行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

忘れがたいラジオ番組「中島みゆきのオールナイトニッポン」での沈黙

2016-11-10 16:35:49 | 日記
授業や取材でメディアの歴史を振り返り、電話から発展したラジオに思い至ったとき、自然によみがえってきた記憶がある。

我々の世代は中学時代から、ラジオの歌謡番組に熱中した。電話や手紙で曲をリクエストをし、採用され名前が読み上げられると興奮したものだ。テレビでも歌謡番組は花盛りで、紅白歌合戦も視聴率が8割にも達していたが、音声だけのラジオには別の魅力があった。

大学受験の勉強をしながら、よく深夜放送を聞いた。週ごとにパーソナリティーが決まっているオールナイトニッポンが好きで、特に、何曜日たっだか、中島みゆきの番組は欠かさなかった。シリアスな歌詞とはギャップのある、軽快な語りが心地よかった。彼女の曲も好きで何枚もLPを持っていた。テレビ出演を拒否していることにも共感を覚えた。彼女の曲を聴いているときはいつも、観衆を目の前にしたコンサートのステージを想像した。ラジオを聞く自分もまた、そうした観衆の一人であるかのように感じた。

あるとき、中島みゆきがオールナイトニッポンの最中で突然、言葉を失った。沈黙の時間が流れた。私はラジオを見つめ、その奥で黙っている彼女の存在を感じた。語り手と利き手が一対一でつながっているという親近感と、おそらく多くのリスナーが同じように彼女の沈黙に耳を傾けている連帯感が入り混じった。時間が止まり、空間が凍り付いているようで、同じ時間と空間を共有していると言えるような不思議な感覚だった。

私は勉強の手を止め、次の言葉を待つ緊張感に息をひそめた。電波の雑音に乗せられ、運ばれてくる静寂が長く長く続いたように思うが、実際はわずかだったのかも知れない。沈黙を経た後、彼女はおおむね次のように言った。

「ごめんなさい。ちょっと落ち込んで、言葉が出なくなった。どうしたんだろう。でももう大丈夫」

演じているのではない。DJの仕事をしているのでもない。私は、ふだんのままの人間がラジオ局のスタジオに腰かけ、マイクに向かっている姿を想像し、新鮮さを覚えた。ふと気持ちがなえ、言葉を失い、一人で閉じこもりたいと思う瞬間がある。だれにでもある経験だ。彼女の番組は数多く聞いたはずだが、その他の内容は記憶になく、あの沈黙しか覚えていない。複製のない、一度きりのメディアだからこそあり得た経験だった。

コピー文化は人々の感覚を鈍らせ、記憶さえも奪ってしまうのではないかと思う。大海のごとくあふれる情報は、沈黙の空間を奪い、思考の逃げ道さえ封じてしまったかのようだ。だが人は賢くなっただろうか。かつての偉大な思想を超える価値を生み出したであろうか。人間が作り出した利益はふくらみ、それを得るための知恵と技術は格段に進歩している。

学生時代、ある夜、突然、一人旅がしたくなって家を抜け出し、上野から夜行列車に乗った。朝、東北の町に着き、地図も見ずに道の続く先を歩き始めた。昼過ぎになって気が付くと、海辺の細道だった。太平洋が目の前に開けていた。朝からだれとも口を聞いていないことが心地よかった。目の前の世界を自分一人で独占したかのような爽快な気持ちだった。携帯電話の時代であったらきっと、風景を写真に収め、友人に送っていたかもしれない。一回しかない、複製のできない状況だった。自分の体で記憶するしかない時間と空間だった。だからこそ鮮明に覚えている。波の白いしぶき、岸壁にしがみつく松の木までが目に浮かぶ。

夜になって足元が暗くなり、小さな漁村にたどりついた。手持ちの現金は乏しかったが、長い時間、人ともすれ違わず、言葉も発していなかったからか、人恋しさのあまりある民宿を訪ねた。どんな経緯で泊まることができたのか、記憶をたどることができない。ただとれたてのイカの刺身がやけにおいしかったのだけは、鮮明に覚えている。

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