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遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『収容所から来た遺書』  辺見じゅん  文春文庫

2023-04-10 22:56:41 | 歴史関連
 本書はU1さんの「透明タペストリー」のブログ記事で知った。まず掲載されていた表紙の写真でタイトルに引き寄せられ、本書についての簡潔なご紹介から本書に関心を抱いた。シベリア抑留、強制収容所(ラーゲリ)という言葉は知っていたがその意味するところ、実態については、情報・知識を全くというほど持ち合わせてはいなかった。遅ればせながら読み終えた。

 文庫を手にして知ったこと:単行本は1989年6月に刊行され、1992年6月に文庫化された。手許の文庫は、2021年11月第24刷。裏表紙のメッセージから調べてみると、1990年の第21回受賞者3人のうちの一人として、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作品である。
 併せて、2022年12月9日に公開された映画「ラーゲリより愛を込めて」は本書に基づいているという。 

 1956(昭和31)年12月26日、「ソ連帰還者最終梯団」を乗せた興安丸が舞鶴港に着岸した。翌年の1月半ばに、山村昌雄さんが「私の記憶してきました山本幡男さんの遺書をお届けに参りました」といい、幡男さんの妻モジミさんに一通の封書を差し出した。さらに半年余を経て、最後の六番目の遺書がメモ・絵・葉書とともに、新見比助さんから小包で届けられた。

 最後まで帰国(ダモイ)の望みを堅持し、強制収容所で周りの仲間たちを靜かに淡々と鼓舞し続けた山本幡男さん自身は帰国できなかった。山本幡男さんは、1954(昭和29)年8月25日、ハバロフスクの強制収容所内の病室で息をひきとった。仲間たちの嘆願書により中央病院に入院できたのだが「喉頭癌性肉腫」の末期症状と診断され、翌日ラーゲリに戻されてしまったのだ。45歳の生涯だった。最終段階で山本幡男さんは遺書を書いた。それを仲間たちが分担し、記憶に留めて、帰国できた暁には山本幡男さんの家族に遺書として届ける役割を担ったのだ。(以下、敬称を略す)

 このノンフィクション作品は、シベリア抑留から帰国できた数多くの人々と関係者に取材し、事実をベースにしてまとめられている。シベリアに抑留された山本幡男の半生記を中軸に据え、ウラル山中に所在したスベルドロフスク俘虜収容所とハバロフスク地区のラーゲリでの日本人俘虜の収容所生活と思いの実態が描き出されて行く。
 収容所の実態には2つの側面がある。一つは収容されている日本人俘虜の生活環境と生活実態。もう一つはソ連側の収容所管理の実態である。その両面を著者は抑制された筆致で描き出していく。

 山本は東京外国語学校在学中に社会主義運動に関与したことが原因で学校を退学する。大連の満鉄調査部に入社。ロシア語が堪能だったので、昭和11年3月に北方調査室配属となる。戦争の末期に山本は軍隊に召集され、1945(昭和20)年1月に2等兵でハルビン特務機関に配属される。同年8月の敗戦でソ連軍に捕らわれ満州からシベリアに抑留されることに。本書を読むと山本が収容所生活を送った場所と何をやらされたかが大凡わかる。
 1946年 満州からスベルドロフスクの俘虜収容所へ。通訳業務 私的な勉強会開催
 1948年 正月過ぎ、ラーゲリから忽然と消える。8月の終りころラーゲリに戻る。
 1948年 9月下旬、スベルドロフスクからハバロフスクに。
     ハバロフスクの手前で何処かへ山本は連れ去られる。
     11月初め ハバロフスク地区のラーゲリ第18分所に。つるし上げの対象者に
 1949年 5月頃 ハバロフスク市南郊 通称「地獄谷」と呼ばれる囚人ラーゲリへ。
       ⇒ 一方的な裁判により戦犯に。重労働25年の判決
     夏、ハバロフスク市内のソ連邦矯正労働収容所第6分所に。
 1950年 4月、ハバロフスク地区の第21分所に。

