行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

日本語と中国語の「風月」「柳暗花明」・・・不思議な交差

2016-07-10 21:47:13 | 日記
結果が見え透いた参院選のことを考え気が滅入ったので、李白の詩をめくっていた。自由詩の『三五七言』をながめていて、不思議なことに気付いた。

『三五七言』

秋風清く
秋月明らかなり
落葉聚(あつ)まりて 還(ま)た散じ
寒鴉(かんあ)棲(す)んで 復(ま)た驚く
相思い相見る
知る何(いず)れの日か
此の時此の夜 情を為し難し

どうみても女性を思う歌である。思い切って意訳をしてみる。

透明な秋風が頬を撫でる。あたかも女性の手に触れらるような悦楽に酔っているいるかのようだ。月は女神の嫦娥が住むところだ。妖艶な女性を形容する嬋娟は月の代名詞である。その姿が目の前に浮かんでくる。風に吹き集められた落葉はすぐ追い払われ、休んだかとみえたカラスも、何か思い立ったかのように飛び立っていく。出会いがあれば別れがある。人の縁は実にはかないものだ。思いを寄せるあの女性に会えるのは、いったいいつのことになるのだろう。彼女もまた私のことを思い続けているに違いない。だからこそ余計に辛いのだ。こんな切ない時間、こんな寂しい夜を一人で過ごしていると、身を割くような熱情を抑えることができなくなる。

李白は酔っているのだ。酒に酔い、人生に酔い、女性に酔い、惑溺の中で自分の素顔と向き合っている。だが酔えば酔うほど、詩を詠めば詠むほど、孤独はさらに深まるに違いない。とことん孤独の底まで見極めようという覚悟が感じられる。

秋風、秋月、「風月」は古来、自然に仮託した男女の情を暗示する表現だ。異民族の侵略に主戦論を訴え続けた南宋の陸游は晩年、「風月を戯れ詠った」と言いがかりをつけられ失脚した。ふるさとの紹興に戻った陸游は、家の離れを「風月軒」と名付けて笑い飛ばした。

陸游の有名な詩「遊山西村」には「柳暗花明又一村」の句がある。深い山道を歩き進むうち、柳の枝に隠れていた花がパッと視界に飛び込んできた。懐かしい人々が暮らす村にたどり着いた感動を詠ったものだ。そこから「柳暗花明」は、困難な逆境を乗り越えようやく希望の明かりが見えきた喜び意味する言葉として用いられる。

そこで、不思議な発見のことである。

「風月」は、日本語では「花鳥風月」のようにもっぱら風流な自然の描写に用いられるが、中国語では「風月場」と言えば昔の妓楼を指していた。「風月」は男女が交わす情の比喩に使われたのだ。一方、「柳暗花明」は、中国語では自然風景の体験から人生訓に転用されていったのに対し、日本語では花街を意味する。中国語の「風月」のような暗示の用法に転じたのである。

おそらく私よりもずっと前に気の利いた学者が指摘をしていることだろうが、寡聞が幸いし、自分の発見として驚きを得たのである。直接的な表現を避ける気分が働く男女の情について、身の回りにある美しい自然に仮託しようという気持ちは、少なくとも日中両国に共通しているということは言えるだろう。

今日はこの発見のほか、投票会場になっている母校の小学校を訪れられたことがうれしい出来事だった。母校は来年、近くの小学校を合併し、国民学校時代を含め76年使い続けてきた名称が変わることになっている。当時の面影を探そうと校庭を眺めていて、眼にとまったのが大きな菩提樹だった。自然にさまざまな情を託するのは人の常なのかもしれない。







 



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2 コメント

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がんばってるね (寳田時雄)
2016-07-13 14:04:22
見事な菩提樹です。小生の散歩途中の稲荷堂の敷地にもイチイの大木があります。直径は一抱えもあり苔むしています。樹肌を摩りながら「ガンバッテいるね」と語りかけます。

風流な友は公園の大木の下に座って朝日を待ちます。紫の陽光が射すとき繁った枝葉から一斉に降り注ぐものがあるといっています。
この菩提樹もそんな精気が在るように感じます。

昼の喧騒もシャワーのように降り注ぎますが、無為、無音、無情報を恐れと感ずる昨今に、清風の至るを感知し、無邪気に許す童心回帰も必要と感じた次第。

素晴らしい薫文に敬服します
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素敵な… (hk)
2016-07-15 18:04:13
いつものブログとがらっと雰囲気が違いますが、素敵な意訳ですね。
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