伝備中国府跡(でん びっちゅうこくふあと)。
場所:総社市金井戸。国道180号線「国分寺口」交差点の東、約500m。服部変電所の前に「備中国府遺祉」の石碑(写真上)がある。その向かい側(北)の道に入ると、「御所宮」の石碑(写真中)がある。いずれも駐車場なし。
備前国府の場所についてはまだ確定されておらず、異説も多いことは、このブログでも以前に採り上げた。備中国府の場所も確定されてはいないので、あくまでも「伝」なのだが、どうやら上記の場所にあったらしい。その周辺に関連史跡も多いので、備前国との比較の上でも面白いので、見に行った。
「御所宮」は、その名からも、ここに国司の御殿があった跡と思われる。ちなみに、この一画は現在も国有地らしい。こうした伝承や、付近に北国府・南国府などといった地名があることが有力証拠らしく、発掘調査などの結果ではないが、他にはそれらしい場所もないようだ。なお、「御所宮」付近は国府(方6町と推定される。)の東端とみられ、南に国道180号線が走っているが、更にその南側にある「前川」という川は賀陽郡と都宇郡・窪屋郡との郡境となっていたらしい。
さて、「備中国府遺祉」の石碑から、国道180号線を少し東に進むと、JR吉備線「服部」駅方面への狭い道路がある(県道192号線:服部停車場線)。その道路沿いに「総社市埋蔵文化財学習の館」があり、その向かい側の奥(とても狭い道の先)に「賀陽山門満寺」という浄土宗の寺があった(平成17年に廃寺)。もとは白鳳時代創建の寺院があったとされ、それが賀陽氏の氏寺であったらしい(地名を取って「栢寺(かやでら)廃寺跡」という。)。門満寺としても、門や五重石塔などしか、寺院らしいものはあまり残っていないが、その五重石塔の台石は「栢寺廃寺」の塔心礎石であったとみられている。
賀陽氏は、加夜氏・香屋氏などとも書き、朝鮮の「伽耶」と関係があるとされたり、大吉備津彦命を祖とする上道氏からの分流であるとされることもあるが、もともと土着の豪族で、ヤマト王権に忠実であったために勢力を伸ばし、備前から備中に進出した、という説が有力になりつつあるようだ。いずれにせよ、「吉備津神社」(備中吉備津宮)の社家として、その権威を背景に強大な権力を持っていたらしい。
もともと「国造」は地方の有力豪族が任命されたので、その豪族の氏寺が国府の近くにあるのがむしろ当然であるようだ。備前国府の所在地には諸説あるが、賞田廃寺跡や幡多廃寺跡などが上道氏の氏寺と推定されるならば、その近くに備前国府があったというのも、相当の理由があるということになるだろう。
写真上:国道180号線沿いにある「備中国府遺祉」の石碑。
写真中:「御所宮」の石碑。この敷地内に「伝備中国府跡」の説明板も設置されている。
写真下:門満寺五重石塔。その台石は塔心礎石であったらしい。なお、石塔の向こうに見える木立のところが「御所宮」。
場所:総社市金井戸。国道180号線「国分寺口」交差点の東、約500m。服部変電所の前に「備中国府遺祉」の石碑(写真上)がある。その向かい側(北)の道に入ると、「御所宮」の石碑(写真中)がある。いずれも駐車場なし。
備前国府の場所についてはまだ確定されておらず、異説も多いことは、このブログでも以前に採り上げた。備中国府の場所も確定されてはいないので、あくまでも「伝」なのだが、どうやら上記の場所にあったらしい。その周辺に関連史跡も多いので、備前国との比較の上でも面白いので、見に行った。
「御所宮」は、その名からも、ここに国司の御殿があった跡と思われる。ちなみに、この一画は現在も国有地らしい。こうした伝承や、付近に北国府・南国府などといった地名があることが有力証拠らしく、発掘調査などの結果ではないが、他にはそれらしい場所もないようだ。なお、「御所宮」付近は国府(方6町と推定される。)の東端とみられ、南に国道180号線が走っているが、更にその南側にある「前川」という川は賀陽郡と都宇郡・窪屋郡との郡境となっていたらしい。
さて、「備中国府遺祉」の石碑から、国道180号線を少し東に進むと、JR吉備線「服部」駅方面への狭い道路がある(県道192号線:服部停車場線)。その道路沿いに「総社市埋蔵文化財学習の館」があり、その向かい側の奥(とても狭い道の先)に「賀陽山門満寺」という浄土宗の寺があった(平成17年に廃寺)。もとは白鳳時代創建の寺院があったとされ、それが賀陽氏の氏寺であったらしい(地名を取って「栢寺(かやでら)廃寺跡」という。)。門満寺としても、門や五重石塔などしか、寺院らしいものはあまり残っていないが、その五重石塔の台石は「栢寺廃寺」の塔心礎石であったとみられている。
賀陽氏は、加夜氏・香屋氏などとも書き、朝鮮の「伽耶」と関係があるとされたり、大吉備津彦命を祖とする上道氏からの分流であるとされることもあるが、もともと土着の豪族で、ヤマト王権に忠実であったために勢力を伸ばし、備前から備中に進出した、という説が有力になりつつあるようだ。いずれにせよ、「吉備津神社」(備中吉備津宮)の社家として、その権威を背景に強大な権力を持っていたらしい。
もともと「国造」は地方の有力豪族が任命されたので、その豪族の氏寺が国府の近くにあるのがむしろ当然であるようだ。備前国府の所在地には諸説あるが、賞田廃寺跡や幡多廃寺跡などが上道氏の氏寺と推定されるならば、その近くに備前国府があったというのも、相当の理由があるということになるだろう。
写真上:国道180号線沿いにある「備中国府遺祉」の石碑。
写真中:「御所宮」の石碑。この敷地内に「伝備中国府跡」の説明板も設置されている。
写真下:門満寺五重石塔。その台石は塔心礎石であったらしい。なお、石塔の向こうに見える木立のところが「御所宮」。
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