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天智天皇とは何者だ?( その4 )

2024-08-11 15:02:01 | 古代史
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前回(その3)の最後に「そうすると先述の敏達天皇皇后で押坂彦人大兄皇子の母の広姫は、本当は百済王の血筋かも知れません。」と書きました。初めての方は日本の皇室は渡来人の末裔なのかと不快に思われるかもしれませんが、百済はもともと倭人国でした(「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」参照)。

百済24代東城王(生年不詳、在位:479-501年)は即位当初は新羅と同盟して高句麗の南下を抑えるなど王権と国力の回復に努めましたが、晩年の499年に大干ばつで国民が飢えても助けず、民二千人が高句麗領へ逃亡するも、臣下の諫言を聞かずに宴会にふける暗君になったようで501年に臣下に暗殺されました。国人が東城王の異母兄の嶋君を立て、武寧王が即位したと三国史記に記されています。武烈天皇が倭国軍を送って新羅を抑えたことを「【わかった!】隅田八幡神社人物画像鏡のなぞ(^_-)-☆」で述べました。

実は、この事件は、武烈天皇と伯済国の倭人嶋君(武寧王)が謀略し、東城王を討って百済を乗っ取ったと推理しています(詳細は「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」参照)。理由は、倭国へ鉄素材を供給する伽耶諸国を新羅が併合しようと伺っていたので、武烈天皇はそれを食い止めるために倭国に忠実に従う武寧王を擁立したのだと推理しています。

五世紀末の雄略天皇は半島経営のために強い中央集権を目指して、皇位継承のライバルをほとんど抹殺してしまいました。武烈天皇の父やその弟は命からがら丹後半島そして播磨に逃げたので命が助かりました。

雄略天皇崩御後に半島情勢が一段と厳しくなったようです。武烈天皇は履中天皇の子孫で、雄略天皇と同じ初代ヤマトの大王(祭祀王)応神天皇の子孫であるのですが、履中天皇の父仁徳天皇の母方がニギハヤヒ大王の子孫尾張氏だったのです。三世紀の建国時代に確執のある息長氏が母方の雄略天皇とは敵対関係にありました。皇位継承者が少ないので大倭(ヤマト)の豪族たちが話し合って、両勢力を和解させるために武烈天皇を立てたと推理しています。ですから雄略天皇崩御から武烈天皇即位までは空位だったと考えています(「【わかった!】隅田八幡神社人物画像鏡のなぞ(^_-)-☆」参照)。

このような背景で武寧王が登場しますが、506年武烈天皇が後継者を決めずに崩御し、大倭(ヤマト)はまた混乱しました。大伴氏などの豪族が応神天皇系の安閑天皇・宣化天皇を次々に立てます。しかし、ニギハヤヒ大王の嫡孫の龍蛇神国王(欽明天皇の先代)が九州の物部氏を後ろ盾にして512年から513年にかけて任那四県を百済武寧王に割譲します。応神天皇系のヤマトの豪族らが反発し、武内宿禰の後裔で波多氏の支族近江毛野が軍6万人を率い、九州遠征したとあります。この武力衝突に発展した事件が筑紫君磐井(?ー528年)の反乱だと推理しています。

勝敗が決着せずに、物部麁鹿火(あらかい)の軍が送られて激戦の末、磐井が死んで子の葛子が死罪を免れるため糟屋屯倉(現・福岡県糟屋郡・福岡市東区)をヤマト朝廷に献じたということになっています。

しかし、筑紫君磐井は尾張王の九州遠征に従軍して筑紫を占領した吉備出身のニギハヤヒ大王の子孫の物部氏か尾張氏の一族と推理していますので、物部麁鹿火と戦うはずありません。磐井が敵対するはずの新羅から賄賂を貰って倭国軍の半島侵攻を妨害したという日本書紀の話は全く信ぴょう性がないのです。

したがって、ヤマト勢が磐井勢に押し返されて、勝利したニギハヤヒ大王系の崇神・垂仁天皇の子孫の勢力が大倭(ヤマト)入りして、539年に欽明天皇(509-571)をヤマトの大王に立てて倭国の混乱を収めたと推理しています。

