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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【邪馬台国問題】驚異のアブダクションが解決するよ(;^ω^)

2024-08-16 22:35:59 | 古代史
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#邪馬台国問題を科学的に解明する方法としてアブダクションを知らないと、自分の好きな場所に邪馬台国があるとする説が乱立して混乱します(;´Д`)。

それらの説は全て、ひとつの仮説ですから、事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって科学的に検証していけば否定されるか、どうかが分かります。

しかし、そこは気に入った答えなので、そんな面倒なことはしたくない? 

その気持ちは分かりますが、事実に基づかない仮説という想像は、論理的な推論にはならず、空想・妄想・寝言の類(たぐい)なのですよ(;^ω^)

邪馬台国問題の解明は学術的な世界なのですから、真実を好き・嫌いで決められる世界ではないのです。

事実による検証の積み重ねだけが真実に導いてくれるのです。

仮説の内容が事実による検証に基づいて、否定されて仮説が変更されることが普通です。

完全に否定されない場合も仮説が一部修正される場合もありますし、仮説がより詳細化され、どんどん拡張されるというプロセスによって正解にたどり着けるのです。

そしてたどり着いてみたら最初の仮説はより深化したものに変貌するのです。

当初は思いもよらなかった世界に導いてくれるのです。普通の演繹的な推論や帰納法的な推論とは、けた違いの大きな成果をもたらしてくれる、驚異のアブダクションは「発見的な推論法」と呼ばれますよ(^_-)-☆

【古代史問題の科学的解決手法


とてもいい動画を見つけたので、また嫌われる長いコメントをしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)


魏志倭人伝に書かれた邪馬台国はどんな国だった?畿内説・九州説・越前説・四国説を解説!
摩訶不思議浪漫の館@YouTube

興味ある話題を提供していただき、ありがとうございます。

魏志倭人伝からだけでは皆さんが納得できる邪馬台国の場所にはたどり着けないことは三百年の論争で証明されています。だからすべてデタラメかというとそれも違います。ウソかどうかは、事実、つまり考古学や民俗学などの成果と史書の内容が一致するかどうかで分かります。

魏使が九州の末盧国に上陸して到着した伊都国や奴国は考古学からそれぞれ糸島市三雲遺跡と福岡市比恵・那珂遺跡だと分かりますが、方角が微妙に間違っています。当時の人間が方角を間違うことなど考えにくいことですから、東北を東南とウソをついたと分かります。従って奴国から東とされた不弥国は北ですから新宮町の海岸から水行して南へ二十日で投馬国という日数表記が出てきます。さらに邪馬台国まで水行一月と陸行一月とされています。

ここが肝心なのですが、なぜウソをついたのかを考えると、邪馬台国を魏のライバルの呉の東方海上で帯方郡から東南万二千里にある東夷の大国であったと見せかける意図だと分かります。水行とは厳密には河川の航行なのですが、こういう訳ですから海岸部の航行も含むとしてよいと思います。ですから、邪馬台国への行程記事からは不弥国から東にある国とだけしか分からないのです。



そこで、もう一つだけ邪馬台国を記述した文献があります。五世紀の倭の五王時代に完成された范曄後漢書倭伝です。魏志倭人伝では女王国から東ですから本当は北に海を渡ること千余里で倭種の国に至るとあったのを、女王国より東に渡海千余里で狗奴国に至ると書き換えているのです。

つまり、范曄は倭国の使者からの情報によって、周防灘に面した宇佐あたりに女王国があって、狗奴国は畿内だと言っているのです。三世紀に突然出現した政治・祭祀に特化した大集落纏向遺跡に狗奴国があったと明言しているのです。
その記述に信ぴょう性があったことは、倭国大乱の痕跡から判明しました。



二世紀末の倭国は北部九州の福岡市東部から西は伊万里あたり、南は筑紫平野・佐賀平野と分かりました。熊本県山鹿市菊池川流域の方保田東原遺跡からは鉄鏃が住居跡から大量に出土し、山陰や畿内の外来土器が出土していますので、狗奴国大王卑弥弓呼の命令で前線基地に派遣された狗奴国の官狗古智卑狗の部隊と推理できます。そして阿蘇山麓から大分県大野川流域に多数の鍛冶集落が造られ、半島南部の板状鉄素材が運び込まれて鉄製武器を製造していたことも分かります。


<クリックするとMyMapに飛びますので、お楽しみください(#^.^#)>




倭国大乱の様子は鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータからさらに深く推理できましたが、長くなるので「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください。

卑弥呼が登場する経緯を推理しています。つまり卑弥呼は玄界灘を支配したムナカタ海人族の姫巫女、記紀で宗像三女神市杵島姫命とされた人物だと推理しています。宇佐神宮の祭神比売大神、全国の厳島神社の祭神で神仏習合して弁財天が卑弥呼の正体だと推理しました。卑弥呼の墓は直径約150mの日本最大の円墳「三柱山古墳」だと推定しています。周辺には様々な卑弥呼に纏わる遺物や伝承があります。詳しくは「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」に在りますので、よろしければご参照ください。長々とお邪魔しました(;^ω^)



【関連記事】
「魏志倭人伝」の真相とは?!
邪馬台国の行程記事は、なぜデタラメなのか?

陳寿も邪馬台国の位置を知らなかった!
西晋の史官陳寿は創業者司馬懿の嘘が分かっていても、司馬懿の書かせた魏使の報告書をそのまま引用せざる得ないのです。でも陳寿すら邪馬台国がどこにあったのか分からないまま、想像した場所に読者を誘導したようです。だから、陳寿の文章を信じた現代の研究者も結局、卑弥呼の墓にたどり着けないのです。

伊都国の意味がヒントだった?(@_@)
107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升の王都イト国を伊都国と書いて教えたのは誰だ?

卑弥呼の墓の条件は?( ^)o(^ )
卑弥呼は247年頃死んでいますので、この頃はまだ九州には前方後円墳は存在しませんよ。

卑弥呼の墓は急造の直径約150mの円墳ですよ。

卑弥呼の墓と決めるには、まだまだいくつもの条件があると思います。近くに城柵のある環濠集落があり、その中に卑弥呼の宮室や卑弥呼に仕える百人以上の奴婢や同数以上の兵士の住居などがあるはずです。

七万戸という集落は当時存在しませんので大袈裟な数字ですが、最低でも二百人くらい、つまり50戸近くの住居跡があるはずです。

そして大事なことは卑弥呼の伝承や卑弥呼に関係する古い地名などが残っているはずですね(^_-)-☆

神社は奈良時代から藤原氏が記紀神話に合うように由緒や祭神、社名を変えていますので、訳が分からなくなっています。でも、地元の卑弥呼を慕う方たちが藤原政権に気が付かれないようにヒントを残しているはずです。






最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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