学生が提出した期末課題の文章には、肉親の面倒や介護を見てくれる人工知能(AI)への期待が多いが、そこで使われるキーワードとして目を引くのが「陪伴」だ。日本語に訳せば、付き添う、寄り添う、付き合うなどの言い方になる。そばにいて、思いを通わせる存在である。
人口の流動性が高まるにつれ、農村部に老人や子どもが取り残される社会問題が深刻化している。こうした家庭の隙間にAIが入り込む時代は、もはや小説や映画の世界だけでなく、すでに現実化している。ある女子学生は、「AIが家庭の一員となり、陪伴の役割を演じることは求めない。子どもの健全な成長には両親が陪伴し、人としての正しい価値観を教えることが必要であり、AIはしょせんロボットでしかないからだ」と書いた。
抄訳をすれば以下の通りだ。
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私は幼少のころ、読書が好きで、何でもとことん追求する性格だった。だが、父母は仕事で忙しく、兄は遊び好きで、私の「10万もあるなぜ?」に答えてくれる時間ははなかった。やがて私は、近所のお姉さんを探し、様々な疑問をぶつけるようになった。そんな自分の境遇を、他人と比較することもしばしばだった。小学校のクラスメートが2週間、休みを取って、両親と旅行に行ったことがあった。私は、授業を休むことの是非を考えるよりも、ただ両親と出かけた彼女がうらやましくてしょうがなかった。
私は成長の過程で、常に聞き分けのよい子どもを演じ、父も母も私にとても安心し、完全に放任の状態だった。両親は、私が何をすべきで、何をすべきでないかを知っていると信じていた。だからもしタイムマシンがあったならば、私は幼少のころに戻って、最初から聞き分けの悪い子どもになりたい。そうすれば、両親と一緒にいる時間がもっと長くなるかも知れないからだ。
私が20年前、こうして陪伴を求める感情を他人に投影したように、現在はAIが家族に入り込んで一員となり、子どもたちは機械の身に陪伴の姿を求めれるようになるかも知れない。陪伴は、血の通った人間から、冷たい機械、AIに変わっていく。技術の進歩は人間社会の基礎にある交流を退化させていく。これが進歩と呼べるのだろうか。子どもがある日、「AIがいるから、お父さんお母さんは必要ない」と言い出すことにならないと、だれが保証できるだろうか。それを親たちは、平然と受け入れられるだろうか。私は、
「ごめんなさい。それは結構です」
と言うしかない。
老人もまた子どもの陪伴が必要だ。現在、ペットを飼う老人がますます増え、家にあるAI商品を自分の子どものようにかわいがる人たちも出現している。だが、こうした感情の本質はみな、親が子を思い、陪伴を求める気持ちの裏返しなのだ。子どもたちがそばにいないから、やむを得ない妥協として、感情を投入する実体を求め、子どもたちに対する関心を一つの実体に注いでいるだけなのだ。
もしも、超AIロボットがまったく子どもと同じ姿で現れ、定められた役割を演じ、毎日、老人に付き添っておしゃべりし、囲碁に興じ、ダンスを楽しみ、子どもが陪伴すべきあらゆることをやり遂げたとしたら、どうだろうか。たとえ親子の関係は変わらないとしても、共通の経験は失われ、感情の交流も減り、ただ関係があるだけになってしまう。老人とAIが暮らす家庭ばかりの社会になったとして、我々はAIの進歩を喜ぶことができるのだろうか。
もし私だったら、辛いに違いない。
「いつもものを買ってくることはないよ。できるだけ会いに来てくれればいいから」。これは私の祖母が亡くなってから、祖父が私たちに何度も話した言葉だ。両親は仕事で、私と兄は学校があったので、祖父と会う時間はどんどん減っていった。たとえ一緒にいて、楽しい話をしようと思っても、なかなか共通の話題が見つからず、私たちの世界がどんどんかけ離れていくように感じた。気まずさが、面会の喜びを上回ってしまうのだ。
人は年を取れば、ただだれかがそばにいて陪伴してほしいとだけ望むものだ。親子の生まれながらの関係は、だれも代替ができないと信じるが、それが弱まっていくことは認めざるを得ない。近眼の人は、まだメガネの度数が低いときは、それをかけるか否かを使い分ける。だが、メガネをかけているときに、わずか1秒の選択を惜しみ、そのままかけ続けたとたん、もはや外すことはしなくなる。家庭の中のAIもまた同じ理屈で、最初は新奇な目で見ていて、だんだん慣れてしまうと、もともとの必要を忘れ、非必需品から必需品に変わっていく。
私が思うに、陪伴の実質は、関係に対する一種の強調であり、安心感の不断の強化である。陪伴をAIに助けてもらうという口実で、当たり前のように自分の責任を放棄してよいことにはならない。家庭からAIを排除することは、陪伴を求める権利を奪うことなのかも知れないが、私は、こうした合理的な考えに反対だ。人は取り換えの利かない存在だし、感情も代替させるべきではない。天は、人の海の中に縁を与えてくれた。私たちはこの縁を大切に生きるべきなのだ。
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家庭におけるAIの陪伴機能を切り口に、自分と真摯に向き合い、生い立ちを振り返りながら、家族を中心に人と人の関係を掘り起こした文章だ。彼女が幼少時、欲しくても得られなかった陪伴の重みをひしひしと感じた。(続)
