神が宿るところ

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尾羽廃寺跡

2011-07-19 23:02:12 | 史跡・文化財
尾羽廃寺跡(おばねはいじあと)。
場所:静岡市清水区尾羽。国道1号線の「尾羽」交差点の北側を中心とする地区。駐車場なし。
「尾羽廃寺跡」は、7世紀後半頃、いわゆる白鳳時代の寺院跡で、金堂や講堂の遺構が発見された。寺号が伝えられていないため、地名をとって「尾羽廃寺跡」と通称される。ただし、今、現地に行っても案内板も何もない。現在、尾羽公会堂が建っている辺りが金堂跡とされ、創建期の金堂の規模は東西18.6m、南北14.6mとされている。「創建期の・・・」というのは、平安時代に建て直された形跡があったからである。また、塔跡は未検出だが、石造の露盤が発見されている。露盤というのは、仏塔の相輪の基部にある方形の盤で、錘の役目をしたと思われる。発見された石造露盤(写真2)は、ほぼ正方形(100×97cm、厚さ30cm)で、中央に約38cmの孔が明けてあり、上面には傾斜が付けてある。現在は、「静岡市埋蔵文化財センター」に展示されている。
「尾羽廃寺」がどのような成り立ちの寺院であったかは不明だが、その位置から、廬原国造と何らかの関連があったことは当然想定される。即ち、「尾羽廃寺跡」から南に進むと、「若宮八幡宮」があり、更にその先に式内社「久佐奈岐神社」(通称「東久佐奈岐神社」。2010年9月28日記事)がある。これらは単に近くにあるというだけではなく、一本の道でつながっているようにみえる。また、付近に重要な古墳が多いのも特徴で、「三池平古墳」(2010年10月1日記事)のほか、「午王堂山古墳群」(東名高速道路「清水」IC付近)や「神明山古墳群」(国道1号線「庵原」交差点の東側、「神明宮」境内)などがある。したがって、廬原氏の氏寺であった可能性が高いが、古代東海道に面していたとすれば、旅行者を援助する「布施屋」を兼ねていたのかもしれない。
もともと駿河国は7世紀に珠流河国造と廬原国造の領域を合わせて立てられ、後に国府は安倍郡に置かれたが、かつては「廬原」が西駿河の中心であった時期が存在したと思われる。また、「廬原郡」が置かれたが、「廬原郡家」の所在地は不明である。おそらく、草ヶ谷、尾羽、横砂辺りのいずれかにあったと思われる。あるいは、草ヶ谷から横砂にかけて、式内社「久佐奈岐神社」、「廬原郡家」、「尾羽廃寺」(廬原氏の氏寺?)など(ひょっとしたら「息津」駅家も)の官衙関連施設が建ち並んでいたかもしれない。
ところで、「尾羽廃寺」の石造露盤が展示されている「静岡市埋蔵文化財センター」(写真3)だが、ここは元は明治の元老、井上馨公爵の別荘「長者荘」本館があった場所である。「長者荘」というのは、更にその昔(中世)には、ここに「浄見長者」(「清見長者」、「横砂長者」ともいう。)の屋敷があったため、そう呼ばれたものである。「浄見長者」は廬原国造家の流れを汲む庵原氏という豪族で、後に今川氏傘下に入り、今川氏の滅亡により一族離散したとされる。しかし、盛時の権勢は大したものだったらしい。横砂の東の縁を流れる波多打川の西側に、かつて米糠山(こぬかやま)という小さな山があったという(今はない。)が、この小山は長者屋敷が毎日捨てる米糠が積もり積もってできたのだという伝説がある。つまり、その頃から、長者は精米された白米を大量に消費していたということであり、その贅沢な暮らしぶりが窺われる。

参考文献:「尾羽廃寺跡の研究」大川敬夫(2008年1月)


静岡市埋蔵文化財センター(場所:静岡市清水区横砂東町33-2、駐車場あり)。
静岡市のHPから(静岡市埋蔵文化財センター)


写真1:国道1号線「尾羽」交差点付近(奥が北側)。国道を越えて南側まで寺域があったとされる。交差点から北に狭い道を少し入ったところに金堂の遺構等が発掘された。


写真2:石造露盤


写真3:静岡市埋蔵文化財センター。元の「長者荘」は敷地が約5万坪あったという。
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