昨晩、中野駅の北口で飲んでいた。二次会だったのだいぶ遅かった。路地に面した居酒屋の席にいると、突然、人だかりが通り過ぎていった。テレビカメラが先頭を歩き、映していたのがお笑いタレント、ダウンタウンの2人だった。店内から身を乗り出して、「わーっ」と声を上げる客はいたが、通り過ぎると何事もなかったかのように元に戻った。私は外国人になったような視線をもって、驚きの言葉を吐いた。
「混乱が起きないのはさすがに秩序を重んじる日本人だね。中国だったらみんなが携帯を持って追いかけまわし、けが人の一人や二人出てもおかしくないよ。こういうのを民度というのかなぁ」
私の頭の中には、東日本大震災の際、日本に住む外国人記者たちがそろって、感情を押し殺し、ルールを乱さず、相手に迷惑をかけないよう振る舞う被災者をたたえる記事を送っていたことが思い浮かんでいた。外国人には、秩序正しく列を作って順番に配給物資を受け取り、店主のいないスーパーが全く荒らされない光景が印象的だったのだ。
すると間もなく、テレビ局のスタッフが私たちのテーブルに来て、「これからカメラが移動してきて映る可能性がありますが、よろしいでしょうか」と了解を求めてきた。もちろん断る理由もないのでOKしたが、もし外国人だったらどう感じるのかという考えが頭をよぎった。日本人の私でさえ、「そこまでするのか?」と驚いたのだ。以前、もう10年以上前になるが、六本木に開店した有名レストランで席待ちの列に加わっていて、テレビカメラに無断で撮影されたことがあった。列の1人が店のスタッフに「私たちを見世物のように並ばせて、許可なく撮影するのはけしからん」と抗議したことを思い出した。大きく変わったものだと感心せずにはおられない。
だが、やり過ぎではないかとも思う。熊本の震災では傍若無人なテレビ局の中継に被災者が抗議するニュースがネットで報じられていた。緊急時になってルールが取っ払われると、報道倫理の本性が現れる。気を使うべき時と場所がずれているように思った。それはそのままメディアの責任、倫理に対する感覚のずれである。我々に了解を求めてきたのも、心から個人の肖像権や妨げられず時間を享受する権利に気づかったというよりも、社内のマニュアルに従っただけではないのかと勘繰りたくなった。少しへそ曲がりに過ぎるだろうか。
街頭で通行人を撮影し、それが放映され当事者からクレームがきたとする。たとえば、「会社に内緒で出て来たのに、それがバレて左遷されそうだ」ということもあるかも知れないい。愛人と一緒にいる証拠映像となり、離婚を迫られる可能性もあるだろう。たいていは知らせたくない人物に知られてしまったことの不利益ということになるのだろうが、こうした場合、そもそも悪いのはだれなのか。報道がその結果についてそこまで責任を考慮しなければならないとしたら、自己規制は無制限に広がっていくのではないか。
実際、過去には公共スペースでの映像で訴訟に発展した前例がある。メディアの法務部門や顧問弁護士の意見は決まっている。彼らも法的リスクの責任を負いたくないがために、最も高いハードルを設定する。それが現場の過剰な配慮につながっていることは、容易に想像できる。一方で即時性が求められるネットでは、たちどころに見たままの映像、画像が配信されている。昨晩も携帯で写したダウンタウンの画像が出回ってもおかしくない。秩序正しい日本を喜ぶべきなのか、管理が徹底し、自己規制にがんじがらめになっているメディアの現状を憂えるべきなのか。
1次会で帰ってしまった中国の友人に聞いたらきっとこう答えるに違いない。
「私もダウンタウン見たかったのに・・・」
「混乱が起きないのはさすがに秩序を重んじる日本人だね。中国だったらみんなが携帯を持って追いかけまわし、けが人の一人や二人出てもおかしくないよ。こういうのを民度というのかなぁ」
私の頭の中には、東日本大震災の際、日本に住む外国人記者たちがそろって、感情を押し殺し、ルールを乱さず、相手に迷惑をかけないよう振る舞う被災者をたたえる記事を送っていたことが思い浮かんでいた。外国人には、秩序正しく列を作って順番に配給物資を受け取り、店主のいないスーパーが全く荒らされない光景が印象的だったのだ。
すると間もなく、テレビ局のスタッフが私たちのテーブルに来て、「これからカメラが移動してきて映る可能性がありますが、よろしいでしょうか」と了解を求めてきた。もちろん断る理由もないのでOKしたが、もし外国人だったらどう感じるのかという考えが頭をよぎった。日本人の私でさえ、「そこまでするのか?」と驚いたのだ。以前、もう10年以上前になるが、六本木に開店した有名レストランで席待ちの列に加わっていて、テレビカメラに無断で撮影されたことがあった。列の1人が店のスタッフに「私たちを見世物のように並ばせて、許可なく撮影するのはけしからん」と抗議したことを思い出した。大きく変わったものだと感心せずにはおられない。
だが、やり過ぎではないかとも思う。熊本の震災では傍若無人なテレビ局の中継に被災者が抗議するニュースがネットで報じられていた。緊急時になってルールが取っ払われると、報道倫理の本性が現れる。気を使うべき時と場所がずれているように思った。それはそのままメディアの責任、倫理に対する感覚のずれである。我々に了解を求めてきたのも、心から個人の肖像権や妨げられず時間を享受する権利に気づかったというよりも、社内のマニュアルに従っただけではないのかと勘繰りたくなった。少しへそ曲がりに過ぎるだろうか。
街頭で通行人を撮影し、それが放映され当事者からクレームがきたとする。たとえば、「会社に内緒で出て来たのに、それがバレて左遷されそうだ」ということもあるかも知れないい。愛人と一緒にいる証拠映像となり、離婚を迫られる可能性もあるだろう。たいていは知らせたくない人物に知られてしまったことの不利益ということになるのだろうが、こうした場合、そもそも悪いのはだれなのか。報道がその結果についてそこまで責任を考慮しなければならないとしたら、自己規制は無制限に広がっていくのではないか。
実際、過去には公共スペースでの映像で訴訟に発展した前例がある。メディアの法務部門や顧問弁護士の意見は決まっている。彼らも法的リスクの責任を負いたくないがために、最も高いハードルを設定する。それが現場の過剰な配慮につながっていることは、容易に想像できる。一方で即時性が求められるネットでは、たちどころに見たままの映像、画像が配信されている。昨晩も携帯で写したダウンタウンの画像が出回ってもおかしくない。秩序正しい日本を喜ぶべきなのか、管理が徹底し、自己規制にがんじがらめになっているメディアの現状を憂えるべきなのか。
1次会で帰ってしまった中国の友人に聞いたらきっとこう答えるに違いない。
「私もダウンタウン見たかったのに・・・」
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