行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア・北京発】ネット決済「支付宝(アリペイ)」を好む中国人の心理とは?

2015-12-06 13:40:53 | 日記
昨日の記事を読んだ北京の20代女性の「大ネコ」から、「私も投稿したい」と原稿が送られてきた。中国にも読者がいるとは、非常に有難い反響である。内容は、中国で爆発的な広がりを見せているネットショップの決済システム「支付宝(アリペイ)」や微信(ウィーチャット)などの携帯決済について。中国では11月11日のネットショップ祭りで最大手のアリババ集団が912億元(約1兆7000億円)を売り上げたことが話題になったが、それを支えたのが支付宝だ。携帯一つで簡便なうえ、商品を確認してから支払いが完結するので安心というのが人気の一つだ。微信を使ったタクシー料金の決済も一般化している。そこには中国人特有のメンツ文化も反映されている・・・そんなことを教えてくれる一文である。以下、翻訳する。


先日、いつものように家の近所にある「好利来」ケーキ店」で朝食を買おうとした。いつものように6元のパンを選んだが、支払いの際、今日は支付宝で払うと5元割引だという。つまり携帯で支払えば1元であのパンが買えるのだ。すごく感激!5元の価値は現代のホワイトカラー、そして多くの人々にとって微妙な金額だ。もし私が100元以上の買い物をしたとして、支付宝で5元割引をしてもらっても、おそらく大した喜びは感じないが、あの日、1元で6元のものを買えた感激は、瞬時にして支付宝への好感度を高めることになった。

携帯での決済は今や疑いもなく生活の各方面に広がっている。先日は、望京の食品市場で、屋根の上から「微信支払」の看板がぶら下がっているのを見つけた。


微博には、北京の焼き芋屋にも「微信での支付宝支払いを支持します」とドラム缶の上に書いてある写真があった。


私はもともと、銀行のキャッシュカードを使ったあらゆる決済方法には疑いと不信の目を持っていた。友人の間でも私は最も遅く微信と支付宝の支払いを使い始めた一人だと思う。だからいつも私は友人から「保守的過ぎる」「時代遅れだ」「科学の発展が人類にもたらした福利を享受できない人間だ」と批判されてきた。微信を最初に使ったのは2014年の後半だった。携帯アプリでタクシーを呼んだ際も(※中国の都市部では今、携帯のアプリを使ってタクシーや白タクを呼ぶのが一般化している)、降りる前に料金を支払う時にはいつも、運転手が「微信で払ってもらえないか」と私を困らせることが多かった。毎回毎回面倒くさいので、とうとう微信に銀行カードを登録したのだった。

こうして私は、だんだんと近くの友人に会う時は携帯しか持たない人間になっていった。

支付宝の支払いは確かに生活の中での多くの面倒を省いてくれる。

例えば仕事の日、大企業の昼食時は同僚と一緒にグループを組んで近くのレストランに出かけるが、会計の際、たいていは一人が全額を払い、残りの者はそれぞれ自分の代金をその人に渡すことになる。ただ割り勘は時々、例えば1人が27元とか中途半端な額だと、双方とも細かいお金が見つからないことが起きる。たいていは最初に支払った人が「細かいお金があるときでいいよ!」と言い、もう一方は「じゃあ今度は私が払うよ!」と言って済ますことになる。一見すると話がすっきりして、バランスがよく、差し引きゼロのような感じがするが、実際は、何度かこういうことが続くと、みんな誰が誰にどれだけ食事の貸し借りがあるのかわからなくなってくる。そしてこのために同僚間に軋轢が生じ、例えばある同僚が他の仲間に食事代金を借りていることを忘れ、貸している側が相手のことを小銭をごまかす癖があると思い込むようになり、相互の不信感が生じてしまう。だから、お金の支払いが細かくできる支付宝、微信での支払いは、同僚の間で幅広く行われるようになるのももっともなことなのだ。

また、人情のやり取りについても言えることがある。ある友人は最近、家族の事業で問題が生じ、一人っ子として両親の困難を助けるため、何年も働いて貯めた貯金を全部家族に渡してしまった。そのうえ毎月、給料の半分以上を両親に仕送りしなければならなくなった。友人たちはこの事情を知った後、毎回、一緒に食事をするときは彼からお金を受け取らなかったが、本人は自尊心の強い人間なので、メンツをつぶすことにもなった。テーブルの上でだれがお金を払うかとやり取りをするのは、彼にしてみれば「不体面(みっともない)」ということになる。そこで彼は毎回、食事が終わって家に帰ってから、微信や支付宝で自分の食べた分は返すようにした。こうすれば受け取る側も拒否できないからだ。

