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神武天皇が存在したと言う証拠?(@_@)?

2024-08-03 00:54:32 | 古代史
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【ゆっくり解説】神武天皇が存在したと言う証拠
にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】@YouTube

多くの皆さんは、現存する最古の歴史書「古事記」・正史「日本書紀」が天武天皇が編纂を命じたということから天皇の歴史書だと思い込んでいます。

しかし、日本書紀が完成したのは崩御後34年です。時の権力者は藤原不比等なのです。藤原氏に都合の悪い史実を隠すために神話を創作し、歴史を改ざんしたことが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しています。

また、古事記は9世紀に突然、表に出てきたもので、正史に古事記の記録はないですし、日本書紀が古事記を引用した箇所も、痕跡も見当たらないのです。古事記は日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書なのです。暗号を解くと空白の四世紀も倭の五王の謎も解けました。

神武天皇を登場させたのは、単に皇統を長く見せるためではなく、不比等が本当の初代応神天皇の史実を隠さねばならなかったからなのですよ。卑弥呼を隠さねばならない理由と同じです。話はつづきますが長くなるので、詳細は後でブログにします。

よろしければ「刮目天の古代史 卑弥呼と天照大御神が同一人物?」などをご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)


ヤマト王権が成立したのは考古学の成果から三世紀末頃だと推理できます。
纏向遺跡発祥の前方後円墳が全国各地で営まれ、古墳時代が始まるから分かります。

纏向遺跡は三世紀初頭の卑弥呼の登場に合わせて突然できた祭祀に特化し、各地から首長クラスの人々が集まった南北約1.5km、東西約2kmの大規模遺跡です。周囲に水田などがなく、大型建物跡や掘立柱建物が多数あります。祭祀に用いた大量の桃の種が出土しています。近隣の集落から物資が運搬される水路と考えられる幅5m深さ約1.2mの大溝が南北に二本在ります。

吉備を平定したニギハヤヒ大王(奴国を脱出したスサノヲの弟、楯築王墓の被葬者と推理)の嫡孫の卑弥弓呼(ひこみこ、狗奴国大王、記紀の開化天皇)が、邪馬台国連合倭国の成立で半島の鉄の供給が止まったことにより、防御面を考慮して大和盆地東側に王都を遷し、旧奴国の勢力を集めたと推理しました(「纏向遺跡は狗奴国(旧奴国)だったのだ」)。

【卑弥呼の死の直前の状況】


先代の卑弥弓呼大王が亡くなり、新たな大王(記紀の崇神天皇)がようやく倭国追討軍を派遣する決断をしました。狗奴国大王と同じニギハヤヒ大王の血を引く尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀で仲哀天皇)を大将とし、スサノヲ大王の子孫で日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねる出雲・丹後王国の王久々遅彦を副将として倭国に押し寄せました。久々遅彦は先代王日高彦の子高野御子、豊岡市久久比神社の祭神で木の神ですから木霊イタケルの子孫で、王の襲名です。記紀の五代の天皇に仕えた三百歳の白髪・白髭の武内宿禰ということにされています。

247年の卑弥呼の死後に、遠征軍が到着したところ、突然の卑弥呼の死を知った弟赤坂比古(和邇氏の祖、玄界灘を支配したムナカタ海人族)が戦意喪失したので倭国王は半島に逃亡したと推理しました。無傷で倭国を手に入れた尾張王が倭王に立ったので、それに不服だった久々遅彦と千人が死ぬ内戦になったと推理しました。かつての部下筋で従弟だった赤坂比古が久久遅彦に加勢したので尾張王が討たれ、久々遅彦が13歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)を外交上女王に立てて、狗奴国を裏切り倭国王になります。

列島内のほとんどの勢力が久々遅彦の傘下になり倭国が隆盛になります。久々遅彦は記紀で大国主とされた人物です。内戦に勝利した後に宇佐市安心院町の卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の日本最大の円墳「三柱山古墳」へ弔問に訪れ、さらに南側の妻垣神社の奥宮一柱謄宮でも祭祀を行っています(注1)。また、安心院町佐田地区の米神山で日本一立派なストーンサークル佐田京石などを作って父祖への感謝の祭祀を行い、佐田川の葦を刈り取り、水田として最初の国造りを行います。ここが神話の豊葦原の瑞穂の国です。

父を殺された尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)は大国主所縁の丹後半島や鳥取市青谷上寺地遺跡を襲撃し、兵士に護られていない集落の住民を無差別殺戮しています。そして大国主の本拠地とする九州に遠征し、最初は撃退され、宮崎県児湯郡川床遺跡で約200名の兵士を埋葬しています。南九州で狗奴国の援軍を得て、油断していた大国主久々遅彦・台与そして赤坂比古を討ち、仇討ちを成功させます。日本書紀に詳細に語られた景行天皇の九州遠征のルート上で、尾張勢が好んで使用する銅鏃などを集落の環濠や溝などで発見しました(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」参照)。この史実はさるカニ合戦の民話の元になっています(「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!)参照)」。

尾張王建稲種命は九州の支配を参戦した物部氏の祖に任せ、纏向遺跡に凱旋します。直ぐに大国主傘下を鎮撫する命令を狗奴国大王より受け、遠征に出発し、途中で流れ矢に当たって戦死します。子の尾綱根命が列島各地を平定して、狗奴国が日本を統一します。記紀の崇神天皇の四道将軍や日本武尊の遠征ルート上で矢戦の痕跡が見られますので、270年頃の史実だったと分かりました(「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。