人口の流動性が高まるにつれ、農村部に老人や子どもが取り残される社会問題が深刻化している。こうした家庭の隙間にAIが入り込む時代は、もはや小説や映画の世界だけでなく、すでに現実化している。ある女子学生は、「AIが家庭の一員となり、陪伴の役割を演じることは求めない。子どもの健全な成長には両親が陪伴し、人としての正しい価値観を教えることが必要であり、AIはしょせんロボットでしかないからだ」と書いた。
抄訳をすれば以下の通りだ。
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私は幼少のころ、読書が好きで、何でもとことん追求する性格だった。だが、父母は仕事で忙しく、兄は遊び好きで、私の「10万もあるなぜ?」に答えてくれる時間ははなかった。やがて私は、近所のお姉さんを探し、様々な疑問をぶつけるようになった。そんな自分の境遇を、他人と比較することもしばしばだった。小学校のクラスメートが2週間、休みを取って、両親と旅行に行ったことがあった。私は、授業を休むことの是非を考えるよりも、ただ両親と出かけた彼女がうらやましくてしょうがなかった。
私は成長の過程で、常に聞き分けのよい子どもを演じ、父も母も私にとても安心し、完全に放任の状態だった。両親は、私が何をすべきで、何をすべきでないかを知っていると信じていた。だからもしタイムマシンがあったならば、私は幼少のころに戻って、最初から聞き分けの悪い子どもになりたい。そうすれば、両親と一緒にいる時間がもっと長くなるかも知れないからだ。
私が20年前、こうして陪伴を求める感情を他人に投影したように、現在はAIが家族に入り込んで一員となり、子どもたちは機械の身に陪伴の姿を求めれるようになるかも知れない。陪伴は、血の通った人間から、冷たい機械、AIに変わっていく。技術の進歩は人間社会の基礎にある交流を退化させていく。これが進歩と呼べるのだろうか。子どもがある日、「AIがいるから、お父さんお母さんは必要ない」と言い出すことにならないと、だれが保証できるだろうか。それを親たちは、平然と受け入れられるだろうか。私は、
「ごめんなさい。それは結構です」
と言うしかない。
老人もまた子どもの陪伴が必要だ。現在、ペットを飼う老人がますます増え、家にあるAI商品を自分の子どものようにかわいがる人たちも出現している。だが、こうした感情の本質はみな、親が子を思い、陪伴を求める気持ちの裏返しなのだ。子どもたちがそばにいないから、やむを得ない妥協として、感情を投入する実体を求め、子どもたちに対する関心を一つの実体に注いでいるだけなのだ。
もしも、超AIロボットがまったく子どもと同じ姿で現れ、定められた役割を演じ、毎日、老人に付き添っておしゃべりし、囲碁に興じ、ダンスを楽しみ、子どもが陪伴すべきあらゆることをやり遂げたとしたら、どうだろうか。たとえ親子の関係は変わらないとしても、共通の経験は失われ、感情の交流も減り、ただ関係があるだけになってしまう。老人とAIが暮らす家庭ばかりの社会になったとして、我々はAIの進歩を喜ぶことができるのだろうか。
もし私だったら、辛いに違いない。
「いつもものを買ってくることはないよ。できるだけ会いに来てくれればいいから」。これは私の祖母が亡くなってから、祖父が私たちに何度も話した言葉だ。両親は仕事で、私と兄は学校があったので、祖父と会う時間はどんどん減っていった。たとえ一緒にいて、楽しい話をしようと思っても、なかなか共通の話題が見つからず、私たちの世界がどんどんかけ離れていくように感じた。気まずさが、面会の喜びを上回ってしまうのだ。
人は年を取れば、ただだれかがそばにいて陪伴してほしいとだけ望むものだ。親子の生まれながらの関係は、だれも代替ができないと信じるが、それが弱まっていくことは認めざるを得ない。近眼の人は、まだメガネの度数が低いときは、それをかけるか否かを使い分ける。だが、メガネをかけているときに、わずか1秒の選択を惜しみ、そのままかけ続けたとたん、もはや外すことはしなくなる。家庭の中のAIもまた同じ理屈で、最初は新奇な目で見ていて、だんだん慣れてしまうと、もともとの必要を忘れ、非必需品から必需品に変わっていく。
私が思うに、陪伴の実質は、関係に対する一種の強調であり、安心感の不断の強化である。陪伴をAIに助けてもらうという口実で、当たり前のように自分の責任を放棄してよいことにはならない。家庭からAIを排除することは、陪伴を求める権利を奪うことなのかも知れないが、私は、こうした合理的な考えに反対だ。人は取り換えの利かない存在だし、感情も代替させるべきではない。天は、人の海の中に縁を与えてくれた。私たちはこの縁を大切に生きるべきなのだ。
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家庭におけるAIの陪伴機能を切り口に、自分と真摯に向き合い、生い立ちを振り返りながら、家族を中心に人と人の関係を掘り起こした文章だ。彼女が幼少時、欲しくても得られなかった陪伴の重みをひしひしと感じた。(続)