遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『天神さんが晴れなら』   澤田瞳子   徳間書店

2023-08-02 15:14:29 | 澤田瞳子
 小説かと思って手に取ってみたら、エッセイ集だった。2023年4月の刊行である。

 冒頭のエッセイの見出しが「天神さんが晴れなら」である。この一文に、「天神さんが晴れなら弘法さんは雨。弘法さんが晴れなら天神さんは雨」との諺があると記されている。京都市の南部で生まれ育ったので、弘法さんと天神さんの縁日のことは知っていたが、こんな諺があるなんて知らなかった。冒頭から知らなかったことに出くわした。それも京都がらみなので、興味深い。
 このエッセイ集、京都に絡んだ場所や内容が多いので、楽しく読めるとともに、京都に関わっていて知らないことがいくつもあった。そこで関心を惹き寄せられることにもなった。

 本書に収録されたエッセイは大半が著者自身の周辺の事柄を題材にして記されている。京都で育ち、学び、小説家になるに至った著者自身による回顧やそれにまつわる思いがエッセイの大半となっている。読みやすい文章でかつ控えめなスタンスで書かれた文章なので、すんなりと楽しみながら読み進められた。このエッセイ集に収録された文の端々に著者の人物像をイメージする上での様々な要素・様相がちらりと記述されている。つまり、個々のエッセイを楽しみながら読み進めている内に、著者のプロフィールを徐々にイメージしやすくなっていく。インターネットで公開されている肖像写真と本書に織り込まれた諸要素の断片を総合していくと、著者像が何となく浮かびあがってくる。それが読後の副産物となった。一言でいえば、親しみを感じる一歩控えめでちょっと変わったところもある市井のおばさん作家というところ。偉ぶらない、受賞を鼻にかけない、「普通」ではないことを自認しているところがいい。ここで記した「普通」という語句にまつわるエッセイが、「『普通』とは何か」という見出しで載っているのでお読みいただきたい。

 エッセイの末尾に初出が付記されている。それを通覧してみると、「カレーライスを食べながら」(小説現代 2013年3月号)が一番古いエッセイのようだ。このエッセイ集の主体は、2016年から2021年にかけて日本経済新聞に掲載または連載されたエッセイである。他に朝日新聞、西日本新聞、産経新聞、京都新聞、公明新聞、西日本新聞、毎日新聞、オール讀物が初出となるエッセイが載っている。
 一般雑誌に載ったエッセイもある。媒体は、小説現代、小説すばる、週刊新潮、ジェイ・ノベル、文藝春秋、婦人画報、小説宝石である。
 また専門の機関誌と思えるものに載ったエッセイもある。あまから手帖、JA全農、たべるのがおそい、ひととき、銀座百点、なごみ、同志社大学博物館学年報、能、国立能楽堂、本郷、近鉄ニュース、日販通信、泉鏡花研究会会報、淡交、波、共同通信である。
 ちょっと列挙してみたのは、これら掲載媒体の広がりから、著者が幅広く受け入れられていると感じられるからだ。一方で、「終わった旅から再びの旅へ」の冒頭に、「エッセイを書くのが好きで、ご依頼を受けると毎回いそいそと取りかかる」とある。著者はエッセイを気軽に引き受ける作家でもあるようだ。それが媒体の広がりと相応しているということか。
 エッセイの一文を断片的にいずれかの媒体で読むだけだと、著者の周辺での一事象一局面が数ページの文章にまとめられているだけである。ワンポイントに絞ってキラリと、あるいはさらりとまとめられた文の内容を知り、楽しみ、余韻にひたるにとどまる。これだけエッセイが集められるとエッセイ間の相乗効果が出てくる。そこに著者の思考が重なったり、形を変えて書き込まれていることも分かる。上記したが、著者像が浮かび上がることに繋がって行く。
 