 本書の構成では、「プロローグ」「一章 ウラルの日本人俘虜」「二章 赤い寒波」までが、山本の上記、1946~1949年に相当し、「三章 アムール句会」「四章 祖国からの便り」「五章 シベリアの『海鳴り』」が1950~1954年に相当する。「エピローグ」が収容所からの遺書が届く情景を語る。
 第21分所で、山本が行った密かで私的な活動が仲間たちにとり生きること、帰国することへの励みになっていた。個々の人々と山本との関わりが描き込まれる形で、帰国への意志が淡々と綴られていく。それに加えて、収容所での明るい側面と陰鬱な側面の存在が両輪の如くに織りなされていく。
 山本はアムール句会と称する句会を密かに開催し、参加者との交流を深めるとともに、帰国という望を持ち続けることを説き続けた。山本の帰国に対する発言は、単なる願望表明ではなく、ロシア語の実力を生かし、入手できる現地情報から世界の政治情勢などを判断した上で帰国可能性を分析した結果だったという。
 収容所に張り出される「日本新聞」はソ連の日本人俘虜に対する思想教育を狙いにしたものだったという。その「日本新聞」の編集を一時期山本が担当せざるを得ない立場になる。こんな一文が記されている。「『日本新聞』がどのようにして作られていたかをつぶさに見ていただけに後藤は、国際情勢を中心にした山本の客観的な壁新聞作りの苦心がほかの人びと以上に理解できた」(p120)と。
 学生時代に理想を持ち、社会主義運動に関わった経験を経て、ロシア語に堪能な山本が、シベリア抑留を経験することで培ったスタンスがここにもうかがえる。
 山本のスタンスは、彼が書き遺した遺書の中に色濃く表明されていると思う。

 各地のラーゲリではシベリア民主運動が吹き荒れ、それが三期の推移をたどるという。それはソ連側の収容所管理の推移に呼応する。第一期が懐柔時代(入ソ当初)、第二期が増産期間(入ソ1年以降)、第三期が教育期間(昭和23年/1948年当初より)(p48-52)。「この三つの期間をスペルドロフスクの俘虜収容所からハバロフスクの第十八分所時代の山本の姿に重ねて見ていくと、まるで写し絵のように山本の光と影が明らかになってくる」(p48)と著者は記す。

 極寒の地にあるラーゲリの環境と収容所生活の実態が、山本幡男の半生を軸にして、山本と個々人との関係、仲間のつながりから描かれる。加えて日本人俘虜の間での人間関係、具体的な人物にスポットを当てた収容所での姿が淡々と描き込まれ、織り込まれて行く。その抑制された筆致が逆に、山本と仲間達への感情移入を促していく。
 佐藤健雄が山本に遺書を書くことを口にしたという。山本は遺書を書いた。「遺書は全部で四通、ノート十五頁にわたって綴られていた」(p223)佐藤はそれを仲間達で分担し、記憶して帰国し、山本の家族に届けることにしたのだ。紙類は帰国前の検査ですべて没収されるからだ。
 この遺書に関わるステージに入って行くと、涙なくしては読めなくなる。
 久しぶりに感情移入して行くことになった。

 山本幡男の遺書の文面が五章に出てくる。印象深い文章が各所に含まれている。だが、この遺書は本書を読むことでその意味合いが深まっていくことと思う。ここに引用はすまい。

 次の幾つかだけ引用しよう。
*どんなに理不尽ではあっても絶望することなく、いまいる状況のなかに喜びも楽しみも見いだし、しかもそれを他人にまで及ぼしてしまうところに、山本の精神の強靭さと凄さがある、と野本は理解した。  p108
*これは山本個人の遺書ではない。ラーゲリで空しく死んだ人びと全員が祖国の日本人すべてに宛てた遺書なのだ、と思った。 p243 (瀬崎清の思いとして記されている)

*「北溟子に遺書を書かせたらどうだろうか」
 佐藤健雄に提案したのは、団本部の初代団長だった瀬島龍三である。 p221
  ⇒ 北溟子は山本幡男の俳号である。
    瀬島龍三がラーゲリの経験者と言うことだけは知っていた。
    だが、ここで瀬島龍三の名前が出て来たことが私には印象に残る。

