昨日の7日は中国の習近平国家主席と台湾の馬英九総統による初の中台トップ会談がシンガポールで行われた。アジア外交で失点続きの中国にとって、台湾との蜜月をアピールすることは極めて大きな意味を持つ。アジアでの対米優位を確保するためにも、「中華民族の偉大な復興」を実現するためにも中台統一は喫緊の課題である。今後、海上シルクロード経済圏構想において台湾に協力を求め、経済的に取り込む動きが活発化するだろう。
中台トップ会談に合わせたわけではないが、都内の日中友好会館ではこの日、『義勇軍進行曲』(日本語では『義勇軍行進曲』)の80周年記念コンサートが行われ、私は知り合いに誘われて出かけた。主として日本で活躍する中国人の歌手、揚琴・二胡・笙の奏者らが日中の民謡や民族音楽を披露した。ソプラノの『里の秋』が心にしみた。終戦直後の日本ではやった、戦地から引き上げる父親を待つ家族の心境を歌ったものだ。
中華民族の奮起を促す同曲は抗日戦争期、共産党軍を中心に広まり、1949年の中華人民共和国建国後、中国の国歌となった。私が連想したのは昨年、台湾の軍人出身で元行政院長の郝柏村氏が盧溝橋事件77周年で訪中した際、中国テレビの取材で同曲を口ずさみ、台湾で反発を招いた事件だった。郝氏は「抗戦の歌で、当時は老若男女みなが歌えた」と答えたが、国共内戦、対立の歴史を背負い、以前、戒厳令下の台湾では禁じられた曲だけに、そう単純に割り切れないのも事実だ。
抗日戦争史は中台関係を改善する突破口にもなり得るし、障害物にもなり得る微妙な要素である。『義勇軍進行曲』に対する反応がそれを象徴している。と、こんなことを考えた。そして同曲と日本との縁に思いをはせた。
同曲は日本で学んだ2人の共産党員であり芸術家の田漢氏と聶耳氏がそれぞれ作詞、作曲した。著名劇作家の田漢が脚本を書き、抗日戦争に身を投ずる青年を描いた映画『風雲児女』の主題歌として生まれ、広範に広まった。だが田漢は文化大革命期、政治的迫害を受けて獄中死し、国家の曲は演奏できても彼の作った歌詞は歌うことを禁じられた。1978年から4年間は、共産党と毛沢東を礼賛する歌詞に書き換えられた。彼の死は封印され、遺言も遺体も残されなかった。翌年に開かれた葬儀では、「骨壺」に同曲のレコードや愛用のメガネ、万年筆が納められたという悲惨な運命だった。
聶耳も作詞の直後、神奈川県藤沢市の鵠沼海岸で遊泳中に死亡し、不運な最期を迎えた。フランスへの留学を夢見た天才音楽家だった。自分の曲が国歌になるのを知らずに23歳の人生を終えた。同海岸には聶耳の記念碑が建てられ、こうした縁で、藤沢市と彼の故郷・雲南省昆明は友好都市の関係を結んでいる。
80周年記念コンサートは、田漢氏の姪で日本に住む音楽家の田偉氏らが呼びかけた。彼女は阪神・淡路大震災後、日中間の文化芸術交流活動に力を注いでいる。江蘇省無錫の桜まつりにも参加し、私もそこでお会いしたことがある。私はこの日、同じく無錫で30年近くにわたり桜の植樹を続けているボランティアの招きでお邪魔した。会場には藤沢市の関係者もいた。
これほど多くの物語を背負った歌も珍しいのではないか。はたから見れば、抗日戦争の歌を今日、日中の民間人が記念するのは奇異に見えるかも知れないが、それはステレオタイプの机上論であろう。特定の時代の特定の人々の意思とはかかわりなく、歴史は独自の歩みをし、記憶を刻んでいく。こうした血の通った歴史にこそ、偽りのない正直な真実が含まれている。伝えるべきはこうした歴史だと思う。観念のみで物事を考えてはいけない。机上でいくら深読みをしても実際が伴わなkれば、小さな点をどこまでも掘り続けているだけで、面の広がりを持った見方は生まれない。
※参考 中華人民共和国国家(日本語訳)
起て!奴隷となることを望まぬ人びとよ!