つまり継体天皇は実在の天皇ではないと推理していますので、欽明天皇は継体天皇の子ではなくニギハヤヒ大王の嫡孫の龍蛇神国(奴国)の大王です(「天智天皇とは何者だ?(その2)」参照)。欽明天皇の前の安閑・宣化天皇も同様に継体天皇の子ではなく、スサノヲ大王系の応神天皇の子孫と考えています。

欽明天皇が571年に崩御し、敏達天皇(538?-585?)が即位します。600年に隋の文帝に朝貢したアメノタリシヒコです。文帝が崩御して煬帝が即位した604年の直前に日本書紀で蘇我馬子とされた用明天皇(?-587)に討たれたと推理していますので日本書紀の没年は誤魔化しだと考えています(詳細は「【わかった!】アメノタリシヒコの正体」参照)。

百済の武寧王が523年に亡くなって、聖明王(?-554)が即位します。新羅とは伽耶諸国の領有問題があり、欽明天皇に援軍を要請しましたが、同時に外交で新羅とも再び同盟関係を築き、連携して高句麗の侵攻を抑えました。wiki「聖王(百済)」によれば、551年に漢山城(京畿道広州市)付近を奪回したが、553年に同地域は新羅に奪われてしまった。同年10月に王女を新羅に通婚させているが、554年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に、孤立した王子昌(後の威徳王)を救援しようとして狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ戦死した。とあります。

威徳王(525?-598?)も聖明王と同様に、シナの王朝に朝貢して冊封下に入り、倭国や伽耶諸国と連携し、高句麗と新羅に対抗します。wiki「威徳王(百済)」によれば、561年7月には欽明天皇の援軍や任那と呼応して新羅に攻め込んだが、新羅の策略にはまり敗北して撤退している。[4]任那はこのころ滅亡し、伽耶諸国は完全に新羅に属するようになった。とあります。

百済はこのような厳しい情勢の中で倭国を頼みの綱として敏達天皇に后を差し出したと考えられます。敏達天皇の皇后広姫は年代的に威徳王の王女ということになります。二人の間に生まれた子が天智天皇の祖父の押坂彦人大兄皇子です。

ところが(その3)で述べたとおり押坂彦人大兄皇子は生年没年不詳の謎の人物なのです。そして押坂彦人大兄皇子の妃が敏達天皇の皇女とされた異母妹の糠手姫皇女とありますが、これも(その3)で述べたとおり本当は武寧王の血筋の耽牟羅国の王女ではないかと古事記がそっと教えてくれました。ですから、天智天皇の父とされた舒明天皇(田村王)もやっぱりウソです。本当は百済の属国であった済州島の耽(牟)羅王に立てられたと推理しています。

そうすると、糠手姫皇女が生んだ多良王ですが、百済王(久多良王)という説がありますので、百済義慈王と同一人物と考えられます。義慈王の父である武王(580?-641)と押坂彦人大兄皇子が同一人物ということです。

武王は父の法王(?-600)が死んで即位したことになっていますが、その経緯がとても不可解なのです。

威徳王が598年に亡くなって、弟の恵王(?-599)が王位について、翌年死にます。そしてその子の法王がまた翌年600年に死んで、武王が即位するのです。どうも何か隠されているようです(;^ω^)

恵王は「三国史記」では聖明王の次男ですが、13世紀末に作られた「三国遺事」では威徳王の子で聖明王の孫ということですので不審な人物です。

法王は恵王の長男となっています。法王は仏教を篤く信仰したとあります。

ところが656年完成の「隋書」百済伝に「(威徳王)死、子余宣(法王)立、死、子余璋(武王)立。」とあります。恵王は無視されて法王が威徳王の子となっていますので混乱します。

どうやら恵王と法王親子は敏達天皇よって次々に暗殺され、押坂彦人大兄皇子を百済王(武王)に就けたと考えられます。おそらく新羅に奪われた任那を奪還するためだったと推理できます(詳細は「任那(みまな)の正体は?」参照)。

そうすると、(その3)で述べたとおり糠手姫皇女が生んだ王子がもうあと一人います。中津王(なかつみこ)です。中津王は「中」がナーガですから、龍蛇神国王という意味です。中大兄が龍蛇神国王の嫡子という意味ですから中津王が中大兄つまり天智天皇のことだと分かります。

天智天皇はニギハヤヒ系大王の敏達天皇の孫で、その皇太子だった押坂彦人大兄皇子(百済武王と同一人物)の子だったということです。

日本書紀は日本と百済の深い関係、つまり天智天皇が百済武王の子だった話と、敏達天皇の百済王粛清を隠すために歴史を改ざんして誤魔化したのだと推理できます(^_-)-☆

