ある女子学生は期末課題に「二つの夏」と題する一文を寄せた。メディア論の核心は、いかに外部の環境から有益な情報を受け取り、いかに正しい世界観を構築するかにある。その答えを、彼女は身近な問答を通じて探索した。
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--みんなの理想的な夏の生活はどんなもの?
私は二人の友だちに聞いてみる。
「山小屋の前に小川が流れていて、時々釣りをしたり、畑に入って食材を採ったり、一番いいのは料理の得意な人がいて、三食を一緒に作ること。寝たいときに寝て、目が覚めるまで寝ている。ふだんは部屋にいて音楽を聴き、本を読み、絵を描き、ギターを弾き、したいことをする。携帯もパソコンもなくて、一、二週間に一回は自転車に乗って海辺に行く」
「海の近く、必ず海の近くに住んで、それも竹で編んだ家で、一匹のネコかイヌだけがそばにいる。いつもは海辺でエビを採ったり、魚を捕まえたり、時には水上バイクで海の上を走る。寝たいときに寝て、目が覚めるまで寝ている。家には電気製品はなくて、自分で三食煮炊きをする」
--じゃあ、実際の夏の生活はどう?
「バイト、テレビ、エアコンで睡眠」
「いつもと同じ、エアコンの生活」
--夏を連想させるのはどんなもの?
「エアコン、スイカ、みんなの薄着」
「汗、スイカ、みんなの薄着」
私は彼女たちの答えに驚かない。なぜなら、夏の生活に対する理想と現実の差は、家庭環境によって決まるもので、自分の力ではどうにもならないから。ただ、三つ目の質問に対する答えには疑問が湧く。理想の夏の生活は大自然に接することだ。実際には手の届かないものであっても、それならどうしてふだんから大自然を観察し、感受し、現実のやるせなさを補おうとしないのか。
彼女たちは特別な事例ではない。多くの人は理想の夏と現実の夏を交わらない世界に置いて、前者は精神の中に、後者は大脳の中にあると思っている。二つの世界の間を行き来するワームホール (wormhole=時空をつなぐ虫食い穴)がなければ、差異は大きく、縮めることはできない。人々は”二つの夏”を過ごしていても、個人には大きな影響がない。”二つの夏”の大きな落差に耐えかねて異常な行動に出たという話も聞いたことがない。
でも、人は”夏の生活”についてだけ二つの交わらない世界を持っているというのだろうか?
”夏の生活”を”仕事””暇な時間””友人との時間”など日常の活動に置き換えても、人々は二つの問いに対して同じような”大きな差異”の法則を見出すことになる。日常生活全体が交わらない二つの世界から成っているとすれば、精神と大脳は完全に隔離されたままの状態に置かれる。
こうした隔離状態は、確かに空虚ではなく、第一に退廃文化(喪文化)の表れである。ネットには”無意味な生””希望喪失”などの顔文字が流行り、テレビドラマを見てもそうしした人間の表情が登場する。第二に”先延ばし病”だ。仕事の締め切りまでまだたっぷり時間はあるのに、手を付けようとせず、気楽で楽しいことばかりを追いかける。そして、やがてもうすぐ手に負えなくなる、あるいはもうすでに手に負えない段階になってようやく取り掛かる。この緊張状態をやり過ごすと、新たな任務を引き受け、また同じことを繰り返す。
退廃文化の本質は、個人の精神と大脳が長期にわたって隔離された状態のユーモアであり、交わることのない二つの世界を確認するだけで、何の変革も生み出さない。
一方、先延ばし病は、二つの交わらない世界を変えようとするが、そのやり方が焦って目先の利益を求めるだけなので、根本に触れることはない。
精神と大脳の距離を近づけ、二つの交わらない世界の差異を縮めるための根本は、両者の間に設けられた、長期に安定したワームホールなのだ。まさに冒頭で触れたように、理想的な夏の生活は大自然に親しむことであって、現実には難しい。それならば、ふだんから大自然を観察し、感受し、現実のやるせなさを補えばよいではないか。
”ふだんの観察と感受”こそ、交わることのない二つの夏の世界をつなぐワームホールである。この二つの世界に対し、ワームホールはこうしてわずかでも心が求めるままに振る舞うことができ、複雑な現実に振り回された時には、自分の心の中にある熱情を守ってくれる。
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彼女は両親が働いているため、ほとんど祖父に育てられた。その祖父が亡くなったショックで、一時、授業にも出られなくなったが、しっかり立ち直った。強さと、優しさをもって目を外に向けられるようなった成長がうれしい。「観察と感受」は、ネットの虚偽空間に慣れきった現代人にとって、貴重な警句である。彼女の言葉の一部は、授業でも紹介し、みなの共感を得た。
今日は学内の卒業記念コンサートで、ジブリの「天空の城」と「風たちぬ」が演奏される。知り合いの先生がせっかくだからと、私に貴重なチケットを一枚回してくれた。大人気でチケットの奪い合いになっている。
(続)
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--みんなの理想的な夏の生活はどんなもの?
