幕末の関脇力士、荒馬吉五郎━文化六(1809)年
生れと、同十二年生れとの両説があって、悩ましい
問題なのである。
先ず、平成元年刊『古今大相撲 力士事典』は
文化十二年説を採っていたのに、平成十三年刊
『大相撲人物大事典』が文化六年説に変った━どう
いう理由に基くのであろうか?
彼の初土俵は、『…人物…』と同じ年に出版された
『江戸時代 相撲名鑑』に拠れば、「天保四年 十九
歳」とあるが、その前年が真実と思える。しかし、
当時の力士志願者は現代と大きく異って、大抵素人
相撲集団に入っていた“相撲体験者”だったのであり、
数え18~19歳で入門は鳥渡若すぎる気がするのだ。
その点では文化六年の24歳での初土俵が真らしい。
ところが、文化六年生れ説の難点は現役急逝のとき
数え46歳となることだ。これが、文化十二年説ならば、
嘉永七(1854)年は数え40歳で穏当な線だろう。
生れと、同十二年生れとの両説があって、悩ましい
問題なのである。
先ず、平成元年刊『古今大相撲 力士事典』は
文化十二年説を採っていたのに、平成十三年刊
『大相撲人物大事典』が文化六年説に変った━どう
いう理由に基くのであろうか?
彼の初土俵は、『…人物…』と同じ年に出版された
『江戸時代 相撲名鑑』に拠れば、「天保四年 十九
歳」とあるが、その前年が真実と思える。しかし、
当時の力士志願者は現代と大きく異って、大抵素人
相撲集団に入っていた“相撲体験者”だったのであり、
数え18~19歳で入門は鳥渡若すぎる気がするのだ。
その点では文化六年の24歳での初土俵が真らしい。
ところが、文化六年生れ説の難点は現役急逝のとき
数え46歳となることだ。これが、文化十二年説ならば、
嘉永七(1854)年は数え40歳で穏当な線だろう。