ややこしい話ですので、系図にしました。どうぞご覧ください(;^ω^)



そうすると、もう一つ謎があります。

押坂彦人大兄皇子と、渡来人のような正体不明の漢王(あやのみこ)の妹大俣女王(おおまたのひめみこ)との間に茅渟王(ちぬのみこ)がいます。この人物もまた生没年不詳で謎の人物です。

日本書紀で皇極(斉明)天皇とした宝皇女(たからのひめみこ)と、乙巳の変(645年)の後に大化の改新の詔をした孝徳天皇(596-654)の父です。『新撰姓氏録』左京皇別に見える百済王(百済親王)と同一人物とする説があります。もしこれが本当ならば茅渟王と百済義慈王(599-660)が同一人物ということになります。そうすると茅渟王は天智天皇の同母兄で、その子宝皇女(たからのひめみこ)は天智天皇の母ではなく姪で、孝徳天皇は天智天皇の甥ということになりますね(@_@)

しかし、孝徳天皇の生まれ年が596年ですので、父であるはずの義慈王が599年生まれですから矛盾します。孝徳天皇はもっと後に生まれていないとつじつまが合いません。孝徳天皇の生まれ年が誤魔化されているのかも知れませんが、今のところよく分かりませんので、茅渟王と義慈王とは別人と見た方がいいですね(;^ω^)

ついでですが、日本書紀で中大兄の母宝皇女の父茅渟王は天皇ではないので宝女王(たからのひめみこ)あるいは宝王が正しいはずです。これは天智天皇の生母と推理した糠手姫皇女を古事記では宝王であると暴露していますので、同じ名前なのです。日本書紀の編者は名前の偶然の一致から中大兄の本当の母を隠すためにすり替えて、中大兄が宝皇女と田村王(舒明天皇)との子という創作をしたのだと思います。図のとおり宝皇女は天武天皇の生母と推理していますから、日本書紀は天智天皇と天武天皇を兄弟に見せかけたのです(「天智天皇とは何者だ?( その1 )」参照)。

なお、天智天皇の兄と推理した百済義慈王の事績についてはwiki「義慈王」に詳しくありますが、晩年に唐・新羅の連合軍との戦いに敗れた百済滅亡の様子が以下のように記されています。

義慈王は捕虜として妻子とともに長安に送られた。660年11月1日、洛陽に滞在中だった津守吉祥、伊吉博徳ら日本の遣唐使一行が、捕虜となった義慈王ら百済の王族・貴族の50人(『旧唐書』では58人)が護送されるのを目撃している。義慈王は同年のうちに唐で病死したとされるため、それから年末までの2ヶ月間に死亡したと推測される。「金紫光禄大夫・衛尉卿」の爵号を贈られた。また、隆には司稼卿の爵号が贈られた。

百済は早くから中国江南政権に朝貢しており、建康に都を置いた国家に朝貢使節を送って冊封を受けていた[7]。義慈王の墓は、江南政権の呉と陳の各々最後の君主だった孫皓と陳叔宝の傍らに作られている。孫皓と陳叔宝の降伏後、中国は西晋、隋において統一されたが、江南政権と関係の深かった百済最後の王を江南政権最後の君主(現在の洛陽市かその近くに葬られた[8])の傍らに葬ることで、唐は西晋や隋に続く天下統一をアピールしようとした[7]。


唐の敵国であるにもかかわらず百済義慈王がここまで手厚く葬られたのは、春秋時代に滅んだ由緒ある呉の王族の天御中主の末裔だと知られていたからなのかも知れませんね(^_-)-☆

この後、天智天皇が百済復興のために強力に支援しました。しかし663年の白村江の敗戦で、半島の百済国は完全に消滅します。百済人は日本に帰化しますが、六世紀初頭の百済武寧王の時代から日本と百済は、龍蛇神国(奴国)の本家と分家の関係であって、両者は一体だったという推理でした(^_-)-☆

日本書紀が隠した大きな秘密のひとつですが、いかがだったでしょうか?

もう一度系図を見直していただき、何かお気づきのことがございましたら遠慮なくコメントくださいネ(#^.^#)


最後までややこしい話にお付き合いただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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