かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

福知山ピラミッドは投馬国の首長、彌彌の墓である

2021-01-05 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2021年1月5日(火)

福知山ピラミッドは、日本最大級のピラミッドではないだろうか。

ここに眠っているのは、投馬国の首長、彌彌である。

福知山ピラミッドは、これから彌彌のピラミッドと呼びたいと思います。

投馬国の首長、彌彌は、孝安天皇である(2024. 5.25加筆)


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福津を出航した宝船は、水行二十日の旅を終えて福山の大門に到着です

2020-03-01 06:14:49 | 邪馬壹国

2020年3月1日(日)

宝船は様たちを乗せて不弥国の津を出航しました。

さぁ~ここから、水行二十日の旅です。

投馬国(とまこく)を目指します。

宝船は、関門海峡を通過して南へと船を進めて、途中必ず宇佐神宮へとお参りしなくてはなりません。

宇佐神宮でお参りをすませたら目指すは、山市大門です。

周防灘から瀬戸内航路です。 島々が綺麗ですねぇ!

中国山脈のに沿って航行します。

この海域は、熟練した船乗りでなければ航行困難ですよ。

でも・・大丈夫! 物部氏の熟練したベテランが船頭ですから安心です。

でも乗り込んだ人たちは、皆目見当がつきません。それで‥不安になって船頭さんに聞きます。

「今、ここはどこですか?」

です、皆さんと同じ仲間が暮らすエリアですからご安心んを・・」と。 

「そうですかぁ・・ですか」と、安心されましたとさ。

み~~んな仲間なんですねぇ。 

ご先祖さま達は、北極星の向こうから私たちを見守ってくれているという北極信仰の人達が助け合って暮らすエリアが 南 なんですね。

そして、宇佐神宮と福山の大門。 大門から参道の先に総社宮があります。

これらの位置は、長崎の伊王島から女王国の卑弥呼が祭祀を行う八幡山ピラミッドの生命の樹(カバラ)のセンターラインにあたる重要な聖なる霊ライン上に位置しています。

あぁ~~宝部船に揺られ揺られならの水行二十日の旅の終着点はまじかです。

瀬戸内から左に舵をきって、真北に静かな海を進みだしたら、投馬国の領土への上り口への門柱と言いますか、阿吽の獅子といいましょうか、右手に鶴島、左手に亀島が御一行様をむかえてくれます。

この鶴島、亀島の中央を堂々と宝船は真北へ滑り込むようにして・・到着です!

「みなさん、ご苦労さまでした! は~~い 到着しましたよ~~~!!」

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大門に初めて行ったとき、帰り際の駅のホームで鶴と亀の雲が現れたのには感動しました

 

 


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デザインが変わりました

2018-10-24 07:10:44 | かごめかごめの真実とは

2018年10月23日(火)

 ブログのデザインが少し変わりました。

卑弥呼さんの陵墓に綺麗な二重の虹が架かった情景です。

そして魏志倭人伝に記された航海航路が少しだけ変わっています。 

違いがお分かりになられますでしょうか。

今までは、一番最初に書いたのを延々と載せていましたが、本来このピンクのルートです。

宇佐八幡は重要な意味をもっています。 そこを経由して20日で着く港が大門(福山)です。

ここは、投馬国人口5万の首都総社への入り口でした。

そしてそこから10日かかって着く港が仁川。 現在の武庫川河口流域でした。

仁川という地名は今も残っていますね。

魏志倭人伝に記された航路は、韓国の仁川から仁川でした。

現在の西宮の市章は、ユダヤ起源を思わせる図案ですね。

又、兵庫県の歴史を見れば、平安時代までは武庫川流域が一番栄えていたということですから、これも魏志倭人伝に記された最終港であり上陸地点ですね。

最終港は又、始発港でもあります。 卑弥呼さんの時代から大いに栄えたことでしょう。

そこから宝塚、三田 篠山 春日 福知山 粟鹿 そこから南下して生野、神河へと陸路1ヶ月の工程でした。

 

十字が浮かび上がるピンクのテラファイトが誕生してから、魏志倭人伝に記された邪馬壹国の謎の解明をする不思議な世界に入っていきました。

その初代テラファイトも生産、販売を終えることになりました。

一つのドラマが幕をおろし、新たなステージに入って来たのかもしれません。

それにふさわしいくデザインを新たにしました。

これからもご支援ご愛顧の程、よろしくお願いいたします。

 なかなかデザインが新しくならない方は、

インターネット一時ファイルを削除する方法で行ってみてください。

Windows 7 および Windows Vista
  1. [スタート]、[コントロール パネル]、[ネットワークとインターネット]、[インターネット オプション] の順に選択します。
  2. [全般] タブを選択し、[閲覧の履歴] の [削除] を選択します。
  3. [すべて削除]、[はい]、[OK] の順に選択します。

 

   

 


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邪馬台国の謎、完全解明!

2016-07-25 11:26:43 | かごめかごめの真実とは

2016年7月25日(月)

 邪馬壹国(邪馬台国)の謎は、完全に解明されました。

昨日、古代史研究家の市川慎さんの講演を聞いて私はそう思いました。

私は神社やお寺、山や磐座など現場からの情報を集め、そのことと、記紀や古文書などから謎解きをした市川さんの解説とで、完全に隠された地域が浮かび上がりました。

その地域こそ、播磨国風土記で記された埴岡の里(現在の生野、神河町)であり、又、現在の岡山県を中心とする投馬国でした。

素晴らしい研究をコツコツと積み上げられた成果のたまものでしょう。

現在、安易な市町村合併で、消えていく地域名や、そこに引き継がれた文化やしきたりや方言などが保たれなくなっていますが、かろうじて残された地名やことばから市川さんはキッチリと謎解されています。

生野、神河町こそが、邪馬台国の女王卑弥呼が住んだ都であったことが市川先生の講演からも確信できます。

さぁ、市川さんの論理と、その隠された陵墓の数々の位置情報などを重ね合わせることで、隠され続けた邪馬台国の実態が浮かび上がりました。

集まられた人達も、大いにワクワクドキドキされたことでしょう。

もう隠し通すことはできません。 

「小さな嘘はすぐバレルが、大きな嘘は、時間をかけて必ずバレル!」と神様が、カタカムナ研究者の吉野先生の口を使って、私達に教えてくれましたが、もう本当のことを素直に公表する時期にとっくに来ています。

世界の指導者たる人達は、速やかに正しき方向に向けて真実を語って頂きたいと私は思います。

そして・・藤原君は、責任を持って、堂々と多くの人達を導いていってほしいと願います。

       


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神河町は神様が居られる都でしたし、聖地です

2016-05-23 11:01:27 | 邪馬壹国

2016年5月23日(月)

 21日(土)岩座神(いさりがみ)の五霊神社へと行きましたが、神社本殿の屋根に神紋を見つけました。

橘の紋のようですが、これは明らかに七枝のメノラーですね。

イスラエルの国章も七枝のメノラーを中心にデザインされていますが、神河町にこれらのメノラーのデザインの基本となる1.5㎞もの巨大な一対のメノラの地上絵があることと無縁ではないでしょう。

又、神河町の長谷という地区に栗というところがありますが、この栗の地名こそイスラエルと日本の関係を教えてくれています。

イエス・キリストの遺体が埋められたオリオン座のベテルギウスにあたる神河町南小田の墓守をしていたのが卑弥呼でした。

卑弥呼は、イエス・キリストの直系であるがゆえにイエスが死んで80年弱続いた倭国大乱を終息、再起するために、イエス・キリストが亡くなって100年後に女王の座に就きました

女王卑弥呼が居住していたところが、神河町の栗でした。 当然として卑弥呼は神河町の阿月山に陵墓を築き、、イエスの命日の日、AD248年11月17日に自ら入定し、5日後22日に息を引き取りました。享年71歳でした。

 

 

女王卑弥呼の古墳がある神河町の八幡山連峰の西麓に「 栗 」とういう集落があります。

ここ栗に今から3000年前に、カルクーと呼ばれた古代イスラエルの都サマリアの関係者でもあった私達の先祖が帰ってきたと私は考えます。

この方々は、カリア人、クリ人と呼ばれ、高句麗にも都を築いたようです。  高句麗のクリも栗も発音は同じです。

そして高句麗があった、現在の中国遼寧省鞍山市にある道教の聖地である千山と、ここ神河町の栗との関わりに重大な秘密があります。

そのことを生命の樹(カバラ)という目には見えない設計図や巨大地上絵などで現代の私達に先人たちは古代の秘密を解けるようにしてくれていました。

そして、徳島の粗谷地方に残る謎の神楽歌こそ、生野、神河町の秘密を教えてくれていると私は推測します

この歌が歌われた時代、1里を0,5㎞で計算すると、丁度現在の生野、神河町の境界あたりから丁度4.5㎞で栗に行きつきます。

九里きて栗に行って九里もどるとは、邪馬壹国の女王が住む都の地理的条件(栗から南は投馬国である)を教えていると考えています。

 

生野(イヤ)のそばから、御竜車が三つ下る。

九里きて、栗行って、九里もどる。

朝日かがやき、夕日が照らす。ない椿の禰に照らす。

朝日も夕日も照らす山頂に陵墓があることを教え、ない椿の禰とは、71歳で亡くなった卑弥呼の御霊のことを教えています。

生野の谷から何が来た。

恵比寿、大黒、積みや降ろした。

伊勢の御宝、積みや降ろした。三つの宝は、庭にある。

生野の空から、御竜車が三つ下る。

 

