほどのおおきみ、生没年不詳)の弟息長沙禰王の子という文献があるとwiki「息長真手王」にありますが、意富富杼王は、応神天皇の皇子稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の子ですが、その母息長真若中比売は、架空の人物である日本武尊の曽孫なのです。恐らく息長真手王もニギハヤヒ大王の子孫の尾張氏の系統だと考えられます。記紀の神功皇后のモデルの倭国女王台与が息長氏の祖であることを隠すために創られた系図だと思いますと書きました。押坂彦人大兄皇子を産んだ敏達天皇の皇后広姫の素性もとても怪しい話なのです。皇后陛下の出自ですよ(@_@)

そこで、舒明天皇の皇后宝皇女(皇極・斉明天皇)も、日本書紀の中で天武天皇の皇后とされた鵜野讃良(天智天皇皇女、持統天皇)が皇后で即位したことにしたので、敏達天皇の後の皇后額田部の推古天皇即位と同様に、皇后即位の前例のために創作されたと考えていますので、宝皇女は天智天皇の母ではないのです(万葉集研究家渡辺康則氏の説)。おまけに日本書紀で天智天皇の父とされた舒明天皇も架空の天皇なのです。田村皇子は存在したとは思っていますが、父は天皇ではないので皇子ではなく田村王ということでしょう。

そうだとしたら天智天皇はいったい誰の子供なのか、両親は誰なのかが謎なのです(@_@)

そうなんですよ!

一番怪しいのは祖父とされた押坂彦人大兄皇子です。古事記は三柱の王(田村王、多良王、中津王)を紹介していました。田村王は舒明天皇ですが、母親の糠代比売(糠手姫皇女)が敏達天皇の皇女であれば、敏達天皇の皇太子の押坂彦人大兄皇子が異母妹を妃にしているのはいかにも不自然です。

そして、日本書紀では田村皇女ですが、古事記では糠代比売の別名が田村王として皇女ではないと真相をばらしているようです。済州島の古名の耽牟羅(たむら)を連想します。糠代比売は耽牟羅国の王女ではないかと思います。wiki「耽羅」によれば、「『三国史記』では耽羅が476年に百済の文周王に朝貢し[14]、498年に百済の東城王に服属した[15]とあるように、498年以後は百済に朝貢していた。」とあります。

そして、日本書紀の天智天皇三年に六月、嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと、天智天皇の祖母糠手姫皇女)が薨(こう)じた。「日本書紀・日本語訳「第二十七巻天智天皇」より)という記事がありました。嶋は武寧王の諱斯摩(しま)で、名が嶋君ですから、百済武寧王の血筋という意味にとれます。武寧王の百済と血縁関係がある耽牟羅国の王女と推理できます。

そうすると先述の敏達天皇皇后で押坂彦人大兄皇子の母の広姫は、本当は百済王の血筋かも知れません。

(つづく)


ここまで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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