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現原の丘

2023-05-06 23:31:26 | 史跡・文化財
現原の丘(あらはらのおか)。
場所:茨城県行方市芹沢(「現原の丘」碑)。茨城県道50号線(水戸神栖線)「榎本」交差点から北西へ約1.7km、「現原の丘 五百m現地」という案内看板があるところを左折(南へ)、狭い道路を道なりに約650m。駐車スペースあり。
「常陸国風土記」行方郡の条によれば、「倭武天皇(日本武尊)は「玉清井」(2023年1月14日記事)から更に車駕(みこし)を廻らせて、現原の丘に至り、そこで食事を召し上がった。四方を見渡して、「山が入り組み、海が湾曲している様は、高低長短入り交り、くねくねとしていて美しい。この地を「行細国」(なめくわしくに)というがよい。」と仰った。これにより、後に「行方」(なめかた)というようになった。その丘は、高く立ち現れているところから、現原の丘と名付けられた。」(現代語訳。一部省略)という。この「現原の丘」がどこかについては諸説ある。遺物があるわけではないので何とも決めがたいところだが、「常陸国風土記」の記述ぶりから、いくつかの候補が挙げられている。最も有力とされているのが、行方市芹沢から若海にかけての、現・「玉造ゴルフ倶楽部 若海コース」のある辺りである。玉造町郷土文化研究会は、比定地の条件として、①古代行方郡内にあって、平らで広く開けた台地であること、②古代大益河(現・梶無川)に接していること(「常陸国風土記」には、日本武尊は現原の丘を下りて、梶無川を遡ったという記述がある。)、③展望が「常陸国風土記」の記述に似ていること等をあげて、当地付近を「現原の丘」と推定した(「玉造史叢第45集」)。このゴルフ場だけで広さ約80ヘクタールあるとのことで、どこで日本武尊が食事したかはわかるはずもないが、ゴルフ場のフェンス脇に石碑と説明板が建てられている。
一方、「玉造町の昔ばなし」などの著者・堤一郎氏は、当地(芹沢)からでは海(現・霞ケ浦)は見えない、として、「現原の丘」は現・行方市谷島の台地だろうとしている。ここは、霞ヶ浦に臨んだ高台で、玉造地区で最も高い場所だという。現在は、浄土宗「正念寺」や旧「玉造西小学校」に加えて住宅も多いので、やや狭く感じるが、それらを取り払ってみれば、それなりの広さがあるのだろう。確かに、ここからの霞ヶ浦の眺めは素晴らしかっただろうと思われる。また、この高台から東側に下りれば、すぐに梶無川がある。ただし、難を言えば、谷島は梶無川の右岸(西岸)に当たり、梶無川が茨城郡と行方郡の郡境である(「常陸国風土記」による。)ということからすれば、古代には茨城郡に属していたということになる。
蛇足:「和名類聚抄」(平安時代中期)によれば、常陸国行方郡に「荒原郷」があった。また、中世(鎌倉~室町時代)の古文書に「荒原郷」又は「荒原庄」という記載があるという。明治22年に捻木村・若海村・芹沢村・谷島村が合併して行方郡現原村が発足した(~昭和29年まで存続)。村名は古代の地名に因むというが、古代「荒原郷」の範囲と一致するかは不明である。


写真1:「現原の丘」碑と説明板


写真2:同上。碑の背後は農地、向かい側はゴルフ場。


写真3:浄土宗「得生山 宝池院 正念寺」(場所:茨城県行方市谷島201。国道355号線「玉造町浜」交差点から東の道路に入り、直ぐ左折(北東へ)、約400mで右折(南東へ)、約45mで参道入口。駐車場有り。)


写真4:「正念寺」の向かい側にある旧「玉造西小学校」(平成26年廃校)グラウンド。閉鎖されているので、フェンスの外から撮影。グラウンドの南側(写真の左手奥)が崖になっている。


写真5:旧「玉造西小学校」敷地の南東端から南を見る。霞ヶ浦と湖畔に立つ「虹の塔」が見える。
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