サマリアの旧名はクリである。

・・・下記はウィキペディアより抜粋・・・

サマリア(Samaria) は、パレスチナヨルダン川西岸地区の北部を意味する。

ヘブライ語ではショムロン(שֹׁמְרוֹן‎,Shomron)、アラビア語ではアッサマラー(السامرة‎‎,as-Sāmarah)。

 

サマリアは元来は、パレスチナ(イスラエル領を含む)北部に位置した北イスラエル王国の首都の名であった。現在はアラブ人居住者が大半を占めるため、アラビア語サバスティーヤ(Sabastīya) と言うことが多い。紀元前772年の北イスラエル王国滅亡(アッシリア捕囚)後は、その旧領土一体にアッシリアによりサマリア県が置かれた。サマリア県はアッシリアに続くバビロニア時代にも存続し、紀元前586年南ユダ王国滅亡(バビロン捕囚)後は、その旧領土、すなわちエルサレム周辺も、一時的にサマリア県に併合された。

西岸地区北部をサマリアと呼ぶことはシオニストに好まれ、彼らはヨルダン川西岸地区ユダヤ・サマリアと呼ぶ。

「パレスチナ」というのはペリシテ人の土地、という意味であり、ローマがこの地からユダヤ性を奪うために改名した名前である。また「ヨルダン川西岸」というのは、ヨルダンが西岸地区を占領していた時代に、ヨルダン川に跨る国家であることを示すために付けた名前である。この地域の名称がもし「ユダヤ・サマリア」と呼ばれ続けたならば、シオニズム運動は別の展開を見せていた可能性がある。

 

 


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鶴島、亀島は山として今も残っています。 魏志倭人伝に記載された20日で着く投馬国の港は大門です

2015-09-16 14:19:21 | 邪馬壹国

2015年9月16日(水)

2015年9月15日にスタップサロン鍼灸院に広島からKさんご夫妻が来られました。

「大門から来ました」と言われます。

私は大変うれしく思いました。

魏志倭人伝に記載された20日で着く投馬国の港は大門なんですね。 

そこには江戸時代まで 鶴島、亀島があって、それはそれは風光明媚な港だったでしょうね。

今は、海が埋め立てられてしまっていますが、鶴、亀の山は今でも残っていますよ。

邪馬台国の謎を解こうと思ったら、カバラ(生命の樹)を理解し、その隠されたカバラの図形と磐座や神社や寺を照合しないと解けません。

机の上では解けません。 答えは山と磐座が知っています。 そしてその場所へと行けば教えてくれます。

 2013年1月6日未だ正月休みも開けないときに急に思いたって電車に飛び乗って一人で大門に行った日のことを思い出しました。

大門町誌「大津野のあゆみ」の上古大津野沿岸図の中に鶴島 亀島 が記されていたので、それを確かめに行ったんですね。

その時の写真は、「邪馬壹国 保存その3」に残していました。

その日、大門についてから空に浮かぶ怪しい雲の気配をづっと感じていた私でしたが、最後の最後に大門のホームに立って、鶴島 亀島を再度眺めていたとき、

ハッキリと鶴と亀の雲を私に見せてくれたのが、今でも忘れられません。 電車が入ってくる寸前でした。

   

 2013年1月6日 12:57 の撮影記録です。 鶴と亀、 分かりますかぁ!

・・・

ご主人様が施術されている間に、奥様に大門のことなどいろいろ教えていただきましたが、目に見えない誰かをお連れになられたのか、

またまた何かが始まるのか・・・。

施術を終わられたご主人様の表情は、最初の顔の表情とは全く違って見えました。 

スッキリ、シャキーン!と 健康そのもののお顔に変身して見えました。

テラファイトもお買い上げいただきましてありがとうございました。

テラファイトを大いに活用していただきまして、健康体で暮らされることを祈念いたします。

遠方より本当にありがとうございました。 感謝します。

  

 

大門はイエスの生命の樹の十字架で言えば、丁度その交点になります。 いかに重要な場所かということです。

生命の樹で言えば、セフィラの11番目のダートにあたる部分が現在の総社です。

間違いなくそこを中心に宮造り、都造りが進められ、そこへの入り口が大きな門、 大門という地名が現在まで残されています。

初代大王、大国主命=イエス・キリストが設計したカバラを見る限り、現在の首都東京に例えるならイエスはそれを岡山の総社に決めています。

神社で言えば、本殿が岡山の総社で、その入り口が大門。 奥宮が埴岡の里(現在の兵庫県生野、神河町)でした。

卑弥呼がいた邪馬台国の時代は、纏向(奈良)が首都的な栄え方をしたでしょうが、イエス様が活躍した99年までは一番栄えた都市は、現在の岡山だったであろうと私は考えています。

 


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邪馬台国新論

2015-08-11 12:34:48 | 邪馬壹国

2015年8月11日(火)

       秘密NIPPONの《超建国》裏返史  11月発売予定!!

プロローグ       

 朝、電車の窓から何の気なしに空を見上げる。うわ~~~、きれい!! なんだろう、あの色・・!! 白いモコッとした雲のわずかな切れ目に、うすい紫がかったブルーの、神秘的な色。その一層の雲は、まるでこの世とあの世を繋ぐトンネルの入り口のように見えた。あまりにも美しい、その色をとおして、神様が「それでいいんだよ」と応援してくれているようだ。

 私が不思議な世界へと誘われて丁度5年が来ようとしている。

 一切の宗教にも関わりのなかった私だったので、神社にもお寺にも教会にも行くことが無い人生を送っていた。でも、物心ついた頃からというのか、自我がハッキリと芽生え出した頃からというのか、なぜか、「神様も安心して姿を現す世界を造らなければ・・」と、いつも思っている私がいた。

 私は、少年時代から、ひとりで寝転がって空を見るのが、とても好きだった。

 宗教が説く神様ではなく、生まれた時から、いや、生まれる前からかも知れない、私を誰よりもよく知ってくれている、ある絶対的な存在がいて、それを私は「神様」とよんでいる。

 56歳7ヶ月のあの時まで、私は、ただただ一方的に神様に話しかけるだけで、神様が言葉を発してくれるとは想像もしていなかった。黙って空をながめては雲の形や流れを楽しんだり、野山を吹き抜ける風に身をさらして心地よい思いをしたりして、神様を感じていた。私にとっての神様は、そんな寡黙な存在だった。

 ところが、2010年8月11日、56歳7ヶ月のその日、私は、初めて、はっきりと、神様の声を宗像大社で聞いた。

よぉ来たのぉ

これが神様からの初めての言葉だった。そして、その時から、私は、神様が私に語りかけてきてくれる声が、だんだん分かるようになった。それは、しばしば直接的だったり、「そう言われている“気”がする」という状態だったり、また多くの場合には、人々の口を通して伝えられてきたりする。

 その声の主は、時に左耳から聞こえるのは空海様のようであったり、右耳から聞こえるのは天皇家の誰かのようであったりもする。そうやって聞こえてくると、ほとんどの場合、言われるとおりに動かないと、居ても立ってもいられない心境に追いやられる。

 まだ初期の頃のある時、私に契約を迫った神様との交渉の中で、白紙委任状にサインさせられる、という事態まで起きて、それまでの、ごく普通の生活を一変しないとならなくなった。建築家としての仕事はもちろん、偶然に偶然が重なってできあがった超自然的な器具ネオガイア・テラファイトを製造するにも販売するにも十分な時間を与えられることなく、神様の指示に、ただひたすら従う、という生活に完全に変えられてしまった。

 神社仏閣にもほぼ無縁の生活を長い間送ってきた私が、数え切れないほど次々と寺社めぐりさせられたり、穴掘りさせられたり、山登りさせられたり、事務所にいればいたで、テーブル上に大きな地図を広げて、真剣に、行ってきた場所や脳に響いてきた場所にポイントを打って、無数の線やら図形やらを描き続けて、一見、仕事らしい仕事もしなくなってしまった。かつての私を知る人達が皆、異口同音に「上森は頭がおかしくなった。気がふれた」と言って、去って行ってしまわれたのも無理からぬことと判っている。

 こんなにまで私を使って、神様は、いったい何をしたがっているのか? 契約を迫ってきた時、神様は必死の様子で「時間がない! 時間がない!」と怒るように言われた。

 はじめは神様の指示が何の脈絡もないものと感じていたのだが、地図にひかれた線が十字架を示すものであったり、そのうち、きれいな正三角形や二等辺三角形が描けて、図形の点と点の場所にそれぞれ大きな意味が見いだせてきたりして、これは、ただならぬことだとわかるようになった。

 神様からの声もやり方も相変わらず続いている。しかし、神様の方では本当に時間が限られているようで、今年、2015年に入ってから、特に5月の連休あたりから事態は急速に進み出した。

 5年間、神様と文字通り会話することで、神様の全知全能ぶりもわかるようになった。私たち、3次元に肉体をもって生きている人間は、実は、無限の力をもっているのだが、真実を覆い隠されているために、自身を限定してしまっている。3次元の眼で見える事物しか見えていない。見える世界と見えない世界、この世とあの世、この両方の領域で私たちは生きているのだが、この事実を知らないでいる。また、もっと言えば、私たちは、過去、現在、未来に同時に生きている。それは、神様と一致した時、つまり、自我をなくした時、たいへんよく感じられるようになる。

 もし、教えられ、思い込まされていた過去が、全く違ったものであるとしたら、当然、現在の状況も、未来の予測も、違ったものになる。ほとんど教科書的な歴史の知識のない私が、それこそ神様から直接教えられた“歴史の真実”を語ることで、その内容を誰かが信じてくれるなら、そして、たったひとりでも勇気をもって行動を起こしてくれる人がいるなら、明らかに現在も未来も、想像外の世界を創りだせる。

 最近、自分自身でも驚くくらい、神様はいろんな事を一気に、おそらく誰も知らないであろう事柄を、私に直接教えてくれている。とても信じがたいような、奇想天外な話である。

 

 丁度 5年前の今日8月15日でした。  今も神様はこの国の秘密を私に教え続けています。 

その教えられたことを「邪馬台国新論」として纏めてみました。

 

『魏志倭人伝』に合わない日本の史書

「邪馬台国」は、西晋の陳寿(ちんじゅ・233~297)の編纂した『三国志』(成立は280年以降と言われる)という中国の正史の中の「魏書(ぎしょ)」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(うがんせんぴとういでんわじんのじょう)、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に登場する国の名前だ。

つまり、中国の歴史書に記された日本の歴史なのである。紀元239年、倭国の女王卑弥呼(ひみこ)が魏に使節を送り、240年には魏からの使節が倭国に来た。『魏志倭人伝』は、主にこの時の魏の使節の見聞を元に書かれたと思われる。

その後、243年に倭国の使節が再び魏を訪れ、247年には再び魏の使節が倭国を訪れている。このとき、魏の使節は卑弥呼の死に遭遇し、『魏志倭人伝』には、その前後の様子も記述されている。

 問題は、この「中国の史書に書かれた日本」と「日本の史書に書かれた日本」がぴったりと合わないことである。日本で古代の正史とされているのは、『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)だ。

『日本書紀』には、神功皇后の条に唐突に『魏志倭人伝』からの引用があって、神功皇后を卑弥呼にあてようという『書記』の編纂者の意図が見られるが、前後に引用されている百済史との年代の矛盾が指摘されている。『書記』の編纂者は『三国志』を参照できる立場にあって、これをなんとか当てはめようという苦肉の策をとったのだろうが、引用のみで済ませて、日本側からの記述がまったくないのも不自然だ。

 要するに、合わないのだ。『古事記』、『日本書紀』には、編纂当時の政治状況が大きく反映しており、その当時の天皇家が日本を治めることの正当性と正統性を主張する意図で編まれているため、それに合わない国内のものは抹殺(焚書)し、国外のものは先の引用のようにごまかすか無視しているのだ。

 つまり「邪馬壹国」も「卑弥呼」も、日本の正史には登場しないと言っていい。

果たして、どこにあったのか? 大和朝廷との関係はどうなっているのか?

この謎は解けるのだろうか?

 

魏志倭人伝が語る邪馬壹国への行程

 

さて、畿内・九州の邪馬台国論争が始まったのは江戸時代後期というから、すでに150年は論争を続けていることになる。

なかなか決着がつかない理由のひとつは、『魏志倭人伝』に記載されている「里程」にある。

これがなかなか曖昧で数々の解釈が可能なのだ。

 

見てみよう。(「・・・」は中略箇所)

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を度る、千余里、対馬國に至る。・・・又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。一大國に至る。・・・ 又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。・・・ 東南陸行、五百里、伊都國に到る。・・・東南奴國に至ること百里。・・・ 東行、不彌國に至ること百里。・・・南、投馬國に至ること、水行二十日。・・・ 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。

これは、なかなか解けそうもない。別のヒントはないのだろうか?

このような記述がある。

女王國自り以北、其の戸数・道里、得て略載すべし。其の余の旁國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に已百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に對蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

「女王国より以北」については、いろいろ議論はあるだろうが、要するに、今まで記述してきた国については、邪馬壹国への行程にあたり実際に使節が通った国なので、その概要(本論考では省略した。「・・・」の部分にあたる)を述べることができたが、以下の国については、名前だけを挙げるということだ。

 

魏志倭人伝に出てくる、耶馬台国の周辺国

 

さて、ここに挙げられた国名だが、神奈備こと瀬藤禎祥氏のホームページの解釈が非常に優れているので、引用させていただくことにする。瀬藤氏は「女王国周辺とその余遠絶国と神々」と題して、細かく神社名とその住所等を記載されているが、ここでは、国名に関する記述だけ抜き出す。

 

斯馬國 しま 三重県南部 志摩

已百支國 いほき 三重県 五百木

伊邪國 いせ 三重県の伊勢から鈴鹿山脈東部から北は養老山脈にあたる平地

郡支國 とき 奈良県添上郡都祁

彌奴國 みの 美濃、尾張である。

好古都國 こうち 大阪府河内

不呼國 ふこ 京都府綴喜郡、久世郡。木津川、宇治川等の合流点。ここに封戸と呼ばれる渡りがあった。

姐奴國 たな 滋賀県栗太郡、草津市と信楽町。

對蘇國 やす 滋賀県野洲郡、琵琶湖西側から越前までを考える。

蘇奴國 そう 層富。奈良市から北部、京都府相楽郡。

呼邑國 こう 滋賀県甲賀郡 信楽、水口、甲賀。

華奴蘇奴國 かんそう 奈良県添上郡。

鬼國 き 山城の紀伊郡、木津川北部から京都市の市街地付近。

為吾國 あが 三重県伊賀郡、伊賀上野、名張。

鬼奴國 きの 和歌山県、三重県南牟婁郡

邪馬國 やま 京都府 京都市北部、亀岡、園部、丹波高地

躬臣國 こし 北陸方面、越前、越中、越後、近江伊香保

巴利國 はり 兵庫県播磨

支惟國 きみ 岡山県広島県。吉備。備前、備中、備後

烏奴國 えぬ 上野、北関東

奴國 な 信濃、長野県

 

ちなみに、瀬藤氏の説は「邪馬台国畿内説」で、魏の使節の経路は日本海から来たとしている。

 上森は、この「周辺国」を邪馬壹国の「境界線」としてなぞって、その版図を比定した。その結果、邪馬壹国は、但馬、丹後、丹波、摂津、大和にまたがる国土であることがわかった。

 そして、行財政を司る首都は大和の纏向(まきむく)で、女王卑弥呼がいた都は、『播磨国風土記』に「埴岡の里(はにおかのさと)」と記された、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがるエリアだったと推定したのだ。

 

魏の使節は生命の樹を辿って倭国に来ていた

 

さて、版図が比定できたら、次は、魏の使節のルートだ。

 畿内への航路としては、日本海の外海を通るより、やはり瀬戸内海の方が良いのではないかと思われる。理由は3つある。

図をご覧いただきたい。

前出の「イエス・キリストの生命の樹」である。

 

 

この図形は、生野の八幡山から長崎の伊王島へのラインを中心として重要拠点の位置を決めるべく作られたまさに「古代日本の設計図」だ。

11番目のセフィラ、「ダート」は、福山・大門を入り口とする総社だ。

 この「日本の設計図」を霊的・精神的な意味で非常に重要なものと考えていた倭国の人々であれば、当然航路はこの「中心線(センター・ライン)」を意識して決められ、日本海ではなく、瀬戸内ルートになると思われる。そして、出雲大社と馬路を結ぶ「パス」とセンターラインの交点に重要な寄港地である大門がある。

 もうひとつは「航海の安全」である。瀬戸内海も流れのきつい難所が数か所あるが、台風や嵐の影響は外海よりは安全である。

最後に、監視ができることも重要だ。瀬戸内海沿いには海がよく見える山が両岸にあり、船の状況が手にとるようにわかるのだ。

 

順序が逆のようだが、先に結論の地図を示しておく。

『魏志倭人伝』の「郡」は「帯方郡」で、現在のソウル付近と言われる。港としては仁川(インチョン)である。現在は空港があって、ソウルの玄関口になっている。

さて、船の到着地の西宮にも、「仁川」という川、そして地名がある。六甲山を源流とする武庫川の支流の川であり、流域の地名にもなっている。出発地と到着地に同じ地名をつけたのである。すなわち「仁川」から「仁川」へのルートだ。

仁川(インチョン)から朝鮮半島を海岸沿いに「狗邪韓国」まで行く。狗邪韓国の港、馬山(マサン)は古代からの良港であり、元寇のときも基地として使われた。

馬山から対馬に渡る。ここで注意しなければならないのは、対馬で船を乗り換えるということだ。対馬は、北の島と南の島でできていて、「対(つい)の島」という意味なのだろうが、実は陸続きなのだ。小さな舟ならば、陸を運ぶことができるが、大きな船は無理である。そして、なぜか「対の島」ではなく、「対の馬」と書くのだ。

馬山→対馬と、対馬→壱岐→呼子は別の航路で、それぞれに習熟した船乗りがいたのではないだろうか。

 

 

使節のルートはレイラインにも一致する

さて、この図から分かるように、中国の道教の聖地・千山と、使節の出発地である帯方郡(仁川)、その使節が立ち寄る狗邪韓国(馬山)、対馬、壱岐、そして九州本土への上陸地点の呼子は一直線になるのだ。

 上森はかつて千山を訪問した際に、ピラミッド型の形のよい山が、千山を起点に一直線に並んでいるのを見て、コンパスグラスで方角を測っておいた。その角度が真北から145度、つまりこの直線の方向を指していたのだ。

 

