神が宿るところ

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泉神社(茨城県日立市)(常陸国式内社・その25)

2019-11-02 23:52:58 | 神社
泉神社(いずみじんじゃ)。
場所:茨城県日立市水木町2-22-1。国道245号線「大みか駅入口」交差点から北~北西へ約1km、「水木わかば幼稚園」近くの信号のある交差点を右折(西へ)(北西角に「泉神社入口」の案内柱がある。)、約140mで正面鳥居。駐車場は鳥居の横を通り過ぎたところにある。
社伝によれば、第10代崇神天皇49年(紀元前49年?)、久自国造・船瀬宿禰の奏請により、大臣・伊香色雄命(イカガシコオ)が勅命を奉じて当地に鎮祭したのが創建。上古、霊玉が当地に天降り、泉が湧き出したところから、その霊玉を神体とし、霊玉を神格化した天速玉姫命(アマノハヤタマヒメ)を祭神としたという。古くは「天速玉姫命神社」と称し、「延喜式神名帳」に登載された式内社とされる。また、「日本三代実録」の貞観8年(866年)条に「常陸国の正六位上天之速玉神に従五位下を授ける」、同じく貞観16年(874年)条に「常陸国の従五位下天之速玉神に従五位上を授ける」という記事が見え、神名に「姫」が欠けるが、これが当神社のことであるとされている。当地は奥州に向かう交通の要衝であることから、中世以降は武将の戦勝祈願などが盛んに行われたという。享禄3年(1530年)に佐竹氏第16代・佐竹義篤が社殿を修理し、社号を「泉大明神」に改めたとされ、明治に入り「泉神社」として郷社に列した。
因みに、崇神天皇は実在性が高いヤマト王権最初の天皇(大王)という説が強いが、その在世は3世紀後半頃と考えられているようである。また、「先代旧事本紀」の「国造本紀」によれば、第13代成務天皇の時代に物部氏の祖の伊香色雄命の3世孫の船瀬足尼(船瀬宿禰)が初代・久自国造に任命されたという記事があるらしいので、社伝からすれば(年代はともかく)、当神社は式内社「稲村神社」(2019年8月24日記事)と同じく物部氏が奉斎した神社ということになろう(「梵天山古墳」(2019年8月17日記事も参照)。
なお、「常陸国風土記」久慈郡の条には、「密筑(みつき)」の里に村人が「大井」という清らかな泉があり、夏の暑い時期には酒・肴を持ち寄って男女が集まり宴会を行う、というような記述がある。「密筑」は現・日立市水木町(みずきちょう)が遺称地であり、「大井」というのが当神社の泉であるという。風土記には当神社についての言及が無いが、他の地理的な記述も含め、まず妥当な推定だろう。こうしたことも、「天速玉姫命神社」と名乗っていないにも関わらず、当神社が式内社に比定される理由があるといえよう。


泉神社のHP


写真1:「泉神社」境内入口の鳥居と社号標(式内郷社 泉神社)。「茨城百景 泉ヶ森」の石碑も。


写真2:「御神木」。杉の樹に桜が根付いた宿り木で、推定樹齢450年というものだったが、昭和の初めに落雷の被害を受け枯死してしまったようだ。


写真3:社殿前の鳥居


写真4:社殿


写真5:「目洗いの泉」


写真6:「史跡 泉ヶ森」石碑


写真7:社殿横から少し下りたところにある泉。「厳島神社」(祭神:市杵島比売命、別名:弁財天)が祀られている。


写真8:泉からは今も盛んにきれいな水が湧き出している。この泉と、南に約7.5km(直線距離)離れている現・茨城県東海村の「阿漕ヶ浦」(池)とは底でつながっているという伝説があって、水戸藩第2代藩主・徳川光圀が「阿漕ヶ浦」に投げ込んだ木槌がこの泉に浮かび上がったという。


写真9:神社の北側にある「イトヨの里泉が森公園」


コメント
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