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任那(みまな)の正体は?(@_@)

2024-08-10 12:46:21 | 古代史
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#前回の記事「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」(注1)で以下の記事について述べましたが、原論文を当たってDNA解析について調べましたので記事にします。さらに時々参考にさせていただいているkawakatuさんのブログ「民俗学伝承ひろいあげ辞典」に「大伽耶王は大王と自称?/秦氏と葛城氏は金官伽耶の王の一人(2024年08月02日12:37)」という記事の中で『【独自】泥岩層から出土した大伽耶初の「大王」の痕跡…1500年の謎を解くか』というハンギョレ新聞の記事(2024-07-09 07:56)を紹介していただきましたので標記の件について考えてみます。kawakatuちゃん!おおきに( ^)o(^ )
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古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
2022.06.23 THURSDAY 川勝康弘@ナゾロジー
オーストリアのウィーン大は古代朝鮮(4~5世紀)の「伽耶」の古墳において、日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたと発表。伽耶で当時の倭国人はいったい何をしていたのでしょうか?



結果、8人中6人のDNAが現代の韓国人に類似する要素を多く持った遺伝子だった一方で、残りの2人のDNAは日本の縄文人に近い遺伝子を多く持っていることが判明しました。

現在の韓国人の遺伝子は非常に均質性が高く遺伝的に孤立しており、縄文人に特徴的な遺伝子を持った人々はほとんど存在しません。

そのため研究者たちは、古代の朝鮮半島に住む人々は、現代に比べて遺伝的多様性が大きかったと結論しました。

しかし、かつては存在したはずの縄文人の遺伝子は、なぜ現代の韓国人にはみられなくなってしまったのでしょうか?

この疑問について研究者たちは、現在の韓国人の祖先を構成する、中国北部出身の集団が原因であると述べています。この集団は朝鮮半島の海岸線に沿って勢力域を拡大したと考えられており、伽耶などの地域に住んでいた縄文人の遺伝子を持つ人々は最終的に排除・吸収された可能性があるようです。


中国北部出身の集団は衛満率いる燕人の武装集団のことでしょう!箕子朝鮮を滅ぼし、半島北部先住の縄文人男性を皆殺しにした可能性があります。半島南部は倭国の勢力圏でしたので、縄文人と江南系の倭人との混血が進んだと考えています。

上の大成洞古墳の人骨の顔復元図に原論文からmt-DNAハプロタイプ(赤字)とY-DNAハプロタイプ(緑字)を追加しました。

左側の二人の墓の王の父系のルーツは縄文人系D-M55(D1a2a)のひとつ下のグループのD1a2a1です。釜山獐項遺跡の8号人骨にも見られました。

右側のグループの殉葬された男性O1b2a1a2a1b1 (O-PH40)は日本で1.4%の倭人系O-47z(現代本土日本人男性の約25%)になります。王とされた人物のY-DNAはOまでしか分かっていませんが、上で書いたように燕人衛満の勢力は半島南部まで来ていませんので恐らく倭人系O-47zでしょう。

あるいは、もしも原始夏人系O1aであれば呉王族ということになり紀元前四世紀初頭の天御中主と同じ父系のルーツとなります。ただし、天御中主を祖とする天皇家が原始夏人系であるとすると現代日本本土男性の3.4%ですから少なすぎるようなので、どこかで男系が断絶し倭人系の有力者から養子を迎えて倭人系に入れ替わった可能性が高いとは思います。縄文系の王がいたことが分かったので天皇家が縄文系である可能性もないとは言えませんが、先の縄文系の王の被葬者がひとりですのでその可能性は低いと考えています。

そして、ハンギョレ新聞の記事に「大伽耶は、約1500年前に慶尚道西部と全羅道東部にかけて繁栄し、新羅と競合した強力な小国家だった。大伽耶の人々が最高首長を当時の新羅のように「大王」と呼んだことが推定できる遺物が出土した。」とあるので、562年に洛東江流域の加羅諸国が新羅に併合される前の伽耶地方に大王と呼ばれる人物が居たということです。



この大王が呉王族に繋がる人物なのか分かりませんが、①天御中主一行が九州に上陸した後の半島南部の有力者の子孫であるか、あるいは②天御中主の子孫の奴国王が弥生中期中葉にはBC219年の徐福の来日による青銅器製造技術導入と比恵那珂遺跡群の交易センターの拡大整備によって隆盛になりますので、紀元前82年の前漢の武帝が設置した真番郡の廃止後に、奴国王が半島南部に人を派遣して伽耶地方の支配を任せたのかもしれません。②であれば、おそらく伊都国と同様に奴国の王族でしょう。

三世紀の魏志倭人伝でも「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とあるので半島南部の紀元前二世紀末から四世紀にかけて存在した弁韓は倭であると認識されていたのですから、奴国王が支配する倭国の一部と考えていいと思います。狗邪韓国は弁韓の一国で、慶尚南道金海の付近の金官伽耶(金官国)ということのようです。

任那が半島南部のどこなのかについてはwiki「任那」によると金官国とする狭義と「日本書紀」で見られる「任那四県」「任那日本府」などの関連する地域を指す広義がありますが、毎日新聞の記事(2015年8月11日)によれば以下のとおりです。

森公章によると、現在(2015年)は任那は百済や新羅のような領域全般ではなく、領域内の小国金官国を指す場合が多く、それらの複数の小国で構成される領域全般が加耶と称すという学説が有力視されているという。

しかしこれは倭国と倭国の支配者が王都とする奴国の関係と同様で、それぞれ伽耶(弁韓)を支配する王の都が任那ということではないかと思います。勿論、広い意味の伽耶としても使われることもあるのでしょうが(;^ω^)

そうすると「任那」という漢字の意味を考えると、「那」は天御中主の「中」と同じ意味で、ナーガ=龍蛇神ですから龍蛇神天御中主を倭の奴国に送り出して任せた国のことです。

つまり任那は龍蛇神天御中主の古栖という意味ではないかと思います。

任那(みまな)の発音ですが、nin・na ->nimuna -> mimuna ->mimana と変化したと考えられますよ(^_-)-☆(2024.8.11 赤字修正)

上述のとおり任那は金官国(現、慶尚南道金海市)のことで、大成洞古墳から鉄製品の素材となる鉄梃(てってい)が多数出土しています。歴代奴(龍蛇神)国王つまりニギハヤヒ系大王は六世紀に日本列島内で製鉄ができるようになるまでは、主として金官国の鉄資源に頼ったので、高句麗や新羅の侵攻から任那を守ることが最も重要なことだったと考えられます。

新羅とコネがあったスサノヲ系大王は慶州市皇城洞遺跡という供給源があったので任那にはさほど固執しなかったのですが、ニギハヤヒ系大王にとって倭国の生命線だった任那は手放すことのできないのです。これを理解すると古代史の謎が解けますよ(^_-)-☆



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最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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