神が宿るところ

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小野小町遺跡(その1・小町堂)

2016-08-06 23:40:17 | 伝説の地
小町堂(こまちどう)。
場所:秋田県湯沢市小野小町48-17。国道13号線「小町塚前」交差点の西、約80m。駐車場有り。なお、JR奥羽本線「横堀」駅の北東、約1km(徒歩約15分)のところ。
小野小町は、平安時代前期(9世紀頃)の女流歌人で、(日本では)クレオパトラ、楊貴妃とともに世界3大美人と称したりする有名な美女とされる。「古今和歌集」(延喜5年:905年)などにその作品が採録されているにもかかわらず、系譜は曖昧で、美女といわれるが、同時代の絵や像は残っていないなど、不明なことが多く、架空説まであるらしい。その出生地、墓所も不詳で、全国各地に様々な伝承がある。その中で、「秋田美人」という印象とも相俟って、現・秋田県湯沢市小野に多くの伝承、遺跡とされるものがある。
伝承によれば、小野小町は、小野篁の息子で出羽国の郡司・小野良真の娘とされる。これは「尊卑分脈」という室町時代頃の系図集に記されているものだが、当地では、出羽国雄勝郡の郡司として赴任してきた小野良実(おののよしざね。「尊卑文脈」とは異なる。)が村長の娘に産ませた子ということになっている。生まれたのは大同4年(809年)、小野良実の屋敷があったとされる「福富荘桐木田」という場所であったという。そして、13歳になると、父・良実とともに京に上り、宮廷に仕えるが、36歳で当地に戻り、没したとされる。
さて、小野小町の祖父とされる小野篁といえば、夜ごと地獄に通い、閻魔大王の補佐をしていたという伝説があることで有名で、むしろオカルト愛好者のほうが知っている人も多かろう。しかし、若い頃には、陸奥守に任ぜられた父・小野岑守に従って陸奥国で暮らしたことがある。また、小野篁のいとこにあたる小野春風は、「元慶の乱」のとき鎮守府将軍に任ぜられ、乱を治めたとされる。春風も若い頃に辺境で暮らして、現地語(夷語)を話すことができ、これが乱を治めるのに大いに役立ったという。このように、小野氏の一族が陸奥国、出羽国に縁があることは確かだが、そもそも小野良真という人物は「尊卑文脈」以外の資料には名がないほか、小野篁も延暦2年(802年)生まれとされているから、小野小町の祖父というには年回りが合わない。こうしたことから、現・秋田県湯沢市小野は有力な出生地の候補ではあるが、確証はない。
しかし、秋田県では、県をあげて「小野小町のふるさと」をアピールしている。県産の米は「あきたこまち」だし、秋田新幹線は「こまち号」など、枚挙にいとまがない。こうしたイメージは決して最近のことではなく、古くから歌人などが訪れたりしており、江戸時代の紀行家・菅江真澄が当地に来た時にも、既に小野小町を祀る「小町堂」は建てられていたらしい。ただし、当時は田圃のなかにぽつんと建つ小さな堂で、傍らに芍薬(シャクヤク)が植えられて「小町塚」、「芍薬塚」などと呼ばれていたらしい。


道の駅「おがち 小野の郷」のHP


写真1:小野小町産湯の井戸とされる「桐木田の井戸」(場所:「小町塚前」交差点から東南に入り、最初の交差点を北東へ約200m。左手(西側)の田の中。駐車場なし)


写真2:同上。自然石を五角形に組んであり、これは平安時代に京都で流行したものという。


写真3:「姥子石(ばっこいし)」。小野小町の母は、小町を産むとすぐに亡くなってしまったといい、その墓所ともいう。木の下の石に梵字が彫られている。(場所:「桐木田の井戸」の道路を挟んだ向かい側(東側))


写真4:「小町堂」。神社とも仏堂とも判然としない建物で、華やかと言えば、そうかもしれないが、少しケバい。


写真5:「小町堂」前にある有名な歌碑(「花の色は うつりにけりないたつらに 我身世にふるながめせしまに」)


写真6:「二ツ森」。西側からみる。ひょうたん型の古墳のようにも見える。(場所:「道の駅おがち」農産物直売場の駐車場の北側)


写真7:同上。上ってみると、ひょうたん型がよくわかる。ただし、役内川の氾濫によってできた自然丘とも考えられ、古墳とは認められていないようだ。


写真8:同上。高い方が深草少将の墓所(低い方が小野小町の墓所)という伝承がある。なお、上り口に鳥居があるが、小野良実が祀ったとされる「二ツ森走り明神」の社祠があったという。
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