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カイロの紫のバラ
1985
ウディ・アレン


いつも映画ばかり観ている映画好きの冴えない女と、映画のスクリーンから文字通り飛び出して来た俳優が恋に落ちるというお話。
とても素敵なお話、だけれどもそれだけではないアレン節。
映画という虚構に対する観客の認めたくない自分の人生への諦観を絶妙に描いています。
本人が映画監督であるアレン監督をして映画は虚構であるけれども、映画が自分の分身であるという背反した思いを描いているのではないでしょうか。


耐えきれないほどの退屈な日常をごまかすために映画を観て、その中に逃避していると、いつの間にかそれが現実なのか虚構なのかの区別が出来なくなってしまう・・・なんてことはありませんが、その着想を本当に映画の中でやってしまうことで、観る者にとても不思議な感覚を与えてきます。
多分、アレン監督作品が好きで良く観ているような方は、ある程度映画が好きで、その映画の中に何か特別なもの求めて観ているのではないでしょうか。それはただのカタルシスではなく、面倒なオッサンの話をわざわざ田舎まで聞きに行くような。

映画の中で起こる出来事やその中で提示される答えって、結局は虚構だったり理想で、けれどもそれがどんな残酷な話であっても、素敵なロマンスであっても、些細な出来事であっても、素晴らしく純化されていて言いたいことを端的に表すことが出来ています。出来てないのも山ほどありますが。
その表せているという感覚に出会うために映画を見ているのかもしれません。
ボキャブラリーの収集と言うことではなく、感覚として。

特に、私は口ベタなので、思ったことを瞬間的に思ったこと話すことが出来ません。間違ったことも沢山言っています。「あぁ、あんときああ言ってれば良かった」の連続。
けれども、脚本を書くときは「あぁ言っていれば良かった」ことを事前に言ってしまうのはつまらない。
難しいモノです。


アレン監督作品は「自分がこう言いたい」のカタマリで、説明くさすぎず、圧倒的な正解も見せない、けれども筋がちゃんと通っていて、一本見終わって初めて感覚として言っていることが分かるというもの。
映画を、観客との会話の結果として表現させることが出来るアレン監督、やっぱり凄いですね。

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