私は二人の友だちに聞いてみる。
「山小屋の前に小川が流れていて、時々釣りをしたり、畑に入って食材を採ったり、一番いいのは料理の得意な人がいて、三食を一緒に作ること。寝たいときに寝て、目が覚めるまで寝ている。ふだんは部屋にいて音楽を聴き、本を読み、絵を描き、ギターを弾き、したいことをする。携帯もパソコンもなくて、一、二週間に一回は自転車に乗って海辺に行く」
「海の近く、必ず海の近くに住んで、それも竹で編んだ家で、一匹のネコかイヌだけがそばにいる。いつもは海辺でエビを採ったり、魚を捕まえたり、時には水上バイクで海の上を走る。寝たいときに寝て、目が覚めるまで寝ている。家には電気製品はなくて、自分で三食煮炊きをする」
--じゃあ、実際の夏の生活はどう?
「バイト、テレビ、エアコンで睡眠」
「いつもと同じ、エアコンの生活」
--夏を連想させるのはどんなもの?
「エアコン、スイカ、みんなの薄着」
「汗、スイカ、みんなの薄着」
私は彼女たちの答えに驚かない。なぜなら、夏の生活に対する理想と現実の差は、家庭環境によって決まるもので、自分の力ではどうにもならないから。ただ、三つ目の質問に対する答えには疑問が湧く。理想の夏の生活は大自然に接することだ。実際には手の届かないものであっても、それならどうしてふだんから大自然を観察し、感受し、現実のやるせなさを補おうとしないのか。
彼女たちは特別な事例ではない。多くの人は理想の夏と現実の夏を交わらない世界に置いて、前者は精神の中に、後者は大脳の中にあると思っている。二つの世界の間を行き来するワームホール (wormhole=時空をつなぐ虫食い穴)がなければ、差異は大きく、縮めることはできない。人々は”二つの夏”を過ごしていても、個人には大きな影響がない。”二つの夏”の大きな落差に耐えかねて異常な行動に出たという話も聞いたことがない。
でも、人は”夏の生活”についてだけ二つの交わらない世界を持っているというのだろうか?
”夏の生活”を”仕事””暇な時間””友人との時間”など日常の活動に置き換えても、人々は二つの問いに対して同じような”大きな差異”の法則を見出すことになる。日常生活全体が交わらない二つの世界から成っているとすれば、精神と大脳は完全に隔離されたままの状態に置かれる。
こうした隔離状態は、確かに空虚ではなく、第一に退廃文化(喪文化)の表れである。ネットには”無意味な生””希望喪失”などの顔文字が流行り、テレビドラマを見てもそうしした人間の表情が登場する。第二に”先延ばし病”だ。仕事の締め切りまでまだたっぷり時間はあるのに、手を付けようとせず、気楽で楽しいことばかりを追いかける。そして、やがてもうすぐ手に負えなくなる、あるいはもうすでに手に負えない段階になってようやく取り掛かる。この緊張状態をやり過ごすと、新たな任務を引き受け、また同じことを繰り返す。
退廃文化の本質は、個人の精神と大脳が長期にわたって隔離された状態のユーモアであり、交わることのない二つの世界を確認するだけで、何の変革も生み出さない。
一方、先延ばし病は、二つの交わらない世界を変えようとするが、そのやり方が焦って目先の利益を求めるだけなので、根本に触れることはない。
精神と大脳の距離を近づけ、二つの交わらない世界の差異を縮めるための根本は、両者の間に設けられた、長期に安定したワームホールなのだ。まさに冒頭で触れたように、理想的な夏の生活は大自然に親しむことであって、現実には難しい。それならば、ふだんから大自然を観察し、感受し、現実のやるせなさを補えばよいではないか。
”ふだんの観察と感受”こそ、交わることのない二つの夏の世界をつなぐワームホールである。この二つの世界に対し、ワームホールはこうしてわずかでも心が求めるままに振る舞うことができ、複雑な現実に振り回された時には、自分の心の中にある熱情を守ってくれる。
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彼女は両親が働いているため、ほとんど祖父に育てられた。その祖父が亡くなったショックで、一時、授業にも出られなくなったが、しっかり立ち直った。強さと、優しさをもって目を外に向けられるようなった成長がうれしい。「観察と感受」は、ネットの虚偽空間に慣れきった現代人にとって、貴重な警句である。彼女の言葉の一部は、授業でも紹介し、みなの共感を得た。
今日は学内の卒業記念コンサートで、ジブリの「天空の城」と「風たちぬ」が演奏される。知り合いの先生がせっかくだからと、私に貴重なチケットを一枚回してくれた。大人気でチケットの奪い合いになっている。
(続)
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