米政府の発表によると、米連邦捜査局(FBI)が国家安全保障局(NSA)契約職員の男性、メリーランド州のハロルド・トーマス・マーティン三世(51)を国家機密情報の窃盗容疑で逮捕した。マーティン氏の自宅や車から、最高機密資料のハードコピーやデジタルファイルが見つかったという。彼は、米政府による大掛かりな市民監視プロジェクト「プリズム」を暴露したエドワード・スノーデン氏と同じく、防衛関連コンサルティング企業ブーズ・アレン・ハミルトンの社員だったことから、中国メディアでも「第二のスノーデンか?」と騒がれた。
私はそれよりも、特定秘密保護法の成立を受け、「第二の西山事件」がいつ起きてもおかしくないとの思いが頭をよぎった。西山事件は、1971年の沖縄返還交渉で交わされた佐藤栄作首相とニクソン大統領間の密約について、毎日新聞記者の西山太吉氏が男女関係のある外務省の女性事務官から極秘公電を入手し、女性が国家公務員法違反に、西山氏が同教唆罪で有罪判決を受けたものだ。
米国にはベトナム戦争時、元米情報機関研究者が国防文書をメディアにリークしたペンタゴン・ペーパー事件や、反戦活動家がFBI事務所から極秘調査文書を盗み出してメディアに流したコインテルプロ事件、さらにはウィキリークス事件、スノーデン事件などを経て、国家機密保護に対する知る権利、報道の自由の優越が社会的にも、法曹界においても相対的に広く認識されている。報道の価値は、時に情報入手方法の是非さえも不問に付すほどの重みが与えられている。
西山事件は、そもそも毎日新聞の報道が、ニュースの核心である極秘公電の存在はストレートに触れず、ぼやかした解説記事による問題提起にとどまり、そのうえ、極秘公電を国会質問をする野党議員に手渡してニュースソースが露見してしまったお粗末なケースだ。表向きにせよ良心と正義に基づく告発者もいなければ、権力の圧力をはねのけて報道を貫いたメディア人もいない。西山氏の弁護団は知る権利を柱に据えたが、残念ながらその訴えの努力が後世に伝えられることもなかった。
むしろ、政治記者の不明朗な取材活動に対する負の遺産を残してしまった。なぜ、記者が命にかけても守るべきものを、簡単に直接は面識のない野党議員の政治的駆け引きのために渡してしまったのか。事件の背景にかかわる肝心な事実は今なお明かされていない。メディア自身が国民の知る権利に答えていないのである。
「第二の西山事件」に対する危惧は、不正義に目をつぶる社会と、事なかれ主義に堕したメディアの弱腰が、結局は言論の自由や国民の知る権利を形がい化させ、国家機密の前でひざまずく失態を再演しはしないかというものである。強きになびき、大勢におもねり、戦うことを忘れてきたメディアが、国家権力を相手に正面から勝負を挑めるとは期待できない。
「第二の西山事件」が起きる前に、権力を監督、警戒するだけでなく、権力を前にしたメディアの気概こそがを問われていることを認識すべきである。
私はそれよりも、特定秘密保護法の成立を受け、「第二の西山事件」がいつ起きてもおかしくないとの思いが頭をよぎった。西山事件は、1971年の沖縄返還交渉で交わされた佐藤栄作首相とニクソン大統領間の密約について、毎日新聞記者の西山太吉氏が男女関係のある外務省の女性事務官から極秘公電を入手し、女性が国家公務員法違反に、西山氏が同教唆罪で有罪判決を受けたものだ。
米国にはベトナム戦争時、元米情報機関研究者が国防文書をメディアにリークしたペンタゴン・ペーパー事件や、反戦活動家がFBI事務所から極秘調査文書を盗み出してメディアに流したコインテルプロ事件、さらにはウィキリークス事件、スノーデン事件などを経て、国家機密保護に対する知る権利、報道の自由の優越が社会的にも、法曹界においても相対的に広く認識されている。報道の価値は、時に情報入手方法の是非さえも不問に付すほどの重みが与えられている。
西山事件は、そもそも毎日新聞の報道が、ニュースの核心である極秘公電の存在はストレートに触れず、ぼやかした解説記事による問題提起にとどまり、そのうえ、極秘公電を国会質問をする野党議員に手渡してニュースソースが露見してしまったお粗末なケースだ。表向きにせよ良心と正義に基づく告発者もいなければ、権力の圧力をはねのけて報道を貫いたメディア人もいない。西山氏の弁護団は知る権利を柱に据えたが、残念ながらその訴えの努力が後世に伝えられることもなかった。
むしろ、政治記者の不明朗な取材活動に対する負の遺産を残してしまった。なぜ、記者が命にかけても守るべきものを、簡単に直接は面識のない野党議員の政治的駆け引きのために渡してしまったのか。事件の背景にかかわる肝心な事実は今なお明かされていない。メディア自身が国民の知る権利に答えていないのである。
「第二の西山事件」に対する危惧は、不正義に目をつぶる社会と、事なかれ主義に堕したメディアの弱腰が、結局は言論の自由や国民の知る権利を形がい化させ、国家機密の前でひざまずく失態を再演しはしないかというものである。強きになびき、大勢におもねり、戦うことを忘れてきたメディアが、国家権力を相手に正面から勝負を挑めるとは期待できない。
「第二の西山事件」が起きる前に、権力を監督、警戒するだけでなく、権力を前にしたメディアの気概こそがを問われていることを認識すべきである。
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