紀元前より中国では、司南(指南器)や指南魚などと、方位磁石はありましたが、真北と磁北が違うことが当時分かっていたのかどうかは疑問です。
現在は日本の場合、方位磁石の針は真北より西に偏りますが、このことを西偏角といい、東へ偏ることを東偏角といいます。その偏りと角度は場所によって異なりますが、必ず真北と真南を指す場所が、偏角0ラインです。
その偏角0ラインの地球儀から、この地球誕生の謎も推測できそうです。
偏角地球儀をつくってみました。
八福神様が乗った宝船を対馬、壱岐を通って呼子に呼び込みます。ここで宝物を担いで草木が生い茂る獣道のようなところを通って福吉(糸島市)まで行きます。そこから那の津、福岡へ来ます。福岡から福津に到着しますが、呼子から福津まではわざわざ陸行です。福津港は物部王国への重用要な港であり、毎日、倭国へ出入りする船を対馬見山から監視していました。その官の責任者はタマ(玉)と呼ばれていました。現在その対馬見山の麓にある神社の名が、冨士白玉神社で、お稲荷さんを祀っていますが、秦氏物部王国は、完全に北部九州と瀬戸内海を収めていましたから、戦略的に関門海峡へは海外からの船は一切通さなかったことでしょう。ですから、邪馬台国への詳しい地図も手に入らないわけですね。
現存する世界最古級の世界地図「混一疆理歴代国都之図」にも瀬戸内海の存在はありませんし、日本列島の向きも90度時計まわりに回転した姿で描かれています。この地図も先行した地図を参考にして新たな情報を描き加えたものとしたら、元図の地図系図をたどると邪馬台国の時代に行き着くことでしょう。宝物とともに宝船に乗せられた漢からの使者七福神様が知らされている地図情報からすれば、目的地まで連れられて行くだけですから、福津から船で南行して20日で物部王国の総本部である総社宮への入り口である福山市の大門にある惣堂神社で報告を済ませ、そこから又南行して10日で邪馬台国の女王が住む西の宮への上り口、西宮に着き、そこから上陸し、福知山を通り、女王様がいる埴岡の里の山門まで一か月でしたと、魏志倭人伝に記されたことには何も矛盾はありません。
漢からの使者七福神様は、「船は東へ東へと進んだんだけどな~~??」と祖国へ帰って報告しても、元図が元図ですから、魏志倭人伝には南へ南へとしか書けなかったのでしょうね。
我が国の礎を造った物部、秦氏は、素晴らしい戦略家だったようですね。
ちなみに、長さ(距離)の単位ですが、里(り)は、尺貫法における長さの単位であり、現在の中国では500m、日本では約4km、朝鮮では約400mに相当するようですが、当時の中国での1里は50mだったと推測できます。
(後日、対馬の発着港が特定できて、一里は77mに特定)