行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「記者の日」に「伝えた携帯世代へのメッセージ

2016-11-08 17:26:15 | 日記
本日11月8日は中国の記者節(記者の日)である。休日ではないが、習近平総書記は前日、人民大会堂でメディア関係者と面会するなど各地で関連行事が行われている。汕頭大学新聞学院でも講演会が行われ、そのほか大学メディアも関連報道を行っている。私も今朝、1年生記者2人の来訪を受けた。ジャーナリズムを学ぶ学生へのメッセージとして伝えたのは以下の点である。

中国語で携帯電話は手機と呼ばれる。携帯でも手機でも、簡便に持ち運びができて、小さな画面にあらゆるメディアを凝縮できるメリットがある。技術の進歩は我々にかつてない情報、言論、思考の空間を与えてくれたが、同時に危険な落とし穴があることにも留意しなければならない。

小さな画面にラジオからテレビ、新聞、映画まで、これまで人々が一歩一歩積み重ねてきたメディアの成果がすべて映し出される。もはやメディア間の差異も不明確となっている。だがその代わり、我々は多くの感覚、経験を手放したことにも気を払う必要がある。

ラジオの音に耳を澄まし、DJのため息までをも共有した感覚は失われた。

テレビが提供していた家族団らんの時間も空間も一気になくなり、家族の記憶を奪った。

一人で、あるいは親友、恋人と、息をひそめて見入った映画館のスクリーンは、小さな液晶画面に吸い込まれた。

新聞や書籍を手にした触感、インクのにおいも消え失せた。

ただの懐旧、ノスタルジーではないのかと若者は言うだろう。だが、あらゆるメディアが平面化すると同時に、人の感覚、感情までは立体感を失い、平板化、均質化しているのではないかと気がかりだ。ラジオになぜ親密度があるかと言えば、その技術の前身が肉声を交換する電話だったからだ。日本人は当初、ラジオを無線電話とまで呼んでいたことがある。

映像、画像が人に呼び起こす感動は、もとをたどれば壁画にまでたどりつくことを忘れてはいないか。複製技術の進化により、我々が目にしているもののほとんどがコピーであることを、人はいつの間にか気にしなくなった。博物館、美術館にある作品がすでに現場から切り離された別物に変質していることに、もはやなんの関心を払わなくなってしまった。時間、空間がもたらした限界の感覚を忘れ、仮想社会に飲み込まれているかのようだ。

本物を見つけ、本物を探す感動さえもがマヒし始めている。ガイドブックを手に風景の写真を確認するだけの〝複製旅行”になにも疑問を感じない。見るもの、聞くものが新鮮で、旅をすればそのまま旅行記が生まれほどのた感動が、我々人類の記憶には刻まれているはずである。

地下鉄の駅から待ち合わせのための伝言板が消えた。携帯は通信を簡便にしたが、待ち合わせの約束が持っていた感情の重さを奪ってしまった。1分の誤差が持っていた重みは、チャットの数文字によって失われた。コミュニケーションの簡便化は、関係を深めるのではなく、関係を薄めるていのではないか。顔を見ず、声を聞かなくとも、「既読」が代用してしまう社会が現に生まれている。

だが悲観はしていない。なぜかと言えば、失われたものを別の形で取り戻そうとする営みも起きているからだ。前日、授業で女子学生がネットの画面に文字を書き込む「弾幕」の文化について研究発表をした。感情を交換しようとする若者たちの知恵を感じた。仲間内だけでのグループチャットは、ますます個性化している。地味ながら読書会、映画鑑賞会も行われている。自分探しの旅に出る若者も増えている。

インタビューの最後、沈黙について触れた。

本を閉じれば時間が止まる。テレビのスイッチを切れば沈黙の時間が流れる。そして思考の時間と空間が目の前に現れる。携帯を引き出しにしまって、一人で歩いてみるのもいいのではないか。沈黙は言葉の尊さを見直す機会にもなる。沈黙を共有できるのが真の親友であることも、きっと知ることになるだろう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