不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

帯方郡の比定地は韓国の仁川である

2015-05-11 17:48:40 | 邪馬壹国

2015年5月11日(月)

邪馬壹国(邪馬台国)の帯方郡とは韓国の仁川(インチョン)である。

仁川から乗り込んだ人達は、現在のソウルから対馬・壱岐を経由して呼子(佐賀県)へと到着して下船します。

それから、吉 岡 津へとわざわざ陸路を行かされ、福津から船に乗せられて関門海峡を南下して宇佐八幡の神様にお参りして、中国山脈を南行して20日で着く港が山の大門です。 

そこからさらに中国山脈を東へ南行して着く最終港が西宮です。その西宮の北に甲山という目印になる綺麗な山があり、その東の裾野に仁川という町があります。

町の名前をよくぞ現在まで守っていただきました。 先人達に深々と感謝するばかりです。

仁川から仁川へと来られたんですね

そしてそれから女王卑弥呼さまが居られる聖地である栗(神崎郡神河町)までの陸路一か月のルートは、仁川を出発して、宝塚 三田 篠山 春日を通って知山。そこから西へと行って粟鹿から南下して生野、神河へと大黒様や恵比須様たち福の神御一行様がやって来られましたとさ。・・というお話です。

どうして確信もってそれが言えるかと申しますと、昨年私は、5月4日に中国の千山の山に登りましたが、遠くに人工的な三角の山を観ることができ、そこからコンパスグラスでその角度を記録していました。

そしてそれから丁度1年経った今年5日は、対馬で巨大な方位石である立亀岩を教えられまして、その亀岩が教えているのは、千山と呼子を結ぶラインでした。

・・・それで、韓国を通るそのライン上に必ず帯方郡が位置しているだろうと推測し、検討を付けた場所に関西の方ならご存知の仁川という同じ二文字が目に入りました。

そしてグーグルの3Dのストリートビューで映し出される山の風景を見ると、まさに人工的な三角の山が見えました。

対馬でも人工的な三角の山がたくさんありましたが、千山から対馬・呼子の方角に韓国でも同じように一直線に並んでいることでしょう。

私は一度も韓国に行ったことがありませんが、

ひょっとして仁川(インチョル)のあたりにも、西宮の甲山と同じような形の綺麗な目印の山があるのではと推測します。

誰か、韓国の仁川(インチョル)に詳しい方が居られましたら、情報をください。 

  よろしくお願いいたします! 間違いなく何か目印になるものが「ある!」と信じています。

もうそろそろ邪馬台国論争に終止符が打たれる時が来たようです。

神河町にある卑弥呼さんのお墓の立証を一日も早くしなければ大変なことになります。 大変なことに・・。

(奈良の箸墓古墳は卑弥呼さんと5歳違いの妹である倭姫様のお墓でしたね)

   

 

 

 

 今、卑弥呼さまが全てを教えてくれます。

 

 この世とあの世を繋ぐゼロ磁場発生装置テラファイト卑弥呼を作ってから、一気に隠された真実を教えられているようです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シャモ しゃも 軍鶏 

2015-03-24 15:20:46 | かごめかごめの真実とは

2015年3月24日(火)

アイヌの人達は、和人をシャモと呼んだのを御存知ですかと、スタップサロンに来てくれたSさんが教えてくれました

和人(わじん)は、アイヌの立場から見た、アイヌ以外の日本人、または大和民族を指す名称である。(ウィキペディアより

・・・

「そうかぁ・・、もともとこの日本に居たアイヌの人達が大和民族をシャモと言っていたんだぁ!」と私は嬉しく思いました。

私が言うところの魏志倭人伝に書かれた四文字「邪馬壹国」は、「シャモイッコクと読みます」と、天の神様から教えてもらいました。

この四文字「邪馬壹国」を昨年5月に中国千山に行った時に中国の知人に読んでもらったら、「シャモイーグァ」と言いましたね。

確かに「シャモ」と発音しました。

丹後半島の西に位置する京丹後に竹野神社(たかのじんじゃ)がありますが、ここの神社は我が国の本当の歴史を教えています。

拝殿の上に鶏、最初見たときには「変なのぉ!?」と思いましたが、その意味が一年後に分かったときには、それはそれは驚きでした。

この拝殿の右手にある斎宮殿の扉にはブドウを彫ってありますが、これはユダヤの北の王家であるエフライムのシンボルです。

そしての中央にはキツネですが、これは北のエフライム王の流れを受け継ぐイエス・キリストを表しています。

そしてそして・・、その斎宮殿にはもう一つ、腰にひょうたんをぶら下げた仙人が彫られていますが、その仙人が息を吹いた先にもう一人仙人が彫られています。

これは、モーセが二回この倭国建設を行ったことを教えています。

この我が国の礎を、

 モーセが造りましたよ! 

       エフライム王家が造りましたよ! 

     イエス・キリストが造りましたよ! 

                                      と教えてくれていますよぉ!!

 

 

   

(矢野典男さん写真提供)

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卑弥呼 世界に行くわよ!

2015-02-17 17:52:37 | ゼロ磁場発生装置テラファイト

 

スタップサロン鍼灸院(テラファイト研究室)には、イワクラ学会の武部さんが創作してくれた「婀月山(あづきやま)」のオブジェがありますが、毎日私は、卑弥呼さんを意識しない日はありません。 

そのオブジェにテラファイトの新モデル「テラファイト卑弥呼」を3Dプリンタで試作して写真を撮ってみました。

本来ならもうとっくにご注文頂きました皆様の手元で可愛がってもらっているはずでしたが、私のいたらなさで遅れに遅れて、やっとこの月末には皆様の手元にお届けすることができる予定です。 ・・・と、言いますのも

「どのような経緯でテラファイト卑弥呼が誕生して、何の目的で世界中に広めるのかの理由をしっかりと皆さんに伝えていますか」と、卑弥呼さんが言ってるようで、そのことを私がキッチリと書かない間は、「私は世に出ません!」と卑弥呼さんの声がどこからか聞こえたように思う私です。

・・・ですから、真剣にここに書き記さなければなりません。

まず・・、「どうしてテラファイトを世に広めるか」ですが、

今、現代社会は非常に病んでいます。 資本主義経済の中で、宗教を全面に立てて、富める人達の価値観でそれを強引に推し進めてきた歴史認識は今も変わるどころか、見えないところで強引にそれを成就させようとしています。 富めるものとそうでないものの格差が拡大しています。

ですから人々の脳が無意識の内に悲鳴を上げるように、イライラしたベータ波状態に変調をきたしています。

本来は、この地球を取り囲むシューマン波と共振(レゾナンス)することで人らしくおおらかに生きれるスローアルファ(スローα波)状態が好ましいのですが、現代の私達の脳波は、目を覚ました状態から一気にβ波状態です。 

結果どのようことが身体に起こるかですが、身体の重心が前後左右どちらかにずれてしまい、そのような状態では血液の流れもスムースとは到底言い難い状態を作ります。  イライラした脳波があらゆる病気や事故など不幸事も引き寄せてしまうことになります。 このような状態が集団化した時、巨大化したとき戦争も起こるのでしょう。

テラファイトは、瞬時にして人々のイライラしたベータ波状態の脳波を、リラックスしたスローα波に変えます。 瞬時にです。これは大変喜ばしいことです。

世界中にテラファイト卑弥呼を広める理由はここにあります。 みんなが穏やかで、助け合う心をもって手をつなぐことで、この地球上から戦争をなくすのです。

「私が何を成したかを世界中の人達に伝えてください!」と、1800年の眠りから目覚めた卑弥呼さんが、私に言うようにと数人の人達に伝言して消えたと言われます。

その卑弥呼さんの御霊が生まれ出たのは、2012年6月14日(木)のことでした。

お墓の地底探査の作業を行うにあたって、お墓の後円部の中心で、真剣に祈りをささげた私でした。 その後、同行したスピリチャルなカメラマンのSさんが、

オオ~~~ッ、吹き上がっています吹き上がっています!」と突然言われるので、

何が吹き上がっているんですか」と聞く私に、

女性性が吹き上がってます!」とSさんは、それはそれは仰天して大きな声を上げていました。

そして、それから作業が終わり、夕方には下山した私達でしたが、またまたSさんが突然、

上森さん、見られましたか!?」と言われるので、

何が・・です? 何も見えませんでしたが・・」と訝る私に、

山から人がついてきたんですよ」と言われるので、

男性でしたか!?」と私が言うと、

女性でした」と。  ・・それで、

どのよう様な恰好をしていましたか」と問う私に、

上から下まで白いドレスみたいな着物に紫の衣を羽織った気品のある女性でした。そして上森さんの前に行ったり、後ろに行ったりと、づっと山からついてきました」と。

そしてそれから二日後の16日(土)に大阪ドーンセンターで講演会をしたその場所に、「卑弥呼が現れた!」「卑弥呼が・・!」と、異様な空気に包まれた講演会でした。 その時、スピリチャルカメラマンのSさんも来場されていましたが、その時も又、Sさんは卑弥呼の姿を見たと言われ、他にも二人の方から、「私が何を成したかを世界中の人達に伝えてください!」と、私に伝えるように言って消えたと言うことでした。

・・・

 今私は、鍼治療とテラファイトを取り得れたスタップサロン鍼灸院を開業していますが、院長の田中先生の施術を受けられた方々が口ぐちに、「紫の光を見ました」と言われる方々が沢山居られて、そして施術を終わられた方々がくつろがれるテーブルの場所に、私が穴掘りをさせられ、鶴であり亀であるモニュメントのところに映し出された不思議な光の滝の写真を飾っているのですが、 その光の紫とがあまりにもイメージ的に重なってしまって、テラファイトの新モデルの色調を、白と紫に決めました。 そして・・、それまでいろいろな名前が登場しましたが、 「テラファイト卑弥呼」 と命名しました。

卑弥呼さんはこの我国で、紀元前920年代に北と南に分裂したユダヤの民の歴史を又、この我国で、北の王家の流れを組む人達と南の王家の流れを組む人達の勢力とが、真っ二つにいがみ合う状態になり、「私も年ですし・・」と、自ら身を引くことで、この我国を二分する戦いから自分の命と引き換えにこの世を去りました。

私が何を成したかを世界中の人達に伝えてください!」という所以がここにあります。

・・・

卑弥呼 世界に行くわよ!と 卑弥呼さんの声が聞こえてきました。

そして・・・、アメリカから早や1個の注文が入ってきました。

・・・と、いうことで、今、世界中で今までの歴史にない激烈な宗教感、価値観の違いからくる不安定な世界情勢の暗雲を鎮めるために、卑弥呼さんが今の時代になって登場されたようです。

 夜明けの晩に 鶴と亀が統った! と、「かごめかごめの唄」は歌っていますが、

 夜明け前のように、一番暗い真っ暗闇に世界中がなったその時、 鶴 と 亀 を統合しなさい!

と教えていました。

            いよいよ卑弥呼さんの登場の時のようです。

 

 

「卑弥呼さんの墓を開いて立証することが世界平和の扉を開ける第一歩」と言いましたが、

その卑弥呼とは魏志倭人伝に記載された248年に自ら入定した女王卑弥呼のことです。

場所は兵庫県神崎郡神河町大山です。

 134、766  35、10   (東経134度46分 北緯35度6分34秒) あたりです。

陵墓は朝日輝き夕日が照らす標高779mの地点にあります。

 

 

 

魏志倭人伝に書かれている248年に亡くなった「女王卑弥呼の墓の立証」こそが世界平和への扉を開く第一歩です。

山には名前もありませんでしたので、「婀月山(あづきやま)」と私が命名しました。

また私は、卑弥呼という呼び方には尊敬すべく人を呼び捨てしているように感じてしまうので、親しみを込めて「卑弥呼おばさん」と呼ぶことにしていますが、卑弥呼おばさんの幼少の頃は、「“あづき”と呼ばれていました」と、卑弥呼おばさんに教えられましたので、、「婀月山(あづきやま)」と命名しました。

自ずから月の世界へと旅立った女王様でもあり、女偏に始まりの阿で、婀はたおやかであり、朝日、夕日にと一日中神河町に悠然とその姿で見守ってくれています。

彼女のお墓の立証こそが、新たなステージの始まりでもある「阿」の意味であり、「婀」です。

お墓の地底探査を第一回目を2012年6月14日に行い、2回目を2012年7月9日に行いましたが、明らかに人工的であり、非鉄金属反応も捕えました

お墓の調査記録もまとめていますので参照ください

  

女王卑弥呼の墓は、九州説や大和説などたくさんありますが、魏志倭人伝に記載された内容全てにおいて合致するのは、神河町の婀月山だけです。

また、このことを立証すべく山を使って巨大な地上絵群がこの地域にあり、特に一対のメノラーの地上絵と亀壺はこれを十二分に証明補完するものです

にわかに信じがたいことでしょうが、今から2000年ほど前に世界に先駆けて、モーセの律法を第一とする理想的平和国家の建設に命を捧げた人達がいます。

その賢者の中に特に秀でた大国主命が居ました。そしてその大国主命が実はイエス・キリストであり神武天皇でした。

ここは長くなりますので、別紙参照ください。

(別紙  大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その1   保存その2  保存その3  保存その4  保存その5  保存その6  保存その7

 

『日本の国内に アブラハムの父テラの墓、アブラハムの墓、モーゼの墓、イエス・キリストの墓がある』

 

『日本の国内に アブラハムの父テラの墓、アブラハムの墓、モーゼの墓、イエス・キリストの墓がある』

世界中の人々に この事実を知らしめることは、これまで教えられてきた歴史、宗教観が大きく覆されることになり、世界を混乱状態に陥らせている宗教戦争も止むことになるでしょう。

 

 脳をリラックスさせるスローα波に変えシューマン共鳴を起こすことのできるテラファイトを作らされてから、実に不思議な出来事が次々に身の上に起こった私が、空海様の神霊に導かれて、これらの墓を発見することになりました。

私が特定した墓は、先ず兵庫県神崎郡神河町にある女王卑弥呼の墓を立証することで順次あかされていくことと思われます。

魏志倭人伝に記載された内容全てにおいて合致するのは、九州説でもなく、大和説でもなく、この墓のみです。

このことを裏づけるべく山を使っての巨大な地上絵群がこの地域にあり、特に一対の巨大なメノラーの地上絵と亀壺は圧巻です。

信じ難いことと思われるでしょうが、今から2000年ほど前に、世界に先駆けてモーゼの律法に基づいて、理想的平和国家の建設に心血を注いだ賢者たちがおり、その中で中心的存在となっていたのが大国主命です。その大国主命こそが実は、イエス・キリストであり、神武天皇でした。

我が国は イエスの下で大いに平和的に国造りが行われましたが、イエスの死後70~80年ほど リーダー争いで戦場と化しました。 

それがいわゆる倭国大乱です。

イエスと共に国造りに励んだ人々は、この哀れな惨状にこの国を後にして大陸へと帰って行きましたが、その後、この国に残った知恵ある賢者たちは再び平和国家を夢見て、イエスの直系である姫御子を女王として共立して、平和国家建設が再度行われました。 

それが女王卑弥呼です。

卑弥呼の当初の主だった勤めは、モーゼやイエスの墓守だったようです。

首都纏向(奈良県)が政体を掌り、国体を司る卑弥呼が居住した聖地は、播磨国風土記で表記される埴岡の里、現在の神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがる地域で、居城は神河町の「栗」という所でした。

生野には鶴と亀の巨大な地上絵が造られており、そこには地下神殿があります。

当時、地下神殿にはモーゼとイエスが祀られており、卑弥呼はそれを守っていました。

いつの頃からか日本で歌い継がれている童謡「かごめかごめ」と「とおりゃんせ」の唄の歌詞は、ヘブライ語で意味のあるものとなっています。

また、イスラエル国歌で歌われている「シオン」とは、正しくこの生野の地下神殿のことです。

イスラエルの民が2000年も切望している聖地シオンを証明することが世界平和に繋がることは間違いありません。

その為に一刻も早く卑弥呼の墓が立証される必要に迫られています。

卑弥呼の墓はすでに2回、ドイツ製の探査レーダーで地底探査を行いましたが、非鉄金属の反応も捉えられ、ただの自然の山でなく、人工的であることが分かっています。

ヘリコプターで重機を山頂に運んで掘削作業を行えば、実質一週間もあれば墓を開けることができます。

 世界平和への第一歩はここから始まります。

        イスラエル国歌

                浦島太郎とかごめかごめ

 

邪馬壹国 保存その1

邪馬壹国 保存その2

邪馬壹国 保存その3

 

女王卑弥呼の墓 保存その1

女王卑弥呼の墓 保存その2

どうして「あづきちゃん」は神河町の栗に連れて来られたのでしょう。

その謎を解く鍵が、イエス・キリストの生命の樹(カバラ)にあります。 

  

そして、女王卑弥呼への朝見ルートも又、生命の樹のセンターラインを意識しています。

イエス・キリストがカバラの王冠にあたる場所のポイントに八幡山という場所を設定していますが、八幡山は人工的山であり、カバラのセンターラインを引き通し教える山も、八幡山山頂より数百メートル離れた場所に造営されています。

 

石室に入ると、そこには男女の遺体が布団をかぶって眠るように並んでいることでしょう。 

向かって右側に男性、左に卑弥呼。そして離れた場所に男性の遺体がもう一体。

石室の中には合計3人のご遺体があります。 

そしてそこにはもう一セット作られていた天皇家の3種の神器もあることでしょう。

      

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見えなくなった画像を修復しました

2015-02-12 20:42:33 | かごめかごめの真実とは

 2015年2月12日(木)

完全ではありませんが、見えなくなってしまった保存版の画像を修復しました。

大変な時間をついやしました。

 

邪馬壹国 保存その1

邪馬壹国 保存その2

邪馬壹国 保存その3

 

女王卑弥呼の墓 保存その1

女王卑弥呼の墓 保存その2

 魏志倭人伝に記載された、20日かかって着く港、福山市大門で現れた 鶴と亀 の 写真です。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「女王卑弥呼の墓の立証」こそが世界平和への扉を開く第一歩です

2015-02-07 17:17:14 | かごめかごめの真実とは

2015年2月7日(土)

5日の東京での打ち合わせには、もう一つの案件がありました。

場所は品川駅。

「お金を出してもよいという人が見つかりました。あなたのロマンに大金を出すといわれる方が・・」

私  :「秘宝などが出てきても、それは国のもの、国民の皆さんのものと思っていますから、出てきたものに権利を主張されるようでしたらそれは無理でしょうね」

X氏 :「権利の主張ではなく、どうしてそれが世界平和にとって重要なのかを書類にまとめてほしいのです」

私  :「二冊の本とブログの内容で十分ではないですか」

X氏 :「簡単にまとめてほしいのです」

私  :「簡単にまとめて、分かりますぅ? 膨大な情報を・・」

X氏 :「相手も大金を出すからには、それなりの企画書なりを提出していただかないと・・。私たちも真剣に応援しているんですから・・」

・・・という、本当に怒られんばかりの議論でしたが、簡単にまとめるとしたら・・・

・・・

魏志倭人伝に書かれている248年に亡くなった「女王卑弥呼の墓の立証」こそが世界平和への扉を開く第一歩です。

その女王卑弥呼の墓は、兵庫県神崎郡神河町大山にある標高779mの山頂にあります。 山には名前もありませんでしたので、「婀月山(あづきやま)」と私が命名しました。

また私は、卑弥呼という呼び方には尊敬すべく人を呼び捨てしているように感じてしまうので、親しみを込めて「卑弥呼おばさん」と呼ぶことにしていますが、卑弥呼おばさんの幼少の頃は、「“あづき”と呼ばれていました」と、卑弥呼おばさんに教えられましたので、、「婀月山(あづきやま)」と命名しました。

自ずから月の世界へと旅立った女王様でもあり、女偏に始まりの阿で、婀はたおやかであり、朝日、夕日にと一日中神河町に悠然とその姿で見守ってくれています。

彼女のお墓の立証こそが、新たなステージの始まりでもある「阿」の意味であり、「婀」です。

お墓の地底探査を第一回目を2012年6月14日に行い、2回目を2012年7月9日に行いましたが、明らかに人工的であり、非鉄金属反応も捕えました

お墓の調査記録もまとめていますので参照ください

  

女王卑弥呼の墓は、九州説や大和説などたくさんありますが、魏志倭人伝に記載された内容全てにおいて合致するのは、神河町の婀月山だけです。

また、このことを立証すべく山を使って巨大な地上絵群がこの地域にあり、特に一対のメノラーの地上絵と亀壺はこれを十二分に証明補完するものです

にわかに信じがたいことでしょうが、今から2000年ほど前に世界に先駆けて、モーセの律法を第一とする理想的平和国家の建設に命を捧げた人達がいます。

その賢者の中に特に秀でた大国主命が居ました。そしてその大国主命が実はイエス・キリストであり神武天皇でした。

ここは長くなりますので、別紙参照ください。  

 (別紙  大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その1     保存その2  保存その3  保存その4  保存その5  保存その6  保存その7

                                                      

我が倭国は、イエス・キリストの下で、大いに平和的に国造りが行われましたが、イエスがこの世を去ると我国は、7,80年ほどリーダー争いで戦場に変わります。いわゆる倭国大乱です。

イエスと共に国造りに励んだ人達は、この哀れな惨状にこの国を後にして大陸へと帰って行きました。

そして・・、もう一度平和国家を夢見た賢者達の知恵ある思いから、イエス・キリストの直系である姫御子である“あづき”ちゃんが女王として共立され、再び平和国家建設にまい進しました。 

あづきちゃんは、生野の谷を泣きながら通って、栗の里へと連れて来られようです。

あづきちゃんは、モーセやイエス様の墓守が主たる勤めだったようです。 

   ・・

多民族小国家群の平和的統一を、大国主命=イエス・キリストを初代大王として、モーセの律法を第一とする理想的平和国家を創ろうと国内外から賢者達が結集し、国造りの創案をした学び舎の地が「馬の山」(現在の鳥取県倉吉市の東郷池周辺)でした。

私は、魏志倭人伝に記載されている「邪馬壹国」の情報をもとに境界国をなぞってみました。

すると、その地形は丹後半島を含む兵庫県但馬、丹波地方から摂津、大和へと繋がり、現在の兵庫、大阪、京都、奈良にまたがるオリオン座の形に似た国土が浮かび上がりました。

そして、首都纏向(奈良)が政体を掌り、国体を司る女王卑弥呼が居住した聖地は、播磨国風土記で表記される埴岡の里、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがる地域で、居城は神河町の「栗」だと解りました。

邪馬壹国 保存その1

邪馬壹国 保存その2

邪馬壹国 保存その3

 

女王卑弥呼の墓 保存その1

女王卑弥呼の墓 保存その2

どうして「あづきちゃん」は神河町の栗に連れて来られたのでしょう。

その謎を解く鍵が、イエス・キリストの生命の樹(カバラ)にあります。 

  

そして、女王卑弥呼への朝見ルートも又、生命の樹のセンターラインを意識しています。

イエス・キリストがカバラの王冠にあたる場所のポイントに八幡山という場所を設定していますが、八幡山は人工的山であり、カバラのセンターラインを引き通し教える山も、八幡山山頂より数百メートル離れた場所に造営されています。

 卑弥呼さんのお墓は、ヘリで重機を山頂に持ち上げれば、一週間もかからずに石室を開くことができます。

 そうすれば、この我国の隠され続けてきた本当の歴史が表面化します。

 「私が何を成したかを世界中の人達に伝えてください」と言ってきた卑弥呼おばさんの重大な真相が浮かびあがります。

重大な真相・・・、これこそが世界平和への鍵となるものです。

   続く・・・

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年あけましておめでとうございます

2015-01-02 13:46:32 | かごめかごめの真実とは

2014年12月31日(水)~2015年1月1日(木)

夜、9時過ぎに事務所を出発し、生野を頂点とする黄金比率の十字架の交点である、生石神社(おうしこじんじゃ)へと着いたのは10時を過ぎていました。

  

奉献にと、国造りのお酒、邪馬壹国を134度80の重要な神社に届けることにしました。

未だ新年にはチョットだけ時間があり、境内には関係者の方々だけが新年を迎える準備で、

緊張が伝わってくるようでした。 受け取っていただいてお参りを済ませ・・、でもゆっくりもしていられません。

年が変わる前までには大事な十字架の頂点である生野の姫宮神社へと到着せねばなりません。

天気予報では生野は間違いなく雪で、しかも吹雪くものと思われます。

その前に大事な大事な大国主命=イエス・キリストの公的陵墓がある大歳神社へと

国造りのお酒を届けなくてはなりません。  時間がありません。

  

「誰もいないだろうなぁ・・」と思って大歳神社へと行くと、暗闇の中に明かりがついていました。

その明かりが目に飛び込んできたときでした。

「あっ、村の人が居てる!」と思った私でした。確かに人影が3,4人ほど間違いなく目に映りました。

受け取ってもらえるぅ~と、喜び勇んで暗がりの石段を登って本殿に着くとそこには・・

誰一人として人影もありませんでした。 その気配も感じられませんでした。

それで・・、お酒だけ置いてお参りして足元の暗い階段を下りて車に乗り込み、まじまじと遠くから

暗闇に浮かぶ本殿の明かりを見つめて、「確かに数人の人影がありましたよね」「間違いなく見えました」

と確かめ合って・・、でも悠長なこともしておれませんので、目指すは生野、姫宮神社へ。

大歳神社の怪奇現象、10時40分の出来事でした。

そして・・、さすがに兵庫県の中央に位置する生野のトンネルを出ると、道路脇には氷雪が残っていました。

そしてすぐさま雪が舞いだしました。

姫宮神社へ行くには、歩いて大橋を渡らなければなりません。

昼間と違って、そして今日という日に何とも言えない情景が映し出されていました。

私は時間を気に留めずに、ゆっくりと橋を渡り、ゆっくりと歩いていました。

  

そして本殿がある境内への最後の階段を上がると、「ようこそおいでくださいました」と

案内されるように本殿の明かりが眼に飛び込んできました。

 

そして右手にある手水舎で手と口を清めて、鳥居で一礼して真っ直ぐに歩いて行きました。

そうすると・・、久しぶりの山田宮司さんが本殿内に居られて、お酒を奉献することができました。

「まだ新年にはなっていませんのでご挨拶は・・」と宮司さん。 そして・・

「今から御勤めをさせていただきます」とチョット緊張気味の宮司さんでした。

その言葉を聞いて、腕時計に目をやると、新年の時まであと3分でした。

「間に合ったぁ~~!!」と、そこで我に返った気がした私でした。

年が変わるころから向かいの大亀山の麓にあるお寺さんの方角から除夜の鐘の音が響きだし、

山田宮司さんも太鼓を打ち鳴らし出しました。

 正に神仏習合の競演を見せていただきました。

私も時が変わる瞬間に神様に新年のご挨拶をしていましたが、

「いいから早く帰れ!大雪になるぞ」と、言われた気がして、とりあえず生野峠を超えることにしました。

 

 生野峠を超えるまでは、雪も本降りの様相でしたが、峠を下ってほどなくして卑弥呼おばさんのお墓が一番きれいに見える七宝寺さんではもう月も顔を出したり隠したりと、天気も回復気味でした。

七宝寺さんから暗くて見えない卑弥呼おばさんが眠る婀月山を、微かな月明かりをたよりに見つめていました。時折、陵墓の下にある高圧線の鉄塔の赤色灯の明かりが山を覆った雲の中に映し出されて、あたかも卑弥呼さんの御霊が怒っているようにもドキッとするほど、山が火を噴いて噴火してるように見えました。

いえいえ、怒りは空海さまのお怒りかもしれません。

「どいつもこいつも自分のことしか考えられんようになってしもうて」と、大変なお怒りです。

ここ七宝寺に着いたとき、またまた不思議な光景を見ることになりました。

天体の星々が全て東から西の方角へと、それはそれは早いスピードで移動していました。

眼の錯覚でも何でもありません。本当に不思議な不思議な光景でした。

ことしは何かただならぬ出来事が起きる気がしてなりません。 ただならぬ出来事が・・・。

 

 それにしても、1月1日、婀月山に月とは、なんとも風情のある光景を見せていただきました。

どこまでも追いかけてくる月を見ながら自宅に戻ったのは、3時をチョット過ぎていました。

この地球が平和でありますように・・と、願いつつ    元旦

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先ずは本当の我国の歴史を知らなければ世界平和への虹の架け橋は渡れません

2014-12-17 10:50:36 | かごめかごめの真実とは

 神様が用意している「世界平和へのシナリオ」は、我国を近代国家へと導いた賢者達の無念の御霊を浄化することから始めなければなりません。

戦国武将たちもこの国の礎を造った隠されし大王のことをよ~~くご存じでした。

・・・

 歴史とは創造するロマンである!

君、歴史って英語で何ていう。

ヒストリー【historyだろう。

ヒストリーはね、君、 ヒズストーリー「His storyからきているんだよ。

His 、  彼 、

それでヒストリー【historyなんだよ。

君、Hisって誰だか知ってるかい。

イエス・キリストだよ。

要するにイエス・キリストが誕生してから

イエスキリストの歴史がず~~っと、そこから歴史が始まるんだよ。

・・・

邪馬壹国はモーセの律法を第一とする理想国家でした。

この地球上に天上の楽園のモデル国家を造る為に、世界中から出雲の地に、この世に生かされているこの命の意味を知る賢者達が結集しました。

賢者達は、馬の山(鳥取県東伯郡)で理想国家建設の草案造りに奔走しました。

理想国家 [邪馬壹国] の初代大王に大国主命=イエス・キリストが推挙されました。

初代大王 イエス・キリストの下で大いに理想国家建設は進められました。

その偉大な大王 イエス・キリストとも別れの時が来て、人々は、再び復活してくれることを願い、伊島(徳島県)から生野町(兵庫県)まで伸びる黄金比率の十字架の交点にあたる東経13480の地点(兵庫県加古川市志方町)に、祝福し、手厚く埋葬しました。

・・ですが、偉大な大王が亡くなるとこの国は780年間大乱と化しました。

理想国家建設は中途で朽ち枯れたかに見えましが、賢者達のDNAは再び芽吹き、イエス・キリストの直系の姫巫女を女王として共立し、中断していた理想国家建設が再び始動しだしました。

しかし・・、まつろわぬ王家の宿命なのか人間の性なのか、人々は平和を手に入れそこに浸る時、往往にしてそれを忘れ闘争を繰り返します。

この国は幾度となく王権の奪い合いを繰り返し、其のたびに多くの人々の命が奪われました。共立されて平和国家建設に命を捧げた女王卑弥呼の運命も又そうでした。その無念の御霊はさ迷いこの地球上を覆い続けています。

一度この国では、桓武天皇や和気清麻呂や最澄や、イエス・キリストの生まれ変わりであろう空海達賢者が、再び偉大な大王 イエス・キリストが断行した理想国家建設にチャレンジしました。 それが平安京の建設でした。

しかし、その平安京の建設が行われた時代背景は、非常に複雑な世界情勢となっていました。

古事記や日本書紀を編纂した人達は、その世界情勢を全て知った上で、イエス・キリストが初代大王であったことを、のちのち謎が解けるように旨くカモフラージュしてくれていました。

この近代日本の礎は、イエス・キリストと共に世界から集まった多くの人々によって築かれたという真実は、明らかにしたくとも許されないことでした。

平安京を造った賢者達は、この国の本当の歴史と、その本質を全て知っていました。

またその後の戦国時代の武将たち、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康ら、イエス・キリストの教えに学び、その偉大な意志を勇敢に実践しました。

伝えられている歴史の裏にあるその本質を見抜き、真実の上に歴史を観る心眼を開きなさいと、賢者達の御霊が語りかけてきます。

そして今、世界平和を希求し志半ばで世を去った無念の御霊達が、一斉にここ日本の地から大きく強く芽吹こうとしています。

「生かされているこの命の意味を知り、一人一人が今成すべき事を思い出し、人として、今あることに共に世界中の人々が手を取り、地球を平和な世界へと導く為に何を成すべきか、それを今、神々、そして己の役目を果たすべく、生きながらに死の道へと進みたる弘法大師空海様の御霊に導かれし旅は、道半ばとは申せ、終わりなき道は無く、限りある旅ならば、真の歴史を知り、解き明かされた真実を素直に無垢の心に戻り、未だ果せぬ世界平和を果すべく共に歩み行きたく、今、この世に命を受けた人々は、己が役目を果たしてのち旅立ちてこそ」

・・と、どちらの高貴な御霊の方でしょうか、私に語りかけてきます。

私達のご先祖様達は、本当の歴史を文章として書物にすると改ざんされたり抹消されたりするので、神社やお寺の彫り物や造りに意味を持たせたり、大地に三角法で位置決めしたりして謎が解けるようにしてくれていました。そしてその典型的大事業として、この日本の大地に、とてつもない地上絵を残してくれていました。

  遥か遥か、遠い遠いご先祖様達が今、身近に感じられる私です。

  ご先祖様達ってなんて素晴らしい方々だったのでしょう!

   人間って本当に素晴らしい! 神様って本当に本当に素晴らしい!

           ただただ感謝です。

 

                         上森三郎


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神河町の栗は古代イスラエルの都サマリアに由来する?

2014-11-27 11:29:07 | かごめかごめの真実とは

2014年11月27日(木)

女王卑弥呼の古墳がある神河町の八幡山連峰の西麓に「 栗 」とういう集落があります。

ここ栗に今から3000年前に、カルクーと呼ばれた古代イスラエルの都サマリアの関係者でもあった私達の先祖が帰ってきたと私は考えます。

この方々は、カリア人、クリ人と呼ばれ、高句麗にも都を築いたようです。  高句麗のクリも栗も発音は同じです。

そして高句麗があった、現在の中国遼寧省鞍山市にある道教の聖地である千山と、ここ神河町の栗との関わりに重大な秘密があります。

そのことを生命の樹(カバラ)という目には見えない設計図や巨大地上絵などで現代の私達に先人たちは古代の秘密を解けるようにしてくれていました。

     

そして、徳島の粗谷地方に残る謎の神楽歌こそ、生野、神河町の秘密を教えてくれていると私は推測します

この歌が歌われた時代、1里を0,5㎞で計算すると、丁度現在の生野、神河町の境界あたりから丁度4.5㎞で栗に行きつきます。

九里きて栗に行って九里もどるとは、邪馬壹国の女王が住む都の地理的条件(栗から南は投馬国である)を教えていると考えています。

 

生野(イヤ)のそばから、御竜車が三つ下る。

九里きて、栗行って、九里もどる。

朝日かがやき、夕日が照らす。ない椿の禰に照らす。

生野の谷から何が来た。

恵比寿、大黒、積みや降ろした。

伊勢の御宝、積みや降ろした。三つの宝は、庭にある。

生野の空から、御竜車が三つ下る。

 

サマリアの旧名はクリである。

 ・・・下記はウィキペディアより抜粋・・・

サマリア (Samaria) は、パレスチナヨルダン川西岸地区の北部を意味する。

ヘブライ語ではショムロン (שֹׁמְרוֹן‎, Shomron)、アラビア語ではアッサマラー (السامرة‎‎, as-Sāmarah)。

 

サマリアは元来は、パレスチナ(イスラエル領を含む)北部に位置した北イスラエル王国の首都の名であった。現在はアラブ人居住者が大半を占めるため、アラビア語サバスティーヤ (Sabastīya) と言うことが多い。紀元前772年の北イスラエル王国滅亡(アッシリア捕囚)後は、その旧領土一体にアッシリアによりサマリア県が置かれた。サマリア県はアッシリアに続くバビロニア時代にも存続し、紀元前586年南ユダ王国滅亡(バビロン捕囚)後は、その旧領土、すなわちエルサレム周辺も、一時的にサマリア県に併合された。

西岸地区北部をサマリアと呼ぶことはシオニストに好まれ、彼らはヨルダン川西岸地区ユダヤ・サマリアと呼ぶ。

「パレスチナ」というのはペリシテ人の土地、という意味であり、ローマがこの地からユダヤ性を奪うために改名した名前である。また「ヨルダン川西岸」というのは、ヨルダンが西岸地区を占領していた時代に、ヨルダン川に跨る国家であることを示すために付けた名前である。この地域の名称がもし「ユダヤ・サマリア」と呼ばれ続けたならば、シオニズム運動は別の展開を見せていた可能性がある。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神仏の祀りかたの原型が大地に印されていました

2014-11-26 10:46:34 | 邪馬壹国

   メノラーの地上絵の空撮に成功しました

2014年11月26日(水)

日本の一般家庭では、神棚や仏壇に一対の榊をお供えします。

榊とは神様の木と書きますね。

そして毎朝、新鮮な水を朝一番にお供えします。

兵庫県の中央に位置する生野、神河町には鶴と亀や、

龍(玄武)やエジプトの女神ハトホルなどの巨大な地上絵が山を使って造形されていました。

なんとその地上絵郡を拝むように、水平距離で1,8㎞の巨大な榊の地上絵が造形されていました。

下の画像はグーグルアースで発見した当初の画像です。

  

そして、下の画像は、 グーグルアースでフィルムが被せられたり、見えないように細工されてしまいましたので、

証拠保全の為に、上空から撮影した画像です。

  

そして・・下の画像はメノラーを中心にしたイスラエルの国章ですが、このメノラーこそ日本で言う榊にあたるものです。

日本神道とユダヤのハーモニーを垣間見れるようです。

そしてそして・・・、なんと神河町役場から巨大な榊の上部が見えるのですが、その頂上部を超えたところに、

なんとなんと、1㎞ほどの巨大なひょうたんの地上絵も造られていました。

 

そしてそのひょうたんの口からは、神様の息吹とでも申しましょうか、新鮮な水がいつもこんこんと大地から湧きだし・・、

その神様の水は沢となって流れて、 なんとなんと・・・

滝から落ちて、直径3mもありましょうか、大きな壺に満々といつも新鮮な水が溜まり溢れ出す仕掛けで造られていました。

そしてその大きな壺は、地元では亀壺と呼ばれているようですが、おそらくその存在を直接、壺まで行って見た人はほとんど居られないようです。

いわば、幻の亀壺のようです。

 

上の画像をよく見ていただけますでしょうか。

滝の壁面には、大きな大きな女性の横顔が描かれていますが、女神様でしょうか。

私には、アイヌの女性に見えますが、皆さんの目にはどのように映りますでしょうか。

・・・

この我国って、なんと素晴らしい国でしょうか。 よく神様の国と言われますが、本当にそのようですよ。

そして、このことを邪馬壹国の女王卑弥呼様はよ~~くご存じでした。

もう一度、下の写真を見ていただきたいと思います。

 撮影者の靴が映っている左側に伸びる山並みが八幡山連峰ですが、拡大してみると、卑弥呼さんのお墓も、

女王卑弥呼様の祭祀場である八幡山も見えますよ。

 ・・・と言っても、事情を知っている私にしかこれは分かりませんね。

 

上の図は、生野、神河町の地図に、①八幡山を中心に4,3㎞で円を描き、亀甲紋を描いてますが、

生野に鶴と亀、段ヶ峰に龍(玄武)などの巨大な地上絵が造形されていますが、②が女王卑弥呼のお墓です。

神社の造りで言えば、阿吽の獅子にあたるところが、⑫⑬の榊(メノラー)で手水舎が⑭ひょうたんですね。

②の卑弥呼さんのお墓が本殿で、鶴と亀の地上絵がある生野が奥宮で、そしてそこのA,Bに地下神殿があります。

この祀りかたを家の中に持ち込んだ神棚や仏壇が

このような形になります。 そして神社もこれと同じ祀りかたをするように造営されています。

神河町には、卑弥呼さまや奥宮を拝む遥拝の山がキッチリとピラミッドのように一対の榊(メノラー)の中心部に造られています。

神河町を空から眺めたFさんの弁ですが、「一番きれいでした」というピラミッドみたいな三角の山には、

地元古代史研究家の市川慎さんが言われるのには、頂上と中腹に遥拝する立派な磐座が造ってあるとのことですから、

古代からこの我が国の礎を創られた神々にそこから祈りを絶やさなかった時代があったことでしょう。

そのように、重大な意味ある地上絵などがある場所こそが邪馬壹国の女王卑弥呼さんが居たところです。

邪馬壹国とは丹後、丹波、但馬、摂津、大和・・、現在の兵庫、京都、大阪、奈良にまたがるオリオン座にかたどられた国でした。

政体が奈良の巻向で、国体・・つまり女王卑弥呼さまが居られたところが、神河町の栗でした。

 

 

邪馬壹国は兵庫、京都、大阪、奈良、にまたがる国だった

魏志倭人伝に記載されている情報をもとに境界国をなぞると、邪馬壹国(しゃもいっこく)は丹後半島を含む兵庫県但馬、丹後、丹波地方から摂津、大和へとつながった国土であり、行政府の首都が纒向(奈良)であり、女王卑弥呼が住む聖地は、兵庫県の中央に位置する、播磨風土記で表記される埴岡の里、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがる地域で、居城はである。

邪馬壹国の女王卑弥呼が居た埴岡の里(兵庫県生野、神河町)・栗への朝見ルートは、高句麗、現在の中国遼寧省鞍山市の道教の故郷、千山から神の故郷、蓬莱()を経由して朝鮮半島に沿いながら現在の釜山あたりから対馬、壱岐、を経由して呼子(佐賀県)に宝船を呼び込みます。ここまでは神で来ますが、お一人の神様は、神を呼子に降ろして定期航路を帰ります。降ろされた神は、陸路、吉 岡 そして津まで宝物を運んで行きます。 津からは神が物部氏の船に乗せられて関門海峡を下して宇佐八幡の神様にご挨拶して、それから瀬戸内へ入り、中国山脈のって山の大門まで20日を要して到着します。ここからさらに10日かかってたどり着く所がの神えびす様の総本社 がある西宮です。ここで検品を済ませ、三つの御竜車に物を乗せて、塚を通り、三田、篠山、春日を経て知山に着き、粟鹿を通って南下し、シオン(聖地)と呼ばれていたイヤ(生野)へとやってきて最終地点である(神河町)へとたどり着きますが、ここが女王卑弥呼の居城でした。西宮からここまで陸路1ヶ月を要した。

女王卑弥呼への朝見ルートは地名に福の一文字が残る、福の神のルートである。

そして卑弥呼のお墓は、779mの山頂にあった。

downwardright 邪馬壹国の国土図と呼子(佐賀県)からの女王卑弥呼の居城までの道程図

   左はイエス・キリストの生命の樹です。

生命の樹(カバラ)の意味することを理解することで邪馬壹国の謎は解けます。

 

邪馬壹国はシャモイッコクと読んで、モーセの律法を第一とする理想国家の建設でした。

その国土設計は、カバラに基づいて設計され、国土はオリオン座に似せて造られた桃源郷でした。

でも、初代大王である大国主の命=イエス・キリストが亡くなると、黄金比率の十字架の縦のライン上に

手厚く葬られました。その場所は十字架の交点の少し北へ上がった所で、現在の加古川市志方町にあります。

  

魏志倭人伝に書かれた20日で着く港は、

伊島(徳島県)から生野(兵庫県)まで伸びる黄金比の十字架の縦のラインを底辺とする、

正三角形の頂点にあたる場所で、現在の広島県福山市の大門でした。

大門は社の総本社である総社宮への入り口の門にあたる重要な場所でした。

そこには鶴島、亀島がありました。

その風光明媚な港から10日で着く港が、福の神を祀る戎神社本宮がある西宮が、最終港であり始発港でした。

左は西宮市の市章です。 西宮市の市章の中の文字は、西という字です。

西宮市の市章はユダヤと表していて、日が沈む西の方角にはユダヤの国があることを教えていて、

そのユダヤの地からたどり着く最終港であり始発港が西宮ということです。

陸路一ケ月のルートは、そこ西宮から宝塚、三田篠山、春日を通って福知山、そこから粟賀を通って栗ま

ででした。現在の神河町栗です。

現在は姫路から上がればすぐですが、卑弥呼さんの時代は隣国、投馬国は通れませんから一ケ月を要しました。

       

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

邪馬壹国 保存その3

2014-11-22 10:44:28 | 邪馬壹国

伊王島(長崎県)から宗像大社(福岡県)・高千穂神社(宮崎県)を結ぶ正三角形の中心をライン上にある宇佐八幡宮を通り、総社(岡山県)を通り埴岡の里(兵庫県)まで伸びるラインで構成される生命の樹(カバラ)

 上記生命の樹のセンターライン上でセフィラの11番目・ダアトに位置する場所が総社(岡山県)であるが、この地こそが魏志倭人伝に記されている投馬国の首都であり、そこへの上り口が福山市の大門(だいもん)です。伊島、生野を底辺とした正三角形の頂点の地点が魏志倭人伝に記されている水行20日で着く港、大門である。

 大門町誌「大津野のあゆみ」に残された、鶴島、亀島が記された上古大津野沿岸図

 上古大津野沿岸図に記された鶴島、亀島の現在の様子と、惣堂神社。

 鶴島の現風景

       

 亀島の現風景

         

 惣堂神社

     

歴史の中に生きた先人達は、私達に何を教えているか。

 純友の乱で、海賊の残党の捕らえられた地が、備前、播磨、そして地上絵群が造形された埴岡の里一帯の但馬であるが、真相を語ってはいないか。

黄金比の十字架と生命の樹と航海航路との関わり

    

地上絵群がある埴岡の里と、出雲大社と伊勢神宮(内宮)との位置関係

生野から出雲大社、伊勢神宮(内宮)までの距離は同距離である。

室戸岬から出雲大社、伊勢神宮(内宮)までの距離は同距離で、その三点を結ぶと直角二等辺三角形である。

 

日本で一番最初に作られた稲荷神社は糸賀稲荷神社(有田市)である。その神社から、生野と御蔵洞(室戸岬)までは同距離の関係にある。

卑弥呼の墓の測量図

墓は標高779mの山頂にあり、葺き石で葺きあげられ、墳丘長さ150m 後円部径100m、上円部径50m 高さ15m の帆立貝形古墳、又は前方後円墳 の初期の形の古墳が形成されている。測量図を元に、 卑弥呼の墓を探査レーダーで調べると・非鉄金属の反応 も捕らえた。

「卑弥呼はすでに死んだ。大いに塚を造った。径(さしわたし)は百余歩」と魏志倭人伝に書かれている墓の径と、上円部径50mは合致する。



卑弥呼の墓が向いてる方向は、香住町菴月山(上古竹野郡)であり、その反対側は糸賀稲荷神社である。

卑弥呼の墓の位置は、応神天皇陵と、六甲石の宝殿白山の宮と白兎神社とを結んだ一直線上に位置する。

 

yamaitikoku  yamaitikoku yamaitikoku  yamaitikoku  yamaitikoku Yamaitikoku  yamaitikoku

やまいちこく やまいちこく やまいちこく やまいちこく やまいちこく やまいちこく 邪馬台国 卑弥呼 

 

 

 

 

 

あずきちゃん 竹野郡 竹野地方 埴岡の里 かごめの故郷 モーゼの国 イエス・キリスト 大黒様 大国主の命 モーセ シュメール スメラミコト 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

邪馬壹国 保存その2

2014-11-22 10:36:57 | 邪馬壹国

 生野の資料館に残る古い絵図(二つの御林)

  

 カゴメ紋の中心点である八幡山1と、ABCD 2 との関係図

 

 伊勢神宮から生野へ伸びる生命の樹(カバラ)

  

一直線に並ぶ地上絵

 地上絵発見の動画

  

地上絵発見の動画(天皇陛下への手紙)  その1

地上絵発見の動画(天皇陛下への手紙)  その2

 

 古代エジプトの女神ハトホル(人の顔)

 

 

  

 

 鶴 と 亀

 

  龍(玄武)

 

 

日本三奇の一つ、高砂市の石の宝殿の巨石の謎解明

石の宝殿の巨石が位置する場所は、伊勢神宮から石の宝殿(生石神社)に伸びる生命の樹(カバラ)の王冠にあたる場所である。

 

そして又、その石の宝殿の巨石がある位置は、伊島(徳島県)から生野町の古い絵図に残る絶峯御林まで伸びる黄金比率の十字架の交点に位置している。

  

 




そしてその石の宝殿の巨石は、キッチリと神武天皇陵と出雲大社の方角に向けて造られている。

 

          




そしてこの石の宝殿の巨石は、伊勢神宮(内宮)と物部神社(島根県大田市)を結んだライン上にもピタリと位置している。

 

伊王島(長崎県)から宗像大社(福岡県)・高千穂神社(宮崎県)を結ぶ正三角形の中心をライン上にある宇佐八幡宮を通り、総社(岡山県)を通り埴岡の里(兵庫県)まで伸びるラインで構成される生命の樹(カバラ)

 上記生命の樹のセンターライン上でセフィラの11番目・ダアトに位置する場所が総社(岡山県)であるが、この地こそが魏志倭人伝に記されている投馬国の首都であり、そこへの上り口が福山市の大門(だいもん)です。伊島、生野を底辺とした正三角形の頂点の地点が魏志倭人伝に記されている水行20日で着く港、大門である

きちゃん 竹野郡 竹野地方 埴岡の里 かごめの故郷 モーゼの国 イエス・キリスト 大黒様 大国主の命 モーセ シュメール スメラミコト 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

邪馬壹国 保存その1

2014-11-22 10:26:10 | 邪馬壹国


                   
                   かごめかごめの真実とは

 

 

邪馬壹国は兵庫、京都、大阪、奈良、にまたがる国だった!

魏志倭人伝に記載されている情報をもとに境界国をなぞると、邪馬壹国(しゃもいっこく)は丹後半島を含む兵庫県但馬、丹後、丹波地方から摂津、大和へとつながった国土であり、行政府の首都が纒向(奈良)であり、女王卑弥呼が住む聖地は、兵庫県の中央に位置する、播磨風土記で表記される埴岡の里、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがる地域で、居城は栗である。

邪馬壹国の女王卑弥呼が居た埴岡の里(兵庫県生野、神河町)・栗への朝見ルートは、高句麗、現在の中国遼寧省鞍山市の道教の故郷、千山から神の故郷、蓬莱()を経由して朝鮮半島に沿いながら現在の釜山あたりから対馬、壱岐、を経由して呼子(佐賀県)に宝船を呼び込みます。ここまでは神で来ますが、お一人の神様は、神を呼子に降ろして定期航路を帰ります。降ろされた神は、陸路、吉 岡 そして津まで宝物を運んで行きます。 津からは神が物部氏の船に乗せられて関門海峡を下して宇佐八幡の神様にご挨拶して、それから瀬戸内へ入り、中国山脈のって山の大門まで20日を要して到着します。ここからさらに10日かかってたどり着く所がの神えびす様の総本社がある西宮です。ここで検品を済ませ、三つの御竜車に物を乗せて、塚を通り、三田、篠山、春日を経て知山に着き、粟鹿を通って南下し、シオン(聖地)と呼ばれていたイヤ(生野)へとやってきて最終地点である(神河町)へとたどり着きますが、ここが女王卑弥呼の居城でした。西宮からここまで陸路1ヶ月を要した。

女王卑弥呼への朝見ルートは地名に福の一文字が残る、福の神のルートである。

そして卑弥呼のお墓は、779mの山頂にあった。

 邪馬壹国の国土図と呼子(佐賀県)からの女王卑弥呼の居城までの道程図

  

 

高句麗にあった千山から、千ヶ峰の麓の卑弥呼の居城への上陸地点までの海路図

 

 

女王卑弥呼の居城が、埴岡の里の栗である証。

 グーグルマップの3Dで、旧約聖書にある生命の樹(カバラ)の法則に則り発見された、八幡山を中心に半径10km内に山を使って造形された壮大な地上絵群との位置関係図

 

1・・八幡山(カゴメ紋の中心点)  2・・卑弥呼の墓 3・・男性シンボル              4・・女性シンボル  5・・鳥  6・・鳥  7・・亀  8・・奴婢  9・・大亀

10・・龍(玄武) 11・・

A ・・絶峯御林(イエス・キリストを祀った地下神殿)

B ・・古城山御林(モーゼを祀った地下神殿)

C ・・生野に残る古地図の二つの御林と、卑弥呼の墓を教える三角形が交わった点

D、E、F ・・ 人工的ポイントの山

12 13 ・・メノラー(神の木)

14 ・・ ひょうたん

・・・

1 八幡山

                     


2 卑弥呼の墓 (婀月山)

           
 

3 男性シンボル



4 女性シンボル

   

 6 鳥(鶴) ・ 9 大亀 

 

10 龍(玄武)

 

12  メノラー(神の木)   12,13 一対のメノラー

  

13  メノラー(神の木)  2014年8月27日 空撮に成功

14 ひょうたん

 勾玉

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Terafight卑弥呼 

2014-11-17 10:22:45 | かごめかごめの真実とは

2014年11月17日(月)

「テラファイト卑弥呼ですか」と皆さんが・・・。

テラファイトの新モデルの名称ですが、テラファイトミニ、テラファイトジュニア等々いろいろ考案されましたが、「Terafight卑弥呼」で決定しました。

最初の案は色もピンクでしたが、何かがどこかが違う気がしている時、Stapsalon鍼灸院の田中先生が、「施術を受けられた方の8割ほどの人が光を観られると言われ、そのうちの9割ほどの方々が紫の光を観られると言われるんです。他はオレンジとかゴールドの方も・・」と。

「そうですかぁ・・紫ですかぁ」と私。

「そうなんです、ムラサキなんです」と田中先生。

紫色と言えば、私が卑弥呼さんの古墳を発見し、その古墳の中心点でお祈りをささげ、その後、私の目の前に居たスピリチュアルカメラマンのSさんが突然、「吹き上がっています。吹き上がってます!おお~~!吹き上がっています」と言われるので、

「何が吹き上がっているんですか」と私。

「女性性が吹き上がっています」とSさんが驚きのけぞるような姿勢をされていました。

そして・・、その日、調査を済ませて山から下りてくると、車に乗り込む前に私に近寄って来られて、

「上森さん見えましたか」 とSさんが言われるので、

「何がですか」と私。

Sさん :「上森さんの前に行ったり後ろに行ったりと山から人がついてきたんです」

私  :「何も見えませんでしたが、それは男性ですか」

Sさん :「いえ、女性です」

私  :「そうですかぁ・・、どんな姿でした」

Sさん :「白い服に紫の衣を着ていて、非常に高貴でおだやかな女性でした」

私  :「そうでしたかぁ・・」

・・・と、強烈にその時のことが脳裏に焼き付いていますが、その後も卑弥呼さんは私の周りで出現し幾人かの方々がその姿を見られています。

そしてもう一つ、紫と言えば、私が穴を掘っている生野でIさんが写された不思議な光の滝の写真がこれまた紫色なんですね。

その写真をいつもサロンで見ている私ですが、この紫の光こそ女王卑弥呼さまの御霊であるような気がするのです。

それで、従来のピンクから急きょ、白と紫の色にして新モデルの名称は、「Terafight卑弥呼」にすることにしました。

女王卑弥呼さまは、自ずから邪馬壹国とお墓の立証をしようと動き出したようです。

「さぁ、やるわよ!」と・・。

   

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓は神河町の婀月山です。 

2014-11-12 19:18:04 | かごめかごめの真実とは

  9日の無名三人セミナーの題目は「卑弥呼」でしたが、

「掘削をすると、その証明にはさほど日数はかかりません」 

お墓の上円部の直径も50mで、 100歩ほどです。

山椒は今でも自生し、猿も沢山居てます。

   地元神河町の方々の手で一日も早く立証していただきたいと願います。

   一日でも早く女王卑弥呼のお墓と邪馬壹国の立証することが、世界平和へと繋がります。  

 残された時間はもうあまりないようです。

 

 

   お墓の調査記録をユーチューブにまとめました。

魏志倭人伝 邪馬台国の会HPより

18 栽培植物と繊維

禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。

26 植物

その木には、
(おそらくは、たぶのき)
・杼(こなら、または、とち)
・豫樟(くすのき)・(ぼけ、あるいは、くさぼけ)
・櫪(くぬぎ)
・投(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りとし、「杉」とする。苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤りか)
・橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする)
・烏号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする)
・楓香(かえで)
がある。

その竹には、
・篠(しの。めだけ、ささの類)
・やだけ
・桃支(がずらだけ。苅住昇氏は、「しゅろか」とする)
がある。

・薑(しょうが)
・橘(たちばな。または、こみかん)
椒(さんしょう)
・みょうが
があるが、賞味することをしらない。

27 存在する動物

猴(おおざる)・黒雉(きじ)がいる。
48 卑弥呼の死
卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)のは百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。

・・・・

墓は標高779mの山頂にあり、葺き石で葺きあげられ、墳丘長さ150m 後円部径100m、上円部径50m 高さ15m の帆立貝形古墳、又は前方後円墳 の初期の形の古墳が形成されている。測量図を元に、卑弥呼の墓を探査レーダーで調べると・非鉄金属の反応 も捕らえた。

「卑弥呼はすでに死んだ。大いに塚を造った。径(さしわたし)は百余歩」と魏志倭人伝に書かれている墓の径と、上円部径50mは合致する。又、この山には山椒がたくさん自生していて、猿も きじ もいてる。

卑弥呼の墓の西麓、栗集落に今でも残る神護石と大量の石群

Dscf5367Dscf5368_2Dscf5369Dscf5371Dscf5372Dscf5373


Dscf5376Dscf5377Dscf5378Dscf5380Dscf5381Dscf5387


Dscf5388Dscf5389Dscf5390Dscf5397Dscf5400Dscf5401Dscf5409

墓の頂上部の概況

頂上部には、重要な各方位を教える方位磁石が狂う石が並べられている。

Dscf6051Dscf6049_2Dscf6002Dscf5754Dscf5765Dscf5778

Dscf5844Dscf5777Dscf5993

卑弥呼の墓の測量図

Img1182109410001

Dscf5990_2Dscf5991_2Dscf5992Dscf5850Dscf5996Dscf5995



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お爺さんは早速、道をきれいに作ってくれていました

2014-10-31 20:06:29 | かごめかごめの真実とは

2014年10月31日(金)

AM7:45には神戸を出発して京丹後に住むお爺さんのお宅に着いたのが11:00頃でした。

用事で出かけられていたお爺さんがほどなくして戻られ、挨拶を済ませてから先ずは山に登ることにしました。

8月に最初に登って下って来たときとは大違いで、お爺さんが人を雇って頂上までの道を綺麗にしてくれていましたので、スムーズに上ることができました。

山頂点に後7,8mの地点で私の一番嫌いな蛇が、刈り取られた下草の中からス~~ッと這い出してきました。

しかも、マムシです。 私は杖代わりに途中で拾った長い木の枝で、何度も何度も蛇を追い払い恐る恐る7,8mを進みました。

進み終わって、「こんな日に蛇が出てくれますかぁ!」と以外に今日は冷静にも感心する私が居ました。

だって、中国の千山のモーセお爺さんは、ひょうたんが付いた蛇の杖を持っていましたからね・・。

周りを見回しマムシが居ないことを確かめてから、波動の塩と国造りのお酒「邪馬壹国」と、テラファイトの水をリュクから取り出して、コンパスグラスで147、3°(テラのお墓)の方角を確かめてそれらを置き、祈ることにしました。

もちろん足元の大地に意識をやりながら、モーセおじさんにご挨拶しながら祈りました。 そして会話を終えてから波動の塩と、お酒と水で周りをきよめて、そして下山しました。途中何度も「マオシェス、マオシェス」と呼びかけながら・・・。

そして爺さんの御家に行って、下草を刈っていただいたお礼と、「位置ヶ王山がもう少しハッキリ綺麗に見えるように木を数本切っていただくことができますでしょうか。そして山頂をもう少し広く刈り取っていただけますでしょうか」と、本当に身勝手なお願いをしましたが、「じゃ~もうチョットやってみましょうか」と快くニコニコと笑顔で了解していただきました。

お爺さんは84歳と言って居られましたが、全然そのような年齢には見えません。

おだやかで品のあるお爺さんと話をするのが益々増えることを期待する私です。 

スタップサロン鍼灸院をやって最近、 「心の綺麗な人は,品があって顔も身体も若若しい」と言うことが分かってきました。

HさんMさん、品のあるお爺さんにお心遣いのものを確かにお渡ししてきましたよ。

お爺さんは、「こんなに貰っていきゃ~しませんがねぇ」と恐縮されて居られました。

山頂まではゆっくり歩いて20分ほどでした。

来年の春、皆さんと一緒にお参りに行けたらなぁ~と思っています。

 

    

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする