散文的で抒情的な、わたくしの意見

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西郷と一橋慶喜、人斬り半次郎のいわゆる「実像」

2018年07月28日 | ドラマ
西郷どん、ドラマですからデフォルメは当然なんですが、「ひどい方向のデフォルメ」で、なんとも言葉がありません。

言葉がないから、書きません。となると綾小路きみまろ風ですが、僕は「書きます」。

前回は「禁門の変」だったので、早送りもせずに見てみました。

西郷は「最後の最後まで戦闘に反対した平和主義者、でも足に怪我をしたので、戦を止めることができなかった」ことにされていました。

頭がクラクラするほど混乱します。何のためにそんなウソを描く必要があるのかがちっとも分かりません。それじゃあ西郷はとんだ「無能力者」ということになります。

なんでもかんでも平和主義者にしておけばいい、とでも考えているのか。どうせデフォルメするなら「かっこ悪い西郷」ではなく「かっこいい西郷」にすればいい。

ウソでもそれなら理解できます。わざわざ「かっこ悪い無能力者」にする意味がわかりません。

「西郷のいくさ好き」というのは当時も有名でした。わざわざ西郷自身が「そうじゃないんだ、必要ないくさだけをしているのだ」と弁明するほど、「いくさ好き」だったのです。

「西郷の人望好き」という言葉もよく言われました。西郷は人から人望を得ることを好むということです。人とは「薩摩人」です。薩摩人に好かれるためには平和主義者であってはならないはずです。

最後、城山で死ぬ時も、「自分は前線で死ぬ」と言い張り、少数で突撃をして、銃弾をうけ、介錯をしてもらって死にます。

そういう「中世人」的で理解不可能なところが、西郷の魅力といえば魅力です。現代人のような平和主義者の西郷なんて、何のために描く必要があるのか。

むろん僕は平和主義者です。現代日本人だからです。僕と西郷が同じ思想を持っているなら、歴史を描く意味なんてどこにもありません。

もっとも西郷は近代戦に関する知識は薄く、まあそういう意味では無能力者で、だから村田蔵六に指揮権を奪われるわけですが、それは戊辰戦争段階の話です。

さて、一橋慶喜。「策謀好きの遠山の金さんみたいな男」という意味不明のキャラです。

彼が水戸で生まれ、尊王攘夷の中心である藩で育ったこと。彼の聡明さは尊王攘夷を否定したが、彼の生まれが尊王攘夷を否定しきれなかったこと。特に「尊王」に関しては、志士たちのように「天皇なぞ玉=利用手段だ」と割り切れなかったこと。そういう重い十字架というか、「おおいなる矛盾の中で慶喜が生きていた事実」なんてものは、脚本家にとってはどうでもいいようです。ホント、言葉もありません。

慶喜は維新最大の功労者の一人です。その彼に対してあまりにリスペクトがない。

最後に桐野利秋。いわゆる「人斬り半次郎」。人を斬った経験はほとんどないはずですが、なぜか人斬り半次郎です。

彼については西郷どんの描き方は「あるいはそうかも」という面もあります。どのドラマでも「ひたすら粗暴な人斬り的人物」として描かれますが、結構政治的な活動に長じていて、政治家としての側面も大いにあります。今まではそれが描かれてこなかった。だから政治家(というより周旋家)としての半次郎を描こうとする意図は「おもしろい」かも知れません。

が、いかにも「坂本龍馬的」な薩長同盟推進派の人物として描かれているのは気になります。一つのドラマに二人の坂本龍馬はいりません。彼が長州よりだったという事実はどうやら本当みたいですが、なんか違和感は感じます。「わかりやすい人物であり過ぎる」のです。半次郎もまた「中世的思考」を大いに持った人物であり、そういう理解不可能な面が彼の魅力といえば魅力かなと思います。あまり魅力はないが、あえて書くなら理解不可能な思考法が魅力です。そういうのが全くない半次郎なんて、、、、とは思いますが、まだ登場したばかりなんで、彼に関しては今後の描かれ方を少しばかり期待してもいいかも知れません。

とにかく西郷と慶喜に関してはデタラメ過ぎます。それが魅力的なデタラメならまだいいのですが、バカバカしいデタラメは、なんというか、勘弁してくれよ、と思います。