かつて宮内庁担当記者をしていたころ、両陛下の同行で京都に行ったときの忘れ難い思い出がある。京都駅を降りると、出迎える人垣の中から「天皇さん、お帰りなさい!」と叫ぶ声があった。「天皇さん」という親しみのある呼び方に加え、「今は仮に東京に住んでいるだけ。だから京都御所に帰ってきたのだ」という感覚に驚いた。
今回の京都旅行でも天皇の存在を強く感じた。天皇家が刻んだ歴史の深さと現在の不在がもたらしている溝の深さ、である。
同志社大の西側にある大聖寺は室町時代、天皇家の内親王を門跡として迎え、以来、「御寺御所(お寺の御所)」の異名を持つ。幕末、光格天皇の皇女、普明浄院宮が寺に入った際、光格天皇は斑入りのカキツバタを「雲井の鶴」と命名して下賜した。同寺院の庭にはなお紫色の「雲井の鶴」が残っている。陶器の鉢にも菊のご紋がある。天皇家との関係が寺院の運営に大きく役立ったが、明治以降、それが途絶えると、文化財の保護、修復にも困難をきたすほど資金面の苦労は多いとの話が伝わる。
御所の東、寺町通にある清浄華院(しょうじょうけいん)は、浄土宗八総大本山の一つで高い格式を持つ。同寺の伝承によると、平安時代の貞観2年(860)、清和天皇の招きによって唐から戻った天台宗の慈覚大師円仁が御所に「禁裏内道場」として建立したのが始まりとされる。国家の泰平と天皇陛下のご健康を祈る鎮護国家の道場でもあったのだ。同寺ホームページには「宮中にあったため、死の汚れを避け、葬式を行わない寺院であった事から『清らかな蓮の花の如く清浄な修行道場』といった意味を込め、清浄華院と名付けられたと伝わっています」(http://jozan.jp/index.php?History)と紹介されている。
その後、後白河天皇が浄土宗を広めた法然上人の教えを信仰し、同道場を法然上人に賜った。これによって清浄華院は浄土宗に改められた。清浄華院では円仁を創立開山、法然上人を改宗開山としてしている。御影堂にある法然上人の像は、優しい表情をしていた。ちなみに皇室との深い縁から長く菊花紋を使っていたが、明治以降は遠慮をして菊を葉で隠すような紋に変わった。天皇は神格化とともに、縁遠い存在になったようだ。
こうしたことを思うにつけ、相国寺が若冲画を天皇家に買い取ってもらうことで生き延びたのは実に幸運だった。
御所の北に面する冷泉家では唯一残っている公家の屋敷だと説明を受けた。明治維新後の東京遷都で天皇が旧江戸城に移った際、公家もまた京都を離れ、唯一、和歌の古文書を保護する名目で残されたのが冷泉家だという。同宅には御所から下賜された鶴の絵のふすまなども残っている。門に阿吽(あうん)を対にした亀像瓦が置かれているが、これは同邸が御所の北にあり、北を守る玄武神を表しているとのことだった。
京都を担ってきた貴族文化の根が断たれたのだが、それは寺院に残された。清浄華寺で愛好家グループによる茶会が開かれているのにも出くわした際、そんな感じを持った。
京都市内にはすでに文化庁の京都移転を宣伝するポスターも見られた。いろいろな議論はあるのだろうが、日本が文化立国として発展していくためには歓迎すべきだと思う。そこで考えてみる。天皇皇后両陛下は戦後、なかなか日の当たらない福祉活動を地道に続け、また自然災害での被災者慰問などを通じ、国民の中で広範な支持を得てこられた。そこにもう一つ、文化の継承という歴史的事実に基づく役割にも光が当たってもいいのではないか。
現在の御所は、軍事要塞である江戸城跡に移され、深い森に隠れるようにある。京都の御所は低い壁に覆われ、周囲との距離は短い。「天皇さん」という呼称がそれを象徴している。京都御所に暮らす天皇の方が、より庶民に親しみのある存在に近づくような気がするがどうだろうか。
(上海にて)
今回の京都旅行でも天皇の存在を強く感じた。天皇家が刻んだ歴史の深さと現在の不在がもたらしている溝の深さ、である。
同志社大の西側にある大聖寺は室町時代、天皇家の内親王を門跡として迎え、以来、「御寺御所(お寺の御所)」の異名を持つ。幕末、光格天皇の皇女、普明浄院宮が寺に入った際、光格天皇は斑入りのカキツバタを「雲井の鶴」と命名して下賜した。同寺院の庭にはなお紫色の「雲井の鶴」が残っている。陶器の鉢にも菊のご紋がある。天皇家との関係が寺院の運営に大きく役立ったが、明治以降、それが途絶えると、文化財の保護、修復にも困難をきたすほど資金面の苦労は多いとの話が伝わる。
御所の東、寺町通にある清浄華院(しょうじょうけいん)は、浄土宗八総大本山の一つで高い格式を持つ。同寺の伝承によると、平安時代の貞観2年(860)、清和天皇の招きによって唐から戻った天台宗の慈覚大師円仁が御所に「禁裏内道場」として建立したのが始まりとされる。国家の泰平と天皇陛下のご健康を祈る鎮護国家の道場でもあったのだ。同寺ホームページには「宮中にあったため、死の汚れを避け、葬式を行わない寺院であった事から『清らかな蓮の花の如く清浄な修行道場』といった意味を込め、清浄華院と名付けられたと伝わっています」(http://jozan.jp/index.php?History)と紹介されている。
その後、後白河天皇が浄土宗を広めた法然上人の教えを信仰し、同道場を法然上人に賜った。これによって清浄華院は浄土宗に改められた。清浄華院では円仁を創立開山、法然上人を改宗開山としてしている。御影堂にある法然上人の像は、優しい表情をしていた。ちなみに皇室との深い縁から長く菊花紋を使っていたが、明治以降は遠慮をして菊を葉で隠すような紋に変わった。天皇は神格化とともに、縁遠い存在になったようだ。
こうしたことを思うにつけ、相国寺が若冲画を天皇家に買い取ってもらうことで生き延びたのは実に幸運だった。
御所の北に面する冷泉家では唯一残っている公家の屋敷だと説明を受けた。明治維新後の東京遷都で天皇が旧江戸城に移った際、公家もまた京都を離れ、唯一、和歌の古文書を保護する名目で残されたのが冷泉家だという。同宅には御所から下賜された鶴の絵のふすまなども残っている。門に阿吽(あうん)を対にした亀像瓦が置かれているが、これは同邸が御所の北にあり、北を守る玄武神を表しているとのことだった。
京都を担ってきた貴族文化の根が断たれたのだが、それは寺院に残された。清浄華寺で愛好家グループによる茶会が開かれているのにも出くわした際、そんな感じを持った。
京都市内にはすでに文化庁の京都移転を宣伝するポスターも見られた。いろいろな議論はあるのだろうが、日本が文化立国として発展していくためには歓迎すべきだと思う。そこで考えてみる。天皇皇后両陛下は戦後、なかなか日の当たらない福祉活動を地道に続け、また自然災害での被災者慰問などを通じ、国民の中で広範な支持を得てこられた。そこにもう一つ、文化の継承という歴史的事実に基づく役割にも光が当たってもいいのではないか。
現在の御所は、軍事要塞である江戸城跡に移され、深い森に隠れるようにある。京都の御所は低い壁に覆われ、周囲との距離は短い。「天皇さん」という呼称がそれを象徴している。京都御所に暮らす天皇の方が、より庶民に親しみのある存在に近づくような気がするがどうだろうか。
(上海にて)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます