江戸時代の「看板大関」を別にすれば
“幸運大関”の最たるものは、大正七年春
新関脇で4勝3敗・1預り・2休の僅か
1点の勝越しながら夏場所は新大関と
なった九州山(十郎)だろう。たしかY氏が
「世間も吃驚した」と書いていた。現解説者
北の富士〔当時北の冨士〕の10勝5敗はまだ
“まし”な方だ。
「異色調査」のM氏が大正時代の大関の
昇進や陥落の基準を「よくわからない…」と
記述していた。
“幸運大関”の最たるものは、大正七年春
新関脇で4勝3敗・1預り・2休の僅か
1点の勝越しながら夏場所は新大関と
なった九州山(十郎)だろう。たしかY氏が
「世間も吃驚した」と書いていた。現解説者
北の富士〔当時北の冨士〕の10勝5敗はまだ
“まし”な方だ。
「異色調査」のM氏が大正時代の大関の
昇進や陥落の基準を「よくわからない…」と
記述していた。
>>1月場所の成績は4勝3敗1預2休と平凡だったが、この場所で大関だった栃木山守也が横綱に昇進したことで大関が空位となったことで運良く昇進できたものだった。
とのことです。この場所、西方の千葉ヶ嵜 は小結で8勝2敗で関脇を飛び越えて大関に昇進している(三役在位は小結1場所だけ)。
九州山・千葉ヶ嵜 両力士とも関脇を飛び越えて小結まで陥落している。番附編成の方法が昭和以降と全く異なるとしか考えられない。
の新聞によると、この時陥落を苦に大川へ身を投じようとして、宮田ドクトルに説諭されて思いとどまったという。