そして、大問題が起こります。280年に西晋によって呉が滅亡し、恐らく呉の難民が畿内に来たのだと思います。呉の紀年銘青銅鏡(平縁神獣鏡)が山梨県鳥居原狐塚古墳(赤烏元年238年銘)と兵庫県宝塚市安倉高塚古墳(赤烏七年244年銘)で出土しています。大国主・台与の倭国が魏・西晋に朝貢していますので、狗奴国は呉と同盟していたのかも知れません。

狗奴国は西晋の冊封国の倭国を討ったので、西晋に追討されることを怖れ、パニックになったようです。大国主・台与の祟りだと思った卑弥弓呼大王は、恐らく南九州(大隅正八幡宮)に落ち延びていた大国主と台与の子ホムダワケを探し出し、呼び寄せて両親を弔わせたと推理しました。そして狗奴国を邪馬台(ヤマト)国と呼ぶことにし、ヤマトの大王(邪馬台国の後継者)として応神天皇を即位させました。母台与を箸墓で、父大国主を桜井市外山(トビ)の桜井茶臼山古墳で改葬したのだと推理しています。

応神天皇は、日本書紀では仲哀天皇と神功皇后の皇子としていますが、仲哀天皇は景行天皇六〇年の翌年に即位した成務天皇四八年に31歳で立太子とあり、父の日本武尊は景行天皇四〇年薨去ですから、仲哀天皇は父が死んで38年後に生まれた計算になります。杜撰な作り話ですから応神天皇の本当の父大国主を隠すための架空の天皇とわかります(^_-)-☆

崇神天皇から応神天皇即位までの約350年の話は三世紀後半の日本建国の史実を隠すために創られたのです。



それでは何故、神武天皇を登場させたかについてですが、単に、建国の史実を隠すためだけではなく応神天皇即位後の二人の天皇の史実を隠す目的だったことが分かりました。二人とも卑弥呼の弟赤坂比古の子孫でした(「謎の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」参照)。富雄丸山古墳の被葬者は応神天皇の皇太子菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ)と推理しました。天皇に即位していたのですが、異母兄の大鷦鷯(オオサザキ、仁徳天皇)に暗殺されたと推理しています。これを隠すために聖帝と持ち上げています(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照)。



そのために、応神天皇崩御後の皇太子菟道稚郎子と大鷦鷯が即位を譲り合い、菟道稚郎子が自殺するという奇妙な話とそっくり話を神武天皇崩御後に創作して、こういうことはよくある話だとしています。日本書紀はあり得ないような話には必ず前例を創作していますから、直ぐに気が付きますよ。

神武東征も応神天皇の史実をファンタジー化しているのです。先にヤマトに降臨したニギハヤヒが義兄のナガスネヒコを斬って神武天皇を即位させた話にしています。

これは上で述べたニギハヤヒ大王の子孫の尾張王建稲種命が大国主を討って、初代応神天皇が即位したという話が基になっていたのです。ナガスネヒコは古事記ではトビヒコであると暴露しています。つまりトビはヘビのことです。出雲地方では大国主の化身とされています。富雄丸山古墳の富雄はトビ(大国主)の尾(子孫)という意味です。丸山は和邇氏の円墳を指します。つまり和邇氏腹の大国主の孫、菟道稚郎子のことなのです(「富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?」参照)

そして、大国主はヤマト政権が最も畏れた神なのですが、大国主の父日高彦と祖父八束水臣津野命(以下、八束命)は日本建国の立役者だったので、日本書紀は徹底的に隠しています。出雲・丹後王国で生まれた首長霊信仰が後の古墳時代の考え方の底流になり、天皇即位儀礼に引き継がれています。

八束命は出雲国風土記の国引き神話の神です。祖父の奴国大王スサノヲのゆかりのムナカタ海人族を出雲に集めて父イタケルを大型四隅突出型墳丘墓西谷三号墓で弔い、王位継承儀礼を行ったと推理しています。半島南部の鉄を配下に供給し、鉄のネットワークによって結束させて出雲王となりました。記紀神話では豊玉彦であり、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)のモデルでもあります。

日高彦(倭国大乱の英雄、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)は西谷九号墓で父八束命を弔ったと推理しています。とその子大国主高野御子の出雲・丹後王国三代の王の史実が、記紀で日向三代神話として誤魔化されています。神武天皇の父ウガヤフキアエズは大国主のことなのですよ(「出雲・丹後王国三代が建国の立役者だった!」参照)。



それじゃあ一体、「日本書紀」とは何なんでしょうか?

はい、答えは「血塗られた女帝の秘密(*´Д`)」の中にありますよ(;^ω^)

【関連記事】
ヤマト王権のルーツは吉備そして奴国だった(^_-)-☆
纏向遺跡の初期前方後円墳のルーツを調べるとやはり吉備にたどり着きます。楯築遺跡は双方中円墳という形式の古墳とされていますが、間違いなく前方後円墳のルーツです。それは特殊器台とその表面に描かれた弧帯文が証拠です(「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!(^_-)-☆」参照)。


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





(注1)日本書紀では神武東征で母玉依姫の墓所を訪れ、ウサツヒコとウサツヒメに歓待され、ちゃっかりと藤原氏の祖神天種子命がウサツヒメを娶る話を創作しています。だいたい日本書紀や神社などに登場する男女のペアの神様は大国主と台与のことですよ。アソツヒコ・アソツヒメなどなどです(^^♪
一柱謄宮の場所の伝承があと二つありますよ。史実を隠すために、あいまいな話にしたのだと思います(;´Д`)


最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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