この例は特殊のように見えるが、実は普遍性がある。中国人はよく「お金の話をするのは気分が悪い!」と言う。この意味するところは、お金が重要ではないというのではなく、口に出したくない、つまり、公開の場所でお金の話をしたくない、またははっきり口にだすのがはばかられるということ。テーブルの上で話したくはないのだ。だから、多くを言う必要がなく、携帯で目に見えないように支払いを済ませるのは、こうした「お金の話はメンツをつぶす」という厄介さを避けるのに役立つ。

また、ご祝儀を微信で支払うのも流行っている。中国では以前、特別なお祝いごとの時に年配者から現金の「紅包(ご祝儀)」を受け取る習慣があった。春節の初日にあいさつに行った時や大学の合格や結婚で大きな宴会をした時、生まれたばかりの子どもが1か月になった時、また誕生日の時など、こうした時は言うまでもなく家族や友人が身近で祝ってくれる幸せな時だ。私は生まれた小さな町は人情が豊かで、学校で奨学金を受け取った時も「紅包」の形だった。校長先生が私の名の書かれたかわいいデザインの赤い封筒を私の手に渡してくれた時の喜びはずっと覚えている。親しみのある「紅包」のスタイルは、私に家庭の温かさを感じさせてくれるものでもある。

紅包、これは中国人にとって言うまでもなく吉祥の象徴なのだ。小さいころ、いつも母は銀行からわざわざ新しい札をもらってきてきちんと束ね、お店で選んできた金色の吉祥の言葉が書かれたのし袋にそっと入れるのだった。このすべての過程に気持ちがいっぱいあふれ、それが紅包にたくさんの意義をもたらしてくれた。

だが今は、生活に忙しく急き立てられ、家族や友人らは散り散りになり、異なる場所で生活し、一堂に会するのが難しい社会になった。少し前のことだが、高校時代の仲の良い友人が故郷で結婚式を挙げた。私は仕事を抜けられず、参加できなかった。非常に申し訳なく思い、微信で紅包を送り、わずかながらの祝意を伝えた。そのとき思ったのは、もし微信で紅包を送る方法がなければ、確かにやりようがなかった。こういういお祝いに際して、祝福の言葉だけでは余りにもそっけなく、誠意が伝わらないからだ。

微信の紅包は当然、こうした場合だけではない。ここ数年、祝祭日などの特殊な日には、いろいろな微信グループが、〝紅包奪い取り競争〟のために大騒ぎとなる。どういうことかというと、グループの中である者が少額では数十元、高額では数千元の紅包を微信上で配り、その他の者がこれを〝分けて食べる〟からだ。運が良ければ高額の紅包を手にできるし、運が悪ければ全く手ぶら状態になる。この〝天からパイが落ちてくる〟喜びは、運試しの刺激も加わって、みんなが〝紅包奪い取り競争〟に夢中になる。紅包を配る意味は、上司が人徳や人気を得ることのほか、部下への関心を示すこと、チャットグループの雰囲気を高めることにもなる。だから、紅包を配るタイミングもだんだん幅が広がり、気分に応じて配られるようになっている。紅包も徐々に儀式の意味が薄れ、特別な意義もなくなってきている。

映画でも30、40年代の白黒フィルムを好むような懐旧趣味のある私にとっては、ある伝統のスタイルが消えていくのは不安でもあり惜しくも感じる。ある人から見ればこうした考え方は身勝手で、調子がよ過ぎるように見えるだろうが、結局のところ私は紅包の奪い合いが好きで、ずっと携帯決済の便に浴してきている。これは矛盾だと思うのである。

微信と支付宝の決済で、携帯の重要性はますます高まっている。よく言われるのは、今や財布をなくしても問題はないが、携帯はそうはいかない。多くの銀行カードが登録されているからね!これは全く潜在的な安全上の落とし穴で、危険が目の前に迫っているのにもかかわらず、みんなわざとそれを見ないふりをしているだけだ。

やめたくてもやめられないものに対しては、多くのことを考えても意味がないので、まずはその成り行きを静観することにしたい。


【コメント】最後のひとことは至言です。

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