2010年以来、上森が教えられているのは、古代からの重要な拠点は、一直線に並んだり、正三角形、直角三角形、二等辺三角形などのきれいな図形を描くことだ。また、そのために、ピラミッド状の美しい山が作られていることもある。

ここにもまさしくそれがあるのだ。

 

「福」の地と円錐形の山を通る七福神の道だった

 

呼子に上陸した使節の一行は、福吉、福岡、福津と、わざわざ陸路を歩かされる。船で行った方が早いのだが、陸路を行くことによって、国防の為に、島か半島を横断したように見せかけて、地理的な関係が分かりにくいようにしているのだ。

そして、航海の安全を守護しくれる宗像大社(弁財天の総本宮でもある)に参拝し、再び船に乗って、関門海峡を通り、八幡(ヤハウェ)信仰の拠点・宇佐八幡宮を船上から拝し、「イエス・キリストの生命の樹」の「ダート」でり、物部王国の総本部・総社(大名持=大国主=大黒様を祀る)への入り口、福山の大門までやってくる。これが水行二十日で、ここが『魏志倭人伝』の「投馬国」にあたる。大門には、鶴島・亀島があり、瀬戸内海の潮の変わり目になっている。

大門を出た一行は、瀬戸内海をさらに進み、西宮に上陸する。上陸地点の目印はきれいな円錐形の甲山(かぶとやま)である。ここには戎(えびす)神社(戎神社の総本宮)があり、甲山の東には仁川がある。

西宮から、宝塚、三田、篠山、春日、福知山、粟鹿を通って、卑弥呼の住む埴岡の里・栗まで1ヶ月の行程だが、陸路といっても、岸から馬や人力で船を曳いて川を遡れるところは、船で行った可能性が高い。西宮から武庫川を遡れば、宝塚までは十分に行ける。

西宮から栗までの間にも、要所要所の目印に、円錐形の山が配してある。三田の有馬富士、春日の小富士山、粟鹿の小倉(おぐら)富士・・・実際に踏査すればもっとたくさんあるに違いない。

「福」のつく土地と、弁財天、戎神の総本宮を通り、大黒天の総本部を意識したこのルートは、「七福神の道」ということもできるのだ。

 

 

国は国境線の警護が重要懸案事項である

 

九州の方から瀬戸内海を船で来て、生野・神河の「埴岡の里」に行くのなら、姫路から市川という川沿いを今のJR播但線のルートを遡れば、ずっと早く着ける。しかし、卑弥呼の時代、ここは邪馬壹国の領土ではなかった。安全のためには、領土が海に接している西宮から、ずっと領地を通って来てもらう方が、日数はかかるが、安全である。

卑弥呼の時代より以前、「大乱」が起こる前は、姫路から北上するルートも同じ国の領地であったのだが・・・。

 

 

 「南」について

 

今まで、「邪馬台国畿内説」を悩ませてきたのが、方角の問題である。里程の書いてある部分をもう一度引用してみよう。

 

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を度る、千余里、対馬國に至る。・・・又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。一大國に至る。・・・ 又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。・・・ 東南陸行、五百里、伊都國に到る。・・・東南奴國に至ること百里。・・・ 東行、不彌國に至ること百里。・・・南、投馬國に至ること、水行二十日。・・・ 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。

 「東行」「東南陸行」はそれぞれ1回出てくるが、「南行」は出てこない。原文では「南至投馬国」「南至邪馬壹国」となっている。

 さて、1冊の小冊子がある。兵庫県美方郡香住町の香住観光協会が発行した『御崎(みさき)平家村のおはなし』だ。

そのなかに、こんなくだりがある。

 壇ノ浦の合戦に敗れた平家の一門の内、清盛の異母弟にあたる平教盛(たいらののりもり)は、そのとき入水したことになっているが、実は落ちのびて、香住に来たという。

その教盛が落ちるときに言った言葉が、

「この壇ノ浦よりも遥か南に壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮らしていけるだろう」

というだ。結局、日本海を東に流されて香住に着くのだが、壱岐・対馬は、壇ノ浦からは、北西方向だ。「この壇ノ浦よりも遥か南」とはどういうことだろう。「南」は方角を指していないのだろうか。

 この小冊子は観光協会が地元に伝わる伝承を元に作成したもので、「史料的価値なし」あるいは「勘違いか書き間違えだろう」と言って片付けてしまえばそれまでである。しかし、上森の探究には、こういったことがつきものなのだ。ヒントは思わぬ形でやってくるのだ。

 では、「南」の字そのものを検討してみよう。まず上の「十」は「草の芽」だ。そして「冂」は「囲い」、「 」は「ナン」の音符であるとともに「入れ込む」意味を含んでいる。全体として「草木を囲いで囲って、暖かい小屋の中に入れ込み、促成栽培をするさまを示し、囲まれて暖かい意。転じて、暖気を取りこむ南がわを意味する。」(『学研漢和大字典』藤堂明保編より)

 

 

灘のつく海域

 

 さて、「囲む」といえば、この航路を見ていると、入江・内海に「灘」のつく地名がたくさんある。現在の地図で分布を調べてみた。

 

 黒丸が「灘」、白丸が「湾」である。地図以北も「湾」はあるが、現在では「灘」は「鹿島灘」が北限である。以前には「常盤灘」と呼ばれた海域があり、福島県沖までがその範囲だ。

今の地図にはないが、神戸沖は「摂津灘」だった。

他にも近世に呼び名が変わってしまっているケースもあるが、この図は、ある勢力の「制海権」をあらわしているように思える。

 

 ちなみに「灘」を漢和辞典で調べると、「水がながれなやむあさせ。」が元の意味である。「難」は水にとっての「難」なのだ。それが、日本に入ってきて「船にとっての難」すなわち「陸からやや離れて、波が荒い、航海の難所。」の意味に転じることになる。

 図を見ると、元の意味と日本での意味の過渡期に名づけられたのか、瀬戸内海の穏やかな海域にも、「灘」と名づけられている箇所がたくさんある。地形では、両側を岬に囲まれ、やや内側に湾曲した海岸線の場所につけられていることが多いようである。ちなみに、瀬戸内海での最大の難所は「音戸の瀬戸」と名付けられている。

 さらに、海域だけでなく、地名としても使われているので、国土地理院のウォッちずで「灘」と入れて検索をかけた結果がこの図である。海域ならずとも、西日本の海岸沿いにほぼ限定されていることがよく分かる。

石川県の河北潟、島根県の宍道湖と中海の畔に集中しているのは、それらの中海を「灘」と認識しているということだろう。また、淡路島の南の海岸沿いに並ぶのは「海に面した」という意味合いで、小豆島の灘山も同様だろう。

高知県は、湾の名前こそ現在は「土佐湾」だが、かつて「土佐灘」と呼んだ名残か、「灘」のつく地名はかなりある。それも「灘」1字を地名にしていることが多い。内陸部に1ヶ所あるのは、湿地帯だったのかもしれない。岡山県の内陸部には「灘池」がある。

岐阜県にある2ヶ所は、川の合流地点を「灘」と意識しているようだ。あるいは、水軍が川を遡って地名を運んだのかもしれない。

 海外の「灘」のついた地名が紹介されているウエブサイトもあり、大連の「老虎灘(ろうこたん・ラオフータン)」は入江というよりも河口、上海の「外灘(ワイタン)」は川の合流地点、古菫灘(ことうたん)は砂漠の中の小さな川の畔と、いずれも川で、日本の「灘」とはつけ方が違うようだ。日本の「灘」の地名の分布には、やはりある部族(水軍?)が関係しているように思える。

 それは、邪馬壹国への航路を守護していた水軍なのではないか。その勢力範囲を後に平家が引き継いだのではないか。平清盛が宮島の厳島神社に深く帰依し、瀬戸内海を航路とした日宋貿易に力を尽くしたことはよく知られている。

 

 

南無

 

「南無」を辞書で調べると、「サンスクリット(古代インド語)のナマスおよびナモーの音写。敬意、尊敬、崇敬をあらわす感嘆詞。」とある。

仏教用語としては、その通りだが、「なむ」と発音する言葉は、日本語には係助詞、終助詞、助動詞、連語、さらに「並ぶ」「並べる」という意味の動詞もあって、非常に身近な言葉だ。

もともと、漢訳の経典に登場したものとはいえ、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「南無大師遍照金剛」「南無釈迦牟尼如来」と庶民の間に流布したのは、おそらく日本だけだろう。

「南無」の意味は、日本語では「帰依します」だが、「南」(単独の発音「ナン」は「なむ」とほぼ同じ)の元の意味「囲まれて暖かい」を加味すると、さらに実感がわくのではないであろうか。「阿弥陀さま」「法華経」「お大師さま」「お釈迦さま」に守られて心から安心できる境地になるということなのだ。

 さて、再び「南」の字だが、「囲んで保護する」という意味合いと、「灘」と同じ「ナン」という音から、「内海」あるいは「領土内の海」「勢力範囲内の海」「安心できる場所」を意味する言葉であったと考えてみると『魏志倭人伝』も「平教盛の話」も合点がゆく。

 ここからはやや空想だが、魏の使節は太陽とか星を見て、方角を確認したのだろうか?あるいは、案内役の倭人に聞いたことをそのまま受け取ったのだろうか?

案内役の倭人が、魏の使者に「向かっている方向はどちらか?」と聞かれて「ナンだ」と答えたとしたらどうだろうか? 彼は、魏の使者をだますつもりなど毛頭ない。「内海で勢力範囲内で我々が安心できる航路だ」と答えたのだ。

 

 

女王国の東

 

畿内説を悩ませてきたもうひとつの記述が「女王国の東」である。引用してみよう。

 

女王國の東、海を渡る、千余里、復た國有り、皆倭種。

 

畿内説では、東に海がないからである。

上森説の邪馬壹国の版図は、日本海岸まで達しているので、東へ海を渡ることができる。千余里は1里=77mの短里で計算すると、77km余なので、80kmくらいか。

この距離は、丹後半島の伊根、あるいは宮津、舞鶴から出発して、敦賀湾の奥の敦賀までの距離に相当する。ここには気比(けひ)神宮という神社があって、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)というこの神社特有の神様だ。この神様の降臨の地、「土公」と呼ばれる塚には、大きな木が生い茂っているが、卵型の岩が八角形に並べられていて、最澄さま、空海さまが7日7夜の祈祷をされたというから、ただ事ではない。

また、気比神宮の摂社に角鹿神社(つぬがじんじゃ)があり、『日本書紀』に垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が祀られているのも注目に値する。

 

 

邪馬壹国の正しい読み方は「しゃもいっこく」

 

魏志倭人伝の原文では、卑弥呼が君臨した国はほとんど「倭国」あるいは「女王国」と表記されているが、一ヶ所だけ、邪馬壹国という国名が登場する。ところが、日本では「壹(壱の旧字)」は「臺(台の旧字)」の誤記とみなされ、一般には「邪馬台国」と呼ばれている。

どんな字が間違えたと言われているのか、大きく表示してみよう。

   

                

    

果たして、間違えるだろうか?

今に残る写本の時代はかなり新しいものではあるが、写本を作ったのはその道のプロである。内容は分からなくても、漢字の写し間違いは可能性が低いのではないか。伝わる間に草書が入ったのなら、写し間違えもありうるが、歴史書に草書は使わないのではないだろうか。

上森は原文の「壹」のまま読んで、これを「しゃもいっこく」と読む。

では、漢字をひとつずつ調べてみよう。

「邪」には、ふたつの意味がある。

ひとつは「よこしま」という意味で、この意味で使う場合、呉音では「ジャ」、漢音では「シャ」と発音する。ちなみに漢方医学では陰陽がバランスを失ってひずんでいる状態をこの字であらわす。「風邪(フウジャ・かぜ)」もそのひとつだ。

もうひとつの意味は「や・か」で、文末につけて疑問をあらわす。この意味のときの発音は、呉音・漢音ともに「ヤ」である。山東半島の付け根には「琅邪(ろうや)」という地名があり、徐福の出身地という説もある。

「馬」は「うま」だが、「向うみずに突き進む」の意味を含むという。

この字は呉音では「メ」、漢音では「バ」、唐宋音では「マ」と発音する。

「壹」  は「ひとつ」の意味で、呉音が「イチ」、漢音は「イツ」である。

 「国」は「くに」、呉音・漢音ともに「コク」と読む。

 「漢音」は、遣唐使が持ち帰ったそのころの長安の漢民族の正しい発音、それに対し「呉音」はそれまでに日本に伝えられていた発音なのだが、長安の言葉からすると「いなか言葉」のようなニュアンスで「呉音」と呼ばれたらしい。「唐宋音」は、鎌倉時代以降に禅宗の留学僧らによって伝えられた発音だ。

 

 「邪馬壹国」は、「邪」を「よこしま」の意味とすると、呉音では「ジャメイチコク」、漢音では「シャバイツコク」となる。

 「邪」が「や・か」なら、呉音では「ヤメイチコク」、漢音では「ヤバイツコク」となる。

 状況から考えて魏の使節は漢音を発音していた可能性が高い。つまり「シャバイツコク」または「ヤバイツコク」である。

 

 さて、上森は、2012年2月、丹後半島の竹野(たかの)神社の社殿の正面上部に掲げられた、つがいの鶏の彫刻を不思議に思っていた。この場所には通常なら竜や鳳凰の彫刻があるはずだからだ。一年後、これは「軍鶏(しゃも)」だと思い当たった。それは、この国の基礎をつくった「モー・シェ」の名前をさかさまに発音して「シェ・モー」そして「シャモ」。

 この神社の別の社の扉にはユダヤの「エフライム族」を象徴するブドウを背景にイエス・キリストを象徴する狐が彫られていたり、その脇障子には、仙人が息を吹くとその息の中にもう一人の仙人が現れる彫刻があって、日本で生まれたモーセの帰国をあらわしていて、神社全体としてこの国の基礎をつくった人たちへの尊崇の念が表現されていたのだ。

 そして、上森は「邪馬」も「シャモ」であり、「邪馬壹国」は「シャモイッコク」と呼び、意味は「モーセの律法を第一とする国」だと考えた。

 では、魏の使節は「シャモイッコク」の「モ」にどうして「馬」の字をあてたのだろう。

 漢和辞典によれば、「馬」の字を「マ」と読むのは後の時代なので、卑弥呼の時代なら、「馬」と書いてあれば「バ」と読んでしまうだろう。

 さて、鉱物の「雲母」は「ウンボ」ではなく「ウンモ」と発音する。天皇の生母「国母」は「コクモ」と呼ばれる。「m」も「b」もいったん唇を閉じてから、母音を発声するときに唇を開く。「m」と「b」は相互に変化しやすい音なのだ。

もし倭人が「m」を「b」のように発音する人たちだったら、正式名称「シャモイッコク」を「シャボイッコク」のように発音したであろう。この「ボ」を写すのに「馬(バ)」の字を使うという可能性も十分に考えられる。

つまり、『三国志』の読者の中国の人たちは「シャバイッコク」と読み、倭人は「シャボイッコク」と発音していたはずだが、正式名称は「シャモイッコク」なのだ。

 または、漢和辞典には「唐宋音」と書いてある「馬」の「マ」の発音が、魏の時代から行われていた可能性もある。もしそうならば、このような煩雑な考察を経ずに、「シャマイッコク」、母音を軽く読むと、「a」が「o」になって「シャモイッコク」の読みが可能だ。

 上森が千山に行ったとき、中国の知人に邪馬壹国を読んでもらったら「シャモイーグァ」と発音した。現代の中国でも「邪馬」は「シャモ」なのだ。

 さらに、魏の使節はモーセやキリストを意識していた可能性もある。モーセが日本に理想国家をつくろうとした拠点は、今の鳥取県の東郷池の畔、馬ノ山だ。「馬」はモーセの象徴として、「対馬」「馬路」「馬山」などの地名にも使われた。『魏志倭人伝』のなかにも、「対馬」以外に「斯馬国」、「邪馬国」、「投馬国」がある。

さらにキリストは、馬小屋で誕生したと伝えられている。やはり「馬」に縁があるのだ。というよりも、キリストはモーセの血をひいているので、それを示すためにこの「馬小屋」の話が作られたのだ。

そのモーセとキリストが理想国家をつくろうとした国、またそのふたりの墓を祀る国、「邪馬壹国」に「馬」の字を意識的に使ったとも考えられるのだ。

そうなると、一般には「邪」も「馬」も悪字で、中華思想から周辺国の名前に意識的に悪字をつけたと言われているが、「馬」は悪字ではなくなる。

ちなみに「卑弥呼」の読みであるが、呉音では「ヒミク」、漢音では「ヒビコ」となる。「ヒミコ」という読みは呉音と漢音を混ぜてしまっているが、よいのだろうか。われわれはあまりにも「ヒミコ」という読み方に親しみ過ぎているような気もする。

 

 

魏志倭人伝が伝えた卑弥呼の死

 

さて、248年に卑弥呼が死んだとき、ちょうど来日していた張政がその様子を見聞することになった。もっとも、国内のどこにいたのかは分からない。記事は人から聞いた話のようでもある。

 卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、奴卑百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺(ちゅうさつ)し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壹與(いよ)年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。

 

 宗女壹與については、この記述の通りではないと、上森は教えられている。これについては稿を改めることにするが、ここではこの記述にしたがって論を進めて行く。

 この墓も埴岡の里に実在する。上森が「婀月山」と名付けた779mの山の頂に、底円部直径100m、上円部の直径50m、墳丘の長さ150mの、どこから見てもきれいなドーム型の墓が作ってあるのだ。

 

(七宝寺から眺める女王卑弥呼の陵墓)

 

上森は殉葬の場所も教えられている。

 『魏志倭人伝』には倭の地の風俗や自然などの記述もある。その中に「山椒」があるが、今でも山椒は神河町の特産のひとつだ。また、『魏志倭人伝』に書かれている「橘」と同じ柑橘類の「柚子」も神河町の特産品だ。そして、猿や雉もいる。

さて、張政らは、政情が不安定な中、帰国することもできずに、命の危険を感じつつじっと身をひそめて不安な毎日を過ごしていたことだろう。帰国が決まったときには、さぞほっとしたに違いない。

 

政等、檄を以て壹與を告喩(こくゆ)す。壹與、倭の大夫率善中郎将、掖邪狗等二十人を遣し、政等を送り還す。因りて臺に詣り、男女生口(しょうく)三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。

 

魏から来ていた張政は、壹與に「そちが倭国を治めるのを、大帝国の魏が承認するので、しっかりやるように」との文を送った。それに対し、壹與は、先に「率善中郎将」の位を魏から賜った掖邪狗ら20人を、張政に同伴させて魏に帰国させた。そして魏の都に至り、男女の生口30人を献上し、そのほか、白珠5000孔、青くて大きな勾玉を2枚、織物20匹を貢いだとのことだ。

 

ここで、「臺」(魏の都、洛陽の中央官庁のこと)の字が使われていることにも注目したい。

そして少し前の卑弥呼が存命中の243年の記事には、

 

 其の四年、倭王、復た使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木 ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す

 

とあり、「壹拝」(拝受すること)という熟語も使われている。筆記者はきちんと「臺」と「壹」の区別をしているのである。すなわち、国名は原文通り「邪馬壹国」、宗女の名前もやはり原文通り「壹與」とすべきだろう。

 ついでながら、この使者の名前、伊声耆と掖邪狗は同じ人物を2重に表記したものとも言われているが、旧約聖書のアブラハムの子、「イサク」を意味するのではないだろうか。もちろん本人ではないが、イサクにちなんで名づけられた、ということだ。

 

 

        邪馬台国の謎は完全解明されました


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南・・・灘は、平家の人達の海上国家圏を表す

2015-07-13 11:40:32 | 邪馬壹国

2015年7月13日(月)

2012年8月28日のブログに、卑弥呼さんの生まれ故郷に行って教えられたことを書いていました。

庵月へ行って分かったことは、神崎郡神河町にある八幡山を取り囲む集落に猪篠(いざさ)という地名がありますが、字こそ違いますが伊笹(いざさ)という地名や長谷という地名も共通してあります。

そしてイザサには古い古い歴史があるようです。

偶然でしょうか・・。偶然ではないようです。

そして庵月さんにいただいた香住観光協会発行の「御崎 平家村のおはなし」を読むなり、??

んん??! 

・・・公家の門脇宰相平教盛(たいらののりもり)という人は、老中と共に船に乗っていくことにしました。

「この壇ノ浦よりも遥かに壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮していけるだろう」 という記載箇所がありますが、壱岐・対馬は壇ノ浦からに位置します。

南北がまるっきり逆に言われています。

・・・

ふと思ったのは、魏志倭人伝の南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。

・・・

遥か南に・・を 遥か難に・・ と書き変えたら 間違いでもありません。

難して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。・・と書けばこちらも問題ありません。

魏志倭人伝の書き手も平家の伝記を書いた人も、難と南の文字を別に気にすることなく記載したのでしょう。

南・・・灘は、平家の人達の海上国家圏を表しているということでしょう。

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素晴らしい古代史研究家が居られましたねぇ

 灘の謎  


 

 周防に残る九州年号のことをぼんやりと調べていたとき、周防灘という地名(海名)に気がついた。
 灘は海流の激しい難所だと思い込んでいたのだが、周防灘が海の難所だとはとても思えなかった。そこで地図を開いて灘を探してみた。瀬戸内海は灘だらけである。伊予灘、安芸灘、燧灘、水島灘、備後灘、播磨灘、斎灘。陸地には灘崎があり、神戸の灘区もある。陸に遠く波の荒い海路という辞書の解釈はとても通用しない。
 九州の周囲には玄海灘、五島灘、天草灘、日向灘。東海にいくと熊野灘、遠州灘、天竜灘、相模灘、鹿島灘。日本海側は少ないが、響灘、五木寛之の小説で有名な内灘がある。縮尺の大きな地図で探しただけなので漏れはあるだろうが、こうしてみると、灘のないところは出雲、東北、北海道といったところである。
 灘はたんに海を意味しているように思われる。海とは別系統の言葉であろう。
 小泉保の『縄文語の発見』からの推測で、灘のないところは縄文人の領域ではないかと考えた。逆にいえば、「灘」の地名の残るところは、弥生人の進入地。とすれば、灘の語源は朝鮮語であろうか。朴炳植の『日本語のルーツは古代朝鮮語だった』に、高句麗語では海はもとバタラ、後にバタになったと書かれていた。清音になるとハタで、海の響きがある。もうすこし変化するとワタ。ワタツミはワタツウミの縮約形か。
 灘は中国語ではナン、タンで荒い海の意味。ナダは和訓で海の意味。灘の文字のナの音でかろうじて両者が合体した。万葉集3893に「比治奇の奈太」とあるので、遅くとも730年頃にはナダという語が定着していたことがわかる。高句麗語のバタが子音の変移で日本語のナダになったというのは、時間的に「難」があるだろうか。
 


その後の灘

大分県 国東半島北は「祝灘」(古名・伊波比) 岩波版『風土記』p.425
国東半島の杵築市には「奈多八幡」「灘手」があり、沖合は「黄硫灘」(「豊後灘」とも) 四国側は「三崎灘」
福岡県 志摩半島には「灘山」、その反対側、海の中道の付け根には「奈多」
長崎沖は「角力灘」
徳島県太平洋岸は「海部灘」  徳島市沖は「薩摩灘」 
徳島県海部郡牟岐町「灘」(古名・奈汰浦) 小学館版『風土記』
愛媛県 双海町には 「上灘」「下灘」
瀬戸内海 倉敷沖は「阿智灘」
兵庫 高砂市沖は「響灘」----(これは源氏物語を近畿に置き換えたために捏造された地名か?)
出雲 斐伊川河口には「灘分」「灘橋」
石川県、内灘砂丘の沖は「能登灘」 石川県 富山湾七尾市沖は「灘浦」 富山県氷見市沖は「越中灘」 


外国の灘

中国の大連には「老虎灘」があり、浜辺には「虎灘楽園」という遊園地?がある。
上海には「外灘」(わいたん)
敦煌の西の砂漠の中には「古董灘」(ことうたん)
北朝鮮で2004年に爆発があった山の中は「月灘里」
放馬灘 (紙の起源については,西暦105年に中国で蔡倫が麻のぼろや樹の皮,漁網などを原料にして紙を作り当時の皇帝に献上したというのが定説になっている。1986年か7年に,中国の放馬灘で出土した紙(地図)が紀元前のものであるとされ,これが今のところ最古の紙といわれている。当時すでに紙が記録材料として使われていたことが分かり,大きな発見であった。)

・・・

魏志倭人伝の航海航路は灘とついた海域を通ってくることがわかります。 

灘を通ってくることを「南し」と表記し、その灘・南は平家、

すなわち、モーセ、イエス・キリストの制海圏だったと言えるでしょう。

このことを中国の千山から、女王卑弥呼が住む都、埴岡の里、

現在の神河町へと七福神様達は宝船に乗りながらやって来られたと言うことです。

 



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神河町の栗は古代イスラエルの都サマリアに由来する?

2014-11-27 11:29:07 | かごめかごめの真実とは

2014年11月27日(木)

女王卑弥呼の古墳がある神河町の八幡山連峰の西麓に「 栗 」とういう集落があります。

ここ栗に今から3000年前に、カルクーと呼ばれた古代イスラエルの都サマリアの関係者でもあった私達の先祖が帰ってきたと私は考えます。

この方々は、カリア人、クリ人と呼ばれ、高句麗にも都を築いたようです。  高句麗のクリも栗も発音は同じです。

そして高句麗があった、現在の中国遼寧省鞍山市にある道教の聖地である千山と、ここ神河町の栗との関わりに重大な秘密があります。

そのことを生命の樹(カバラ)という目には見えない設計図や巨大地上絵などで現代の私達に先人たちは古代の秘密を解けるようにしてくれていました。

     

そして、徳島の粗谷地方に残る謎の神楽歌こそ、生野、神河町の秘密を教えてくれていると私は推測します

この歌が歌われた時代、1里を0,5㎞で計算すると、丁度現在の生野、神河町の境界あたりから丁度4.5㎞で栗に行きつきます。

九里きて栗に行って九里もどるとは、邪馬壹国の女王が住む都の地理的条件(栗から南は投馬国である)を教えていると考えています。

 

生野(イヤ)のそばから、御竜車が三つ下る。

九里きて、栗行って、九里もどる。

朝日かがやき、夕日が照らす。ない椿の禰に照らす。

生野の谷から何が来た。

恵比寿、大黒、積みや降ろした。

伊勢の御宝、積みや降ろした。三つの宝は、庭にある。

生野の空から、御竜車が三つ下る。

 

サマリアの旧名はクリである。

 ・・・下記はウィキペディアより抜粋・・・

サマリア (Samaria) は、パレスチナヨルダン川西岸地区の北部を意味する。

ヘブライ語ではショムロン (שֹׁמְרוֹן‎, Shomron)、アラビア語ではアッサマラー (السامرة‎‎, as-Sāmarah)。

 

サマリアは元来は、パレスチナ(イスラエル領を含む)北部に位置した北イスラエル王国の首都の名であった。現在はアラブ人居住者が大半を占めるため、アラビア語サバスティーヤ (Sabastīya) と言うことが多い。紀元前772年の北イスラエル王国滅亡(アッシリア捕囚)後は、その旧領土一体にアッシリアによりサマリア県が置かれた。サマリア県はアッシリアに続くバビロニア時代にも存続し、紀元前586年南ユダ王国滅亡(バビロン捕囚)後は、その旧領土、すなわちエルサレム周辺も、一時的にサマリア県に併合された。

西岸地区北部をサマリアと呼ぶことはシオニストに好まれ、彼らはヨルダン川西岸地区ユダヤ・サマリアと呼ぶ。

「パレスチナ」というのはペリシテ人の土地、という意味であり、ローマがこの地からユダヤ性を奪うために改名した名前である。また「ヨルダン川西岸」というのは、ヨルダンが西岸地区を占領していた時代に、ヨルダン川に跨る国家であることを示すために付けた名前である。この地域の名称がもし「ユダヤ・サマリア」と呼ばれ続けたならば、シオニズム運動は別の展開を見せていた可能性がある。

 

 


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神仏の祀りかたの原型が大地に印されていました

2014-11-26 10:46:34 | 邪馬壹国

   メノラーの地上絵の空撮に成功しました

2014年11月26日(水)

日本の一般家庭では、神棚や仏壇に一対の榊をお供えします。

榊とは神様の木と書きますね。

そして毎朝、新鮮な水を朝一番にお供えします。

兵庫県の中央に位置する生野、神河町には鶴と亀や、

龍(玄武)やエジプトの女神ハトホルなどの巨大な地上絵が山を使って造形されていました。

なんとその地上絵郡を拝むように、水平距離で1,8㎞の巨大な榊の地上絵が造形されていました。

下の画像はグーグルアースで発見した当初の画像です。

  

そして、下の画像は、 グーグルアースでフィルムが被せられたり、見えないように細工されてしまいましたので、

証拠保全の為に、上空から撮影した画像です。

  

そして・・下の画像はメノラーを中心にしたイスラエルの国章ですが、このメノラーこそ日本で言う榊にあたるものです。

日本神道とユダヤのハーモニーを垣間見れるようです。

そしてそして・・・、なんと神河町役場から巨大な榊の上部が見えるのですが、その頂上部を超えたところに、

なんとなんと、1㎞ほどの巨大なひょうたんの地上絵も造られていました。

 

そしてそのひょうたんの口からは、神様の息吹とでも申しましょうか、新鮮な水がいつもこんこんと大地から湧きだし・・、

その神様の水は沢となって流れて、 なんとなんと・・・

滝から落ちて、直径3mもありましょうか、大きな壺に満々といつも新鮮な水が溜まり溢れ出す仕掛けで造られていました。

そしてその大きな壺は、地元では亀壺と呼ばれているようですが、おそらくその存在を直接、壺まで行って見た人はほとんど居られないようです。

いわば、幻の亀壺のようです。

 

上の画像をよく見ていただけますでしょうか。

滝の壁面には、大きな大きな女性の横顔が描かれていますが、女神様でしょうか。

私には、アイヌの女性に見えますが、皆さんの目にはどのように映りますでしょうか。

・・・

この我国って、なんと素晴らしい国でしょうか。 よく神様の国と言われますが、本当にそのようですよ。

そして、このことを邪馬壹国の女王卑弥呼様はよ~~くご存じでした。

もう一度、下の写真を見ていただきたいと思います。

 撮影者の靴が映っている左側に伸びる山並みが八幡山連峰ですが、拡大してみると、卑弥呼さんのお墓も、

女王卑弥呼様の祭祀場である八幡山も見えますよ。

 ・・・と言っても、事情を知っている私にしかこれは分かりませんね。

 

上の図は、生野、神河町の地図に、①八幡山を中心に4,3㎞で円を描き、亀甲紋を描いてますが、

生野に鶴と亀、段ヶ峰に龍(玄武)などの巨大な地上絵が造形されていますが、②が女王卑弥呼のお墓です。

神社の造りで言えば、阿吽の獅子にあたるところが、⑫⑬の榊(メノラー)で手水舎が⑭ひょうたんですね。

②の卑弥呼さんのお墓が本殿で、鶴と亀の地上絵がある生野が奥宮で、そしてそこのA,Bに地下神殿があります。

この祀りかたを家の中に持ち込んだ神棚や仏壇が

このような形になります。 そして神社もこれと同じ祀りかたをするように造営されています。

神河町には、卑弥呼さまや奥宮を拝む遥拝の山がキッチリとピラミッドのように一対の榊(メノラー)の中心部に造られています。

神河町を空から眺めたFさんの弁ですが、「一番きれいでした」というピラミッドみたいな三角の山には、

地元古代史研究家の市川慎さんが言われるのには、頂上と中腹に遥拝する立派な磐座が造ってあるとのことですから、

古代からこの我が国の礎を創られた神々にそこから祈りを絶やさなかった時代があったことでしょう。

そのように、重大な意味ある地上絵などがある場所こそが邪馬壹国の女王卑弥呼さんが居たところです。

邪馬壹国とは丹後、丹波、但馬、摂津、大和・・、現在の兵庫、京都、大阪、奈良にまたがるオリオン座にかたどられた国でした。

政体が奈良の巻向で、国体・・つまり女王卑弥呼さまが居られたところが、神河町の栗でした。

 

 

邪馬壹国は兵庫、京都、大阪、奈良、にまたがる国だった

魏志倭人伝に記載されている情報をもとに境界国をなぞると、邪馬壹国(しゃもいっこく)は丹後半島を含む兵庫県但馬、丹後、丹波地方から摂津、大和へとつながった国土であり、行政府の首都が纒向(奈良)であり、女王卑弥呼が住む聖地は、兵庫県の中央に位置する、播磨風土記で表記される埴岡の里、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがる地域で、居城はである。

邪馬壹国の女王卑弥呼が居た埴岡の里(兵庫県生野、神河町)・栗への朝見ルートは、高句麗、現在の中国遼寧省鞍山市の道教の故郷、千山から神の故郷、蓬莱()を経由して朝鮮半島に沿いながら現在の釜山あたりから対馬、壱岐、を経由して呼子(佐賀県)に宝船を呼び込みます。ここまでは神で来ますが、お一人の神様は、神を呼子に降ろして定期航路を帰ります。降ろされた神は、陸路、吉 岡 そして津まで宝物を運んで行きます。 津からは神が物部氏の船に乗せられて関門海峡を下して宇佐八幡の神様にご挨拶して、それから瀬戸内へ入り、中国山脈のって山の大門まで20日を要して到着します。ここからさらに10日かかってたどり着く所がの神えびす様の総本社 がある西宮です。ここで検品を済ませ、三つの御竜車に物を乗せて、塚を通り、三田、篠山、春日を経て知山に着き、粟鹿を通って南下し、シオン(聖地)と呼ばれていたイヤ(生野)へとやってきて最終地点である(神河町)へとたどり着きますが、ここが女王卑弥呼の居城でした。西宮からここまで陸路1ヶ月を要した。

女王卑弥呼への朝見ルートは地名に福の一文字が残る、福の神のルートである。

そして卑弥呼のお墓は、779mの山頂にあった。

downwardright 邪馬壹国の国土図と呼子(佐賀県)からの女王卑弥呼の居城までの道程図

   左はイエス・キリストの生命の樹です。

生命の樹(カバラ)の意味することを理解することで邪馬壹国の謎は解けます。

 

邪馬壹国はシャモイッコクと読んで、モーセの律法を第一とする理想国家の建設でした。

その国土設計は、カバラに基づいて設計され、国土はオリオン座に似せて造られた桃源郷でした。

でも、初代大王である大国主の命=イエス・キリストが亡くなると、黄金比率の十字架の縦のライン上に

手厚く葬られました。その場所は十字架の交点の少し北へ上がった所で、現在の加古川市志方町にあります。

  

魏志倭人伝に書かれた20日で着く港は、

伊島(徳島県)から生野(兵庫県)まで伸びる黄金比の十字架の縦のラインを底辺とする、

正三角形の頂点にあたる場所で、現在の広島県福山市の大門でした。

大門は社の総本社である総社宮への入り口の門にあたる重要な場所でした。

そこには鶴島、亀島がありました。

その風光明媚な港から10日で着く港が、福の神を祀る戎神社本宮がある西宮が、最終港であり始発港でした。

左は西宮市の市章です。 西宮市の市章の中の文字は、西という字です。

西宮市の市章はユダヤと表していて、日が沈む西の方角にはユダヤの国があることを教えていて、

そのユダヤの地からたどり着く最終港であり始発港が西宮ということです。

陸路一ケ月のルートは、そこ西宮から宝塚、三田篠山、春日を通って福知山、そこから粟賀を通って栗ま

ででした。現在の神河町栗です。

現在は姫路から上がればすぐですが、卑弥呼さんの時代は隣国、投馬国は通れませんから一ケ月を要しました。

       

 

 


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邪馬壹国 保存その3

2014-11-22 10:44:28 | 邪馬壹国

伊王島(長崎県)から宗像大社(福岡県)・高千穂神社(宮崎県)を結ぶ正三角形の中心をライン上にある宇佐八幡宮を通り、総社(岡山県)を通り埴岡の里(兵庫県)まで伸びるラインで構成される生命の樹(カバラ)

 上記生命の樹のセンターライン上でセフィラの11番目・ダアトに位置する場所が総社(岡山県)であるが、この地こそが魏志倭人伝に記されている投馬国の首都であり、そこへの上り口が福山市の大門(だいもん)です。伊島、生野を底辺とした正三角形の頂点の地点が魏志倭人伝に記されている水行20日で着く港、大門である。

 大門町誌「大津野のあゆみ」に残された、鶴島、亀島が記された上古大津野沿岸図

 上古大津野沿岸図に記された鶴島、亀島の現在の様子と、惣堂神社。

 鶴島の現風景

       

 亀島の現風景

         

 惣堂神社

     

歴史の中に生きた先人達は、私達に何を教えているか。

 純友の乱で、海賊の残党の捕らえられた地が、備前、播磨、そして地上絵群が造形された埴岡の里一帯の但馬であるが、真相を語ってはいないか。

黄金比の十字架と生命の樹と航海航路との関わり

    

地上絵群がある埴岡の里と、出雲大社と伊勢神宮(内宮)との位置関係

生野から出雲大社、伊勢神宮(内宮)までの距離は同距離である。

室戸岬から出雲大社、伊勢神宮(内宮)までの距離は同距離で、その三点を結ぶと直角二等辺三角形である。

 

日本で一番最初に作られた稲荷神社は糸賀稲荷神社(有田市)である。その神社から、生野と御蔵洞(室戸岬)までは同距離の関係にある。

卑弥呼の墓の測量図

墓は標高779mの山頂にあり、葺き石で葺きあげられ、墳丘長さ150m 後円部径100m、上円部径50m 高さ15m の帆立貝形古墳、又は前方後円墳 の初期の形の古墳が形成されている。測量図を元に、 卑弥呼の墓を探査レーダーで調べると・非鉄金属の反応 も捕らえた。

「卑弥呼はすでに死んだ。大いに塚を造った。径(さしわたし)は百余歩」と魏志倭人伝に書かれている墓の径と、上円部径50mは合致する。



卑弥呼の墓が向いてる方向は、香住町菴月山(上古竹野郡)であり、その反対側は糸賀稲荷神社である。

卑弥呼の墓の位置は、応神天皇陵と、六甲石の宝殿白山の宮と白兎神社とを結んだ一直線上に位置する。

 

yamaitikoku  yamaitikoku yamaitikoku  yamaitikoku  yamaitikoku Yamaitikoku  yamaitikoku

やまいちこく やまいちこく やまいちこく やまいちこく やまいちこく やまいちこく 邪馬台国 卑弥呼 

 

 

 

 

 

あずきちゃん 竹野郡 竹野地方 埴岡の里 かごめの故郷 モーゼの国 イエス・キリスト 大黒様 大国主の命 モーセ シュメール スメラミコト 


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邪馬壹国 保存その2

2014-11-22 10:36:57 | 邪馬壹国

 生野の資料館に残る古い絵図(二つの御林)

  

 カゴメ紋の中心点である八幡山1と、ABCD 2 との関係図

 

 伊勢神宮から生野へ伸びる生命の樹(カバラ)

  

一直線に並ぶ地上絵

 地上絵発見の動画

  

地上絵発見の動画(天皇陛下への手紙)  その1

地上絵発見の動画(天皇陛下への手紙)  その2

 

 古代エジプトの女神ハトホル(人の顔)

 

 

  

 

 鶴 と 亀

 

  龍(玄武)

 

 

日本三奇の一つ、高砂市の石の宝殿の巨石の謎解明

石の宝殿の巨石が位置する場所は、伊勢神宮から石の宝殿(生石神社)に伸びる生命の樹(カバラ)の王冠にあたる場所である。

 

そして又、その石の宝殿の巨石がある位置は、伊島(徳島県)から生野町の古い絵図に残る絶峯御林まで伸びる黄金比率の十字架の交点に位置している。

  

 




そしてその石の宝殿の巨石は、キッチリと神武天皇陵と出雲大社の方角に向けて造られている。

 

          




そしてこの石の宝殿の巨石は、伊勢神宮(内宮)と物部神社(島根県大田市)を結んだライン上にもピタリと位置している。

 

伊王島(長崎県)から宗像大社(福岡県)・高千穂神社(宮崎県)を結ぶ正三角形の中心をライン上にある宇佐八幡宮を通り、総社(岡山県)を通り埴岡の里(兵庫県)まで伸びるラインで構成される生命の樹(カバラ)

 上記生命の樹のセンターライン上でセフィラの11番目・ダアトに位置する場所が総社(岡山県)であるが、この地こそが魏志倭人伝に記されている投馬国の首都であり、そこへの上り口が福山市の大門(だいもん)です。伊島、生野を底辺とした正三角形の頂点の地点が魏志倭人伝に記されている水行20日で着く港、大門である

きちゃん 竹野郡 竹野地方 埴岡の里 かごめの故郷 モーゼの国 イエス・キリスト 大黒様 大国主の命 モーセ シュメール スメラミコト 


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邪馬壹国は、始まりの国であり満たされた壺である  続き

2013-01-18 16:16:30 | 邪馬壹国

12  メノラー(神の木)   12,13 一対のメノラー

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13  メノラー(神の木)  2014年8月27日 空撮に成功!

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14 ひょうたん

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 生野の資料館に残る古い絵図(二つの御林)

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 カゴメ紋の中心点である八幡山1と、ABCD 2 との関係図

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 伊勢神宮から生野へ伸びる生命の樹(カバラ)

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一直線に並ぶ地上絵

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地上絵発見の動画

地上絵発見の動画(天皇陛下への手紙)  その1

   地上絵発見の動画(天皇陛下への手紙)  その2

 

 古代エジプトの女神ハトホル(人の顔)

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 鶴 と 亀 

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  龍(玄武)

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日本三奇の一つ、高砂市の石の宝殿の巨石の謎解明

石の宝殿の巨石が位置する場所は、伊勢神宮から石の宝殿に伸びる生命の樹(カバラ)の王冠にあたる場所である。

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そして又、その石の宝殿の巨石がある位置は、伊島(徳島県)から生野町の古い絵図に残る絶峯御林まで伸びる黄金比率の十字架の交点に位置している。

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そしてその石の宝殿の巨石は、キッチリと神武天皇陵と出雲大社の方角に向けて造られている。

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そしてこの石の宝殿の巨石は、伊勢神宮(内宮)と物部神社(島根県大田市)を結んだライン上にもピタリと位置している。

 

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伊王島(長崎県)から宗像大社(福岡県)・高千穂神社(宮崎県)を結ぶ正三角形の中心をライン上にある宇佐八幡宮を通り、総社(岡山県)を通り埴岡の里(兵庫県)まで伸びるラインで構成される生命の樹(カバラ)

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 上記生命の樹のセンターライン上でセフィラの11番目・ダアトに位置する場所が総社(岡山県)であるが、この地こそが魏志倭人伝に記されている投馬国の首都であり、そこへの上り口が福山市の大門(だいもん)です。伊島、生野を底辺とした正三角形の頂点の地点が魏志倭人伝に記されている水行20日で着く港、大門である。

 


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鶴島 亀島 があった水行20日の大門へ

2013-01-06 21:58:29 | かごめかごめの真実とは

2013年1月6日(日)

前日に淡路島のダビデの星の中心ポイントを確定しました。

その場所は、難攻不落の山城となっています。そしてその場所からは、邪馬台国の女王卑弥呼のお墓を見通すことができますし、福津(宗像市)から関門海峡を通過して南に位置する宇佐神宮を経由して20日で到着する港である福山市の大門まで見通すことができます。大門から残り10日でたどり着く西宮(兵庫県)の恵比寿神社までの航路をずっと監視することができます。 当然帰路も同様です。

投馬国の行政府がある総社は、伊王島、宇佐神宮を通って女王卑弥呼の祈り場であり、聖山である八幡山へとのびる、生命の樹のセンターライン上にあります。セフィラの11番目のダアトの中心ポイントである総社宮への、大事な上り口である大鳥居にあたる場所が大門でした。

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大門町誌「大津野のあゆみ」に太古の様子が残されています。

その昔、卑弥呼が居た時代、宝船が必ず寄港する港ですからそれはそれは、風光明媚で活気があふれる港町だったことでしょう。 

瀬戸内から宝船は、鶴島 亀島を両サイドに見ながら、帆の背に太陽を受けながら静かに滑りこむように入ってきたことでしょう。 その宝船を受け入れる惣部の民は、太陽を背にして帆が張られ7福神が乗った宝船が、それはそれは神々しかったことでしょう。

その太古の情景にタイムスリップした気分で、「卑弥呼が生きた時代、ここは海だったのかぁ」と大門の街を散策してきました。

鶴島(厳島神社)

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亀島(春日神社)

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惣堂神社

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八幡神社

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賀茂神社

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大仙神社

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別處山 上之坊

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・・・

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遠くに徳島の剣山も見えていましたぁ

そして、大門駅の帰りのホームから鶴島、亀島を観ると、その上空に鶴と亀に見える雲が私を見送ってくれていたようでした。

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南 灘   ・・ 南の謎

2012-08-28 15:13:24 | 邪馬壹国

庵月へ行って分かったことは、神崎郡神河町にある八幡山を取り囲む集落に猪篠(いざさ)という地名がありますが、字こそ違いますが伊笹(いざさ)という地名や長谷という地名も共通してあります。

そしてイザサには古い古い歴史があるようです。

偶然でしょうか・・。偶然ではないようです。

そして庵月さんにいただいた香住観光協会発行の「御崎 平家村のおはなし」を読むなり、??

んん??! 

・・・公家の門脇宰相平教盛(たいらののりもり)という人は、老中と共に船に乗っていくことにしました。

「この壇ノ浦よりも遥かに壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮していけるだろう」 という記載箇所がありますが、壱岐・対馬は壇ノ浦からに位置します。

南北がまるっきり逆に言われています。

・・・

ふと思ったのは、魏志倭人伝の南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。

・・・

遥か南に・・を 遥か難に・・ と書き変えたら 間違いでもありません。

難して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。・・と書けばこちらも問題ありません。

魏志倭人伝の書き手も平家の伝記を書いた人も、難と南の文字を書き違えたのか、その時代の人達は東西南北の概念に共通性が無かったのか、またまた思いこんでしまう私でした。

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