 本エッセイ集では、これまでのエッセイ文が、内容に応じて分類編集されている。その分類名称を目次から抽出しておこう。
 「京都に暮らす」「日々の糧」「まだ見ぬ空を追いかけて」「出会いの時」「きらめきへの誘い」「歴史の旅へ」「ただ、書く」 である。

 著者澤田瞳子さんは私にとって愛読作家の一人。最初に『満ちる月の如し 仏師・定朝』を読んだことがきっかけで、その後アットランダムに作品を読み継いで来ている。エッセイ集を読むのはこれが初めて。本書を読み、印象深い点を箇条書きにしてみる。
*エッセイ文の内容を理解して楽しむということとは別に、著者自身のプロフィールイメージを膨らませることに役立った。
*「オシフィエンチム駅」という名称を知ったこと。「アウシュヴィッツ」というドイツ名は知っていたし、幾つか本も読んでいるのに、ポーランド駅名を今まで意識していなかった!
*著者は『若冲』を書いている。伊藤若冲について、著者のエッセイ文が二篇掲載されていて、舞台裏と著者の視点が読めて興味深い。『京都錦小路青物市場記録』に関連して伊藤若冲評価が変転しているという解説箇所が特におもしろい。
 さらに、山本兼一、山岸凉子の作品を例に引いた上で、「伊藤若冲を妻を自死させた人物として設定しても、それがフィクションである以上、なんの問題もないと考えてであった」(p171)と明記していること。その設定に一部の研究者からは批判を受けたらしい。
*京都市内の通りを歩いていて、「京都神田明神」という祠の表示に出会ったことがある。なぜここに、神田明神? その疑問が「平将門と能」というエッセイで氷解したこと。*愛読作家の一人に葉室麟さんがいる。これからますますとその活躍を期待する時期、2017年に逝去された。その葉室麟さんとの交流に関連して、著者がエッセイを書いていて、本書に収録されていた。葉室麟さんの素顔の一面を知ることができた。さらに澤田瞳子さんを一歩身近に感じる愛読作家になった。

 最後に、本書から印象に残る箇所を引用・ご紹介しておこう。
*世の中には、歴史とは客観的事実に限るべきと定義する方もいらっしゃるだろうが、そんな歴史は人の思いを捨象しているがゆえに、いささか面白みに欠ける。・・・・実に歴史とは無数の人々によって形作られた大いなる流れそのものだと見なしうるのだ。  p200
*そう、人間は生きていく中で、イメージというものに大なり小なり束縛を受ける。p236
*読書とはただ、知識を取り入れるだけの行為ではない。いつ、何を読み、どう感じたか、自らの内外の変化とその時々の風景の記憶は、読書体験には欠かせないと私は思う。・・・・・・私にとって本を読むとは、本を取り巻く環境と不可分であり、どんな経緯をへてその本を手に取ったかという記憶も欠かすべきではない。  p240
*わたしは自分自身がクローズアップされることよりも、読者の方々が純粋に物語世界を---そこに登場する歴史や文化を楽しんでいただくことを望みたい。  p251
*小説は一人でも書ける。だが、書籍は小説家一人で完成するものではない。 p263
 作家に出来る務めとは、結局ただ粛々と書き続けることでしかない。  p266
*文学とは、本来、平等であるべきだ。物語を紡ぐこと、読むこと、そしてそれらを楽しむこと。それは誰にも奪われるべきではなく、すべての人が平等に手にできてしかるべき権利だ。当然、男子高校生と四十代女性作家が同じ賞の候補になったとて、なんの不思議でもない。性差も年齢差も国籍の違いも、そこにはありはしないのだから。  p268
*顧みれば紆余曲折あった二十代は私にとって、群れなくてもいいのだ、違うことをしてもいいのだ、ともう一度認識するための時間だった。  p277

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『漆花ひとつ』  講談社
「遊心逍遙記」に掲載した<澤田瞳子>作品の読後印象記一覧 最終版
                  2022年12月現在 22冊

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