イエスが地上に遣わされた時代のユダヤ人は、どうしてイエス・キリストを捕えて殺そうとしたのでしょうか。それはイエスが神から遣わせたことを説明したことと、多くの病気の人を即座に癒し、大勢の人に満ち足りる食事をさせ、神の王国の良い便りを宣明するため、イエスに信仰を働かす人が増えたためで、ユダヤ人の宗教指導者たちはねたみを抱き、自分たちの立場に固執し、神エホバの考えから遠く離れ、利己的な考えに陥っていたためでした。しかし、イエスを捕えることはまだできません。
エルサレムで幕屋の祭りがまだ行われている間に、ユダヤ人の宗教指導者たちは、イエスを殺そうとして捕えるために警務の下役たちを遣わしました。それでもイエスは隠れようとはしません。むしろ、「私は、自分を遣わした方(エホバ神)のもとに行くまで、もう少しの間あなた方と共にいます。あなた方は私を捜すようになりますが、私を見いだせないでしょう。そして、私のいる所に、あなた方は来ることはできません」と、言って、公然と教え続けられました。
ユダヤ人たちはイエスの説明の意味が理解できないので、互いに話し合っています。「この人(イエス)はどこへ行って、私たちが見つけられないようにするつもりなのだろう。ギリシャ人の中に離散しているユダヤ人たちの所に行って、ギリシャ人に教えるつもりではあるまい。「あなた方は私を捜すようになるが、私を見いだせないであろう。そして、私のいる所に、あなた方は来ることはできない」という、彼(イエス)の言葉は、どういう意味なのだろうか」。イエスの敵たちはイエスの行かれる天までは追って行くことは出来ないのです。
エルサレムの幕屋の祭りの七日目になりました。幕屋の祭りの間は毎朝、1人の祭司がシロアムの池から汲んだ水を注ぎだしました。その水はエルサレムの神殿の祭壇の基部に流れ落ちました。イエスは恐らく人々にこの日ごとの儀式を思い起こさせるためでしょう。声を大きくして話されました。「だれでも渇いている人がいるなら、私の所に来て飲みなさい。私に信仰を持つ者は、まさに聖書に記されている通り、「その内奥の所からの生きた水の流れが流れ出る」のです」と、イエスは説明されました。
実際イエスはここで、神エホバから聖霊が注ぎ出される時の壮大な結果について説明されていました。神エホバから聖霊がそのように注ぎ出されるのは、翌年のペンテコステの時です。120人のイエスの弟子たちが、人々に仕え始める時、生きた聖霊が水の流れのように流れ出ます。しかしその時まで、神エホバの聖霊で油注がれて天的な命に召されるイエス・キリストの弟子は誰もいない、という意味において、聖霊は注ぎ出されてはいないのです。
さて、イエスの話しを聴いている人たちはどのように反応するでしょうか。次回に引き続きお伝え致します。
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