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文政三(1820)年の春場所は、六日目
“結び”の大関柏戸─龍門の「無勝負」判
定を最後に打切られてしまった。その
理由は、“外様大名”盛岡藩のトップで
ある南部利敬藩主が満37歳で急逝した
ため━と、されており、後にも・先に
もそんな事例は皆無だ。斯様にお抱え
藩の存在は、江戸相撲會所(現日本相撲
協会)の立場から“眼の上の瘤”的な存在
だった。
したがって、不知火諾…の横綱免許を
めぐって熊本・細川藩の“お膝元”たる吉田
司家との悶着を発生させたので、「予防線」
を張りたい會所は、一計を案じた。番附
頭書から「盛岡」の文字をカットして、藩
からの反応━いちゃもんをつけられるか・
否か━のいわば“踏絵”にしてみた。だから
たった1場所限りで、もとの「盛岡」頭書に
戻ったわけ。即ち、秀の山橫綱問題をめぐって
盛岡藩は関与しないことが確実視されて、はじ
めて正式に司家と折衝し、「横綱免許」が成就
したのであった。
以上、独断と偏見の愚考である。
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文政三(1820)年の春場所は、六日目
“結び”の大関柏戸─龍門の「無勝負」判
定を最後に打切られてしまった。その
理由は、“外様大名”盛岡藩のトップで
ある南部利敬藩主が満37歳で急逝した
ため━と、されており、後にも・先に
もそんな事例は皆無だ。斯様にお抱え
藩の存在は、江戸相撲會所(現日本相撲
協会)の立場から“眼の上の瘤”的な存在
だった。
したがって、不知火諾…の横綱免許を
めぐって熊本・細川藩の“お膝元”たる吉田
司家との悶着を発生させたので、「予防線」
を張りたい會所は、一計を案じた。番附
頭書から「盛岡」の文字をカットして、藩
からの反応━いちゃもんをつけられるか・
否か━のいわば“踏絵”にしてみた。だから
たった1場所限りで、もとの「盛岡」頭書に
戻ったわけ。即ち、秀の山橫綱問題をめぐって
盛岡藩は関与しないことが確実視されて、はじ
めて正式に司家と折衝し、「横綱免許」が成就
したのであった。
以上、独断と偏見の愚考である。
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