我らが血肉で築こう新たな長城を!
中華民族に最大の危機せまる
一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ
起て! 起て! 起て!
我々すべてが心を一つに 敵の砲火をついて進め!
敵の砲火をついて進め!
進め! 進め! 進め!
中台トップ会談に合わせたわけではないが、都内の日中友好会館ではこの日、『義勇軍進行曲』(日本語では『義勇軍行進曲』)の80周年記念コンサートが行われ、私は知り合いに誘われて出かけた。主として日本で活躍する中国人の歌手、揚琴・二胡・笙の奏者らが日中の民謡や民族音楽を披露した。ソプラノの『里の秋』が心にしみた。終戦直後の日本ではやった、戦地から引き上げる父親を待つ家族の心境を歌ったものだ。
中華民族の奮起を促す同曲は抗日戦争期、共産党軍を中心に広まり、1949年の中華人民共和国建国後、中国の国歌となった。私が連想したのは昨年、台湾の軍人出身で元行政院長の郝柏村氏が盧溝橋事件77周年で訪中した際、中国テレビの取材で同曲を口ずさみ、台湾で反発を招いた事件だった。郝氏は「抗戦の歌で、当時は老若男女みなが歌えた」と答えたが、国共内戦、対立の歴史を背負い、以前、戒厳令下の台湾では禁じられた曲だけに、そう単純に割り切れないのも事実だ。
抗日戦争史は中台関係を改善する突破口にもなり得るし、障害物にもなり得る微妙な要素である。『義勇軍進行曲』に対する反応がそれを象徴している。と、こんなことを考えた。そして同曲と日本との縁に思いをはせた。
同曲は日本で学んだ2人の共産党員であり芸術家の田漢氏と聶耳氏がそれぞれ作詞、作曲した。著名劇作家の田漢が脚本を書き、抗日戦争に身を投ずる青年を描いた映画『風雲児女』の主題歌として生まれ、広範に広まった。だが田漢は文化大革命期、政治的迫害を受けて獄中死し、国家の曲は演奏できても彼の作った歌詞は歌うことを禁じられた。1978年から4年間は、共産党と毛沢東を礼賛する歌詞に書き換えられた。彼の死は封印され、遺言も遺体も残されなかった。翌年に開かれた葬儀では、「骨壺」に同曲のレコードや愛用のメガネ、万年筆が納められたという悲惨な運命だった。
聶耳も作詞の直後、神奈川県藤沢市の鵠沼海岸で遊泳中に死亡し、不運な最期を迎えた。フランスへの留学を夢見た天才音楽家だった。自分の曲が国歌になるのを知らずに23歳の人生を終えた。同海岸には聶耳の記念碑が建てられ、こうした縁で、藤沢市と彼の故郷・雲南省昆明は友好都市の関係を結んでいる。
80周年記念コンサートは、田漢氏の姪で日本に住む音楽家の田偉氏らが呼びかけた。彼女は阪神・淡路大震災後、日中間の文化芸術交流活動に力を注いでいる。江蘇省無錫の桜まつりにも参加し、私もそこでお会いしたことがある。私はこの日、同じく無錫で30年近くにわたり桜の植樹を続けているボランティアの招きでお邪魔した。会場には藤沢市の関係者もいた。
これほど多くの物語を背負った歌も珍しいのではないか。はたから見れば、抗日戦争の歌を今日、日中の民間人が記念するのは奇異に見えるかも知れないが、それはステレオタイプの机上論であろう。特定の時代の特定の人々の意思とはかかわりなく、歴史は独自の歩みをし、記憶を刻んでいく。こうした血の通った歴史にこそ、偽りのない正直な真実が含まれている。伝えるべきはこうした歴史だと思う。観念のみで物事を考えてはいけない。机上でいくら深読みをしても実際が伴わなkれば、小さな点をどこまでも掘り続けているだけで、面の広がりを持った見方は生まれない。
※参考 中華人民共和国国家(日本語訳)
起て!奴隷となることを望まぬ人びとよ!
我らが血肉で築こう新たな長城を!
中華民族に最大の危機せまる
一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ
起て! 起て! 起て!
我々すべてが心を一つに 敵の砲火をついて進め!
敵の砲火をついて進め!
進め! 進め! 進め!
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