交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

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教育の自由化 2/3

2012-01-07 23:40:00 | 教育

http://www.systemicsarchive.com/ja/b/education.html

 

自由 

文部省は、ゆとりができれば、

子供たちは自主的にゆとりを有効活用すると思っていたようだが、

実際にはテレビゲームに熱中したり、

携帯電話で用もなく友達とおしゃべりをしたりして暇を持て余し、

自分の将来を真剣に考えた時間の過ごし方をしていない

旧来の教育システムを改革する必要があることは確かだが、

文部省や教育評論家たちは、問題の所在がわかっていないから、

彼らが教育システムをいじればいじるほど、

ますます日本の教育は堕落していく。

 

国家 

明治以来、日本の教育システムは優秀な人材を育ててきたし、

資源に乏しい我が国が製造業の分野で成功しえたのは、

そうした優秀な人材のおかげだ。

日本の初等教育や中等教育は、アメリカのそれよりも世界的評価が高い

日本の教育評論家の中には、

個性重視・自由尊重のアメリカ流の教育方法を理想として

教育改革を提案している人が多いが、

どうして教育が最も荒廃している国をモデルとして見習わなければならないのか

 

国家 

日本には和の伝統があって、

個人が組織から浮き上がることは許されない。

民族の特性を考えれば、

日本人は、チームワークを生かした物作りに向いている

だからこれからも協調性に重きを置いた教育を行うべきだ

 

自由 

民族の特性を先入見に基づいて固定してはいけない。

アニメの宮崎駿、

ゲームソフトの飯野賢治、

映画の北野武、

音楽の坂本龍一など、

非製造業分野でも世界的な評価を受けるような独創的な仕事をしているこうした天才的個人は、

日本人がいるではないか。

娯楽産業が比較的自由な分野だから

日本からも輩出されるわけだが、

出る杭を打つ現在のシステムを改めれば、

更に幅広い分野から現れるはずだ。

情報革命の今、

政府主導の画一的な公教育の廃止を考える時期にきていると私は思う

 

社会 

文部省も中央教育審議会も、

「教育の多様化」や「個性の尊重」などのスローガンを掲げて

何回となく教育改革を手がけてきた。

教育の多様化や個性の尊重のために公教育を廃止しろ

という議論には飛躍がある。

公教育のどこに問題があるというのか。

 

自由 

公教育は、医療と同様、補助金と許認可で守られた保護産業だ。

保護産業の弊害を取り除くためには、

教育機能と評価機能という二つの機能を分離する必要がある。

ここで謂う所の評価機能とは、

資格試験の資格やコンテストの賞が持っているような、

個人が一定の能力を持っていることを保障する機能で、

普遍的な、

つまり超組織的な妥当性があれば、

就職や昇進などにおいて人選のコストを削減する。

これまで日本の社会で、

評価機能として最も重視されてきたのが、学歴である。

学歴を決定する入学試験や単位の認定や学位の授与は、

資格試験やコンテストと同様に評価機能を持つが、

教育機能との抱き合わせであるから機能が純粋ではない。

教育機関が行う試験には、

英検のような学歴を前提としない資格試験と比較すると、

1.資格試験の場合、特定の学校に通う必要はない。
  実力さえあればそれでよい。

  ところが学歴の場合、本来独学で成果を出せる人の方が

  他人から教わらなければ成果を出せない人より

  優秀であるにもかかわらず、前者の能力はまったく評価されない

2. 学歴社会のもとでは、

  現在の職業を放棄して大学に通うことは困難だから、

  18歳の勝負で人生が決まり、敗者復活が認められないが、

  資格試験は、受験者の年齢を問題としないので、生涯学習を促進する。

3. 学歴が保証する能力は漠然としすぎている。

  これまで日本の銀行は、

  偏差値50の大学の経済学部卒業生よりも偏差値60の大学の

  文学部卒業生を採用してきた。

  経済学部でも文学部でも入学試験の中身はほとんど同じで、

  銀行が期待するのは専門的知識ではなくて、

  潜在的な能力だからである。

  ところが雇用形態が、

  ジェネラリストの終身雇用からスペシャリストのアウトソーシングへと

  変化して行くと、

  特殊な才能を保証する評価機能が求められるようになる。

 

4. 入学試験の難易度は年度ごとに変動する。

  仮に大学審議会が提案するように、

  単位認定や学位授与を厳しくして、

  卒業に評価機能を持たせたとしても、

  教授の講義は個人色が強く、

  教授ごと大学ごとに評価基準がまちまちであるから、

  学位の価値にばらつきが出てしまう。

  出身大学による人物判定は、資格試験のような普遍性がないし、

  学閥という形で業績原理が帰属原理に転化することによって、

  経済の活性化を阻害する危険がある。   などの問題点がある。


社会 

入学試験であれ、資格試験であれ、

一回のペーパーテストで人間の評価が決められるのはおかしい。

平成5年に文部省が通知を出して以来、

内申書に業者テストの結果が盛り込まれないようになり、

公立高校でも推薦入学が実施され、

一般入試では、その内申点と学力試験の得点が、

一対一の比率で評価されようになった。

入学試験だけで合否を決めるのではなく、

生徒の学習態度や学習意欲をも評価する推薦制度が取り入れたことは

評価できる。

学力だけでなく、人格をも評価しようとすれば、

生徒と長期間にわたって接触している教師が、

教育者としての役割だけでなく、評価者としての役割をも担う必要がある。

 

自由 

これまで日本の教育システムは優秀な人材を育ててきたが、

その「優秀さ」には「工業社会での」という限定が必要だ。

日本の学校教育が理想とする秀才の条件と

良いコンピュータの条件は奇妙に一致する。即ち、

  1. 記憶録容量が大きくて、
  2. 情報処理速度が速く、
  3. バグ(ミス)が少ない

人間が、

  1. あらかじめ出題範囲が指定された、つまり覚えれば良いだけの、
  2. 制限時間のある、
  3. 満点以上を期待しない減点方式のテストで

 

知的エリートとして選ばれる。

また日本の道徳教育および体育教育は、

命令されたとおりに従順に動くロボット型の人間を作ってきた

だから日本の知徳体の教育は、

優秀なコンピュータ代用物と優秀なロボット代用物を量産することによって

工業社会に貢献してきた。

ところが70年代以降、

産業用ロボットの導入によるオートメーション化とパソコン導入による

事務作業の軽減化が進み、

人間にはロボットやコンピュータにはできないような複雑系の仕事が

求められるようになった。

その結果労働市場では従来型秀才の価値が大幅に下落してしまった

 

これまで工業社会では、企業は画一的商品を大量生産してきたし、

学校は画一的労働商品を大量生産してきた。

複製にコストがかかる時、

このコストを下げる労働はそれなりの付加価値を持つ。

日本企業は、これまで欧米から基本的なアイデアを輸入し、

欧米と同じ物を、より効率的に、つまりより安く、

そしてより精確に模造複製することによって

世界市場での競争力を付けてきた。

ところが、情報産業の生産物の場合、

コンピュータソフトやインターネットコンテンツを例に取ればわかるように、

複製や流通にはほとんどコストがかからないので、

オリジナルを作成した者のみが利益を独占する。

横並びで他者の物まねをやっている者は淘汰される。

 



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