庵月へ行って分かったことは、神崎郡神河町にある八幡山を取り囲む集落に猪篠(いざさ)という地名がありますが、字こそ違いますが伊笹(いざさ)という地名や長谷という地名も共通してあります。
そしてイザサには古い古い歴史があるようです。
偶然でしょうか・・。偶然ではないようです。
そして庵月さんにいただいた香住観光協会発行の「御崎 平家村のおはなし」を読むなり、??
んん??!
・・・公家の門脇宰相平教盛(たいらののりもり)という人は、老中と共に船に乗っていくことにしました。
「この壇ノ浦よりも遥か南に壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮していけるだろう」 という記載箇所がありますが、壱岐・対馬は壇ノ浦から北に位置します。
南北がまるっきり逆に言われています。
・・・
ふと思ったのは、魏志倭人伝の南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。
・・・
遥か南に・・を 遥か難に・・ と書き変えたら 間違いでもありません。
難して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。・・と書けばこちらも問題ありません。
魏志倭人伝の書き手も平家の伝記を書いた人も、難と南の文字を書き違えたのか、その時代の人達は東西南北の概念に共通性が無かったのか、またまた思いこんでしまう私でした。