 戦後に生まれた世代の一人として、昭和史を捉え直してみる上で必要な一書という思いを強く感じる。

 ご一読ありがとうございます。

[付記] いつか読もうと思い書架に眠っている『瀬島龍三回想録 幾山河』がある。
 引っ張り出してきて、スキャンしてみた。第三章末尾の「心に残る人々」に次の記述が含まれていた。
 [佐藤健雄さん、山本幡男さん]という見出しがあり、その後半を引用する。
「山本さんは昭和29年8月、第21分所の粗末な病室でこの世を去った。私から佐藤さんに話し、佐藤さんが山本さんにしたためさせたその遺書は、山本さんを慕う人たちの記憶による復元によって(書きものは帰国のとき一切持ち帰れないので)遺族に渡された。このことは前に述べた通りである。
 佐藤さんは高僧のような風格で、敬愛する兄貴のような人だ。残年ながら数年前に逝去された」(p286)

 この回想録は1995年9月初版第1刷発行、扶桑社刊である。


補遺  シベリア抑留関連情報を少し調べてみた。
シベリア抑留   :「抑留者引揚」
抑留者引揚 舞鶴 :「抑留者引揚」
[研究ノート]シベリア抑留死の意味を求めて-妻と娘の記憶と語りから-
           桜井 厚  応用社会学研究 2018 No.60 273
シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編) 第1巻 :「平和祈念展示資料館(総務省委託)
強制収容所「ラーゲリ」から生還 貴重な体験語る相模原市の97歳男性【News Linkオンライン】   YouTube
【ラーゲリ】101歳最後の証言…極寒の森で死んだ仲間の衣類を分けた ーシベリア抑留の記憶ー   YouTube
「忘れられた戦争~シベリア抑留の記憶」JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス
終戦から間もなく77年。みなさんは「シベリア抑留」をご存じでしょうか? YouTube
[シベリア抑留記] 17歳の兵士が現地で書いた記録 +++後世に伝えなければならない戦争の歴史+++   YouTube
シベリア抑留関係資料集成  :「リサーチ・ナビ」
なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の「赤化教育」の実態は…「やらねば自分がやられる」  :「産経新聞」
徳田要請問題  :ウィキペディア
映画『ラーゲリより愛を込めて』二宮和也×北川景子が夫婦役、不屈の日本人捕虜を描く奇跡の実話   :「FASHION PRESS」

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『坂本龍馬』 黒鉄ヒロシ  PHP文庫

2023-01-22 12:46:20 | 歴史関連
 以前に何かの記事で本書のことを知った。中古本でたまたま見つけて衝動買いした。
 著者はこの作品を漫画でも劇画でもなく「歴画」と名付けているという。1997年12月にPHP研究所より刊行された。加筆・修正して、2001年2月に文庫化されている。
 私は今まで知らなかったのだが、文庫の裏表紙に「文化庁メディア芸術祭」大賞受賞作と記されている。

 巻末の木村幸比古氏の「解説」を引用すると、「当時の写真資料等を渉猟し、時代の景色として俯瞰的に事象をとらえる黒鉄氏独特の手法」が前著『新選組』につづき、本書にも生かされていると言う。
 確かに、冒頭から坂本龍馬の写真で見た姿が描かれて利用されている。各所に写真を資料にしたコマと説明が現れていて龍馬がどういう人々と写真を一緒に撮っていたのか、その人間関係もうかがえて興味深さが増す。様々な人物像もキャプション付きでコマになっていて、写真資料の存在をうかがわせる。また、地図をコマに描き、龍馬暗殺後現場の近江屋の建物を吹き抜き手法で正確に描く、平面図を描くなどは、小説では難しいが絵では直観的に見てイメージが喚起されていく。描くという利点が生かされている。

 本書は漫画作品である。それを歴画と呼ぶのはナルホドと思う。というのは、漫画のコマを見て読み進めていくと、重要な箇所では、史料の引用が漫画にコトバの部分として利用され、出典も明記されている。「序」に続くストーリーの冒頭は坂本龍馬の暗殺後の現場(近江屋)から始まっている。例えばそこに、龍馬からの手紙を受け取った林謙三が11月15日に大坂を立ち16日未明に京に入り、凶行直後の暗殺現場を目撃する場面が描き込まれている。(p26)その一コマ目には、”林は凶行直後の現場を書き遺している 「処々ニ血痕ノ足跡ヲ認ム。余ハ坂本氏ノ安否ヲ正サント、”というように、コマ漫画と引用史料が融合する形で漫画がビビッドに描かれて行く。ここでは6コマ分に描き分けられてそこに引用文が繋がって行く。文と漫画が一体化していく。「歴画」は歴史漫画の略だろうか。
 本書は、史実、史料を踏まえた漫画ストーリーによる坂本龍馬伝である。末尾に「主な参考文献」の一覧も記載されている。

 この歴画の読者として、たぶん高校生以上の大人が対象となっているのではないかと思う。それほど、史料等の利用がみられ、それを読み通すことが前提に含まれていると思う。逆に言えば、坂本龍馬の波乱万丈といえる一生の根幹を歴画という形で史料を踏まえて読めるということだ。読者は比較的手軽に坂本龍馬の足跡を楽しみながら知ることができる。
 勿論、漫画的要素はふんだんに盛り込まれている。駄洒落的要素、諧謔的要素、ユーモアのあるオチ、お遊び的描写など、おもしろ味もたっぷり含まれているので、読み進める気楽さがある。
 井伊直弼が安政5年(1858)に行った「安政の大獄」頃までは、龍馬は人々から鈍馬とみられていたという。水戸藩士、住谷寅之助、大胡韋蔵が諸藩の動向探索の為に土佐藩境に来たときに、頼られて立川関で面談した時に、己を反省し急に読書を始めたと描いている。鈍馬が駿馬へと変貌する転機を迎えたという。著者はこんな一文をコマの間に挟んでいる。「フカン的に眺めて景色を摑みとる龍馬さんの読書法は、字面を追う近視眼的な読み方より身についたのではなかろうか・・・・」(p168)と。

 おもしろいことの一つは、著者が坂本龍馬を「龍馬さん」という呼称で描いて行くことである。黒鉄ヒロシは土佐の産で、祖母から曾々母が坂本龍馬を目撃した時の話を聞かされて育ったと記す。そんな著者自身の背景が親しみをこめた「龍馬さん」になっているようだ。

 この歴画で初めて知ったことがいくつかある。
*京都にある霊山歴史館に遺された龍馬の紋付から推考すると、身長172cm、体重80kgが最近の数値らしい。著者は70kgとみなしたいと言う。   p9-10
*龍馬は江戸に出た折、千葉周作の弟千葉定吉の道場で3年余の剣術修行を行った。
 北辰一刀流の目録は「長刀兵法目録」であり、剣術の目録ではなかったとか。 p131
*元治元年6月、京で池田屋事件が起きた頃、龍馬は蝦夷地開発案を抱いていたという。
 この北海道開発移住計画は、池田屋事件勃発で消えた。  p331
*勝海舟は、直心影流の達人。身長は約150cmほどだとか。もっと背丈があるようなイメージをもっていた。  p257
*坂本龍馬が長崎に亀山社中を作るのは薩長同盟の仲介に奔走していた時期。
 海援隊は慶応3年(1867)4月、脱藩罪を赦免されて、海援隊長を命じられたことが契機という。海援隊は日本初の蒸気船運輸会社だそうである。 p450-453
他にもあるが略す。

 もう一つこの坂本龍馬伝歴画のおもしろいところを紹介しておこう。伝記という意味では、「龍馬暗殺後現場」をかなり詳細に描写することから始まり、龍馬と石川(中岡)慎太郎が近江屋で暗殺される場面を詳細に描くことで終わる。龍と馬を合体させた像が昇天する絵を描いているところが興味深い。
 歴画としてはそれで終わらせずに、「慶喜の弁解」という章を最後に持って来ている。そこに、徳川家康を登場させるとともに、歴代将軍まで登場させる。さらに龍馬も登場させている。最終ページの絵と一文がおもしろい。多様に解釈できる含みがありそうで、余韻が残る。

 この歴画を読んで楽しんでいただきたい。坂本龍馬はおもしろい男だ。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
坂本龍馬 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」
高知県立坂本龍馬館  ホームペー 
坂本龍馬年表  :「京都霊山護国神社」
坂本龍馬略年表 :「北海道坂本龍馬記念館」
高知県桂浜に立つ「坂本龍馬像」 :「TAISEI Technology&Solution」
坂本龍馬像(高知)  :「RECOTRIP」
坂本龍馬像  :「長崎市公式観光サイト」
日本中にある【坂本龍馬の像】を制覇しよう!全国20選 :「icotto 心みちるたび」
龍馬は日本人の銅像で一番多いぞー(像):「高知面白情報のブログ」

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