不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

里山の話 21.11.16

2021-11-16 19:28:41 | 面白い本はないか
 今朝もいつものように城台山に登ってきた。

 紅葉と一心寺鐘撞き堂

 東屋の遙か向こうに切り刻まれた大垣市赤坂の山が見える

登りながら、一昨日書いたブログについて考えた。登山を日頃しない人、里山の近くに住んでいない人には少しわかりにくかったかもしれないと。そこで比較的馴染みのある里山について考えてみることにした。当たり前のことだが木は生きており、毎年成長する。庭木であれ、山の木であれ同じである。まして剪定しない山の木であれば確実に大きくなってくる。まず、おじさんの子どもの頃の話をしよう。城台山(当時我々は播隆山と呼んでいた。それは中腹の一心寺の正式名称は播隆院一心寺だからであり、播隆はあの有名な播隆上人からきている。)への道は尾根通しであり、その道は地面が露出し、そこには例外なく松が生えていた。松は地味のやせたところが好きで落ち葉などにより地味が肥えてくると生育が衰える。里山である城台山周辺は当時人の手がたくさん入っていた。薪(もっと古くは若葉を肥料がわりに使っていた)等を集めるため。人の手が一杯入っていた里山(収奪された)はどこでも歩くことができ、おじさんも含めて里山の近くの子どもたちにとって山は格好の遊び場所だった。

 城台山の今 子どもの頃のように自由に林内を歩くことはできない 数年前に県等の補助金により間伐が行われたが、元の状態に戻りつつある

 城台山から市街地 ここも伐採されたのだが

 その後燃料革命が起こり、安い石油などが入ってきた。かつての煮炊きや風呂焚きに使われていた薪は不要となったのである。人が入って収奪しなくなった里山はこうして木が繁茂し、整備された道以外には容易に入り込めなくなった。この状態を称して、「里山が荒れている」という人も出てくるが、それが日本の「自然」の本来の姿なのである。もう少し奥地の小津権現山に登ったときの経験を話してみよう。昭和59年(1984年)小津の神社からロボット雨量計を経て笹やシャクナゲを踏み越えながら山頂に達した。この時高屋山に至る道はほとんど笹の中の道であった。炭焼きの木に使うため伐採された結果、残されたのが笹だった。やがて、炭焼きによる収奪がなくなり、自然に広葉樹の森となったのである。

 2018年11月3日 小津権現山登山道

 太田猛彦「森林飽和ー国土の変貌を考える」から引用する。日本の森林は、4百年ぶりとも言える豊かな緑を取り戻している。日本の森が減り続けているというのは誤解で、世界有数の森林大国となっている。しかし、木材価格の低迷により国内林業は儲からなくなった。手入れの経費が捻出できなくなり、間伐遅れの人工林が増加し、形質の良い木材が生産できなくなるばかりか、樹冠が閉鎖して林内に光が入らず、下草(林床植生)が成長せず、地表が裸地化しやすくなる。表面浸食が容易に起こり、災害を起しやすくなった。また、里山には白樫、椎、低木のアオキなども成長し始め、暗い常緑広葉樹林に変わってくる。先に書いた様に松はかつての勢いを失い、竹林(孟宗竹は江戸時代に中国から移入)がはびこるようになった。

 城台山の森

 今年10月お墓が成長する木に征服される前に伐採が行われた 墓石を壊さないため、クレーン車も使われた

 前のブログで紹介した熊崎実「木のルネサンスー林業復興のきざし」を再び引用する。日本の森林ストックは(諸説あるようだが)60億立米で、ドイツの37億、スウェーデン、フランスの30億に比べて多く、しかも年平均成長が2億立米。ところが年間の伐倒量は0.4億立米で成長量の2割しか利用していない。我が町では木を燃料とするストーブの購入費の助成を行っているが、建築材も含めてその消費を拡大するのは難題のようである。木材の自給率(現在38%)を50%にするべくかなり強引に補助金を出して政府は増やそうとしている。しかし、この需給を無視した政策でさらに木の価格は低迷しているのである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 林道・なぜ植林地は荒廃して... | トップ | 山の贈り物2021 21.11.23 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

面白い本はないか」カテゴリの最新記事