
左から DECCA のクナ指揮『パルジファル』全曲 (1951)、『神々の黄昏』全曲 (1951)。
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「1948年 キングズウェイ・ホールでのフルヴェン指揮ロイヤル・フィルのブラ1録音に参加するが、デッカのマイク配置にフルヴェンが異議を唱え、変更された結果 見事な演奏が、”散漫で泥のような音質” のディスクに変わった」のを目 (ま) のあたりにします。
御大はマイク配置などの技術には疎かったはずですが、誰も逆らわず 元へ戻そうと主張しないから、結果は使い物にならないディスクになる、門外漢が口を出す悪例の見本ですね。 EMI のレッグ (P) だったら、御大の顔も立て なおかつエンジニアの立場も確保できたのかも … でも有名アーチストとエンジニアが対立したら、強い立場は決まってます。
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23歳のカルショーがドイツ各地で現代イギリス音楽について講演旅行した折、「ミュンヒンガー指揮のシュトゥットガルト室内管弦楽団の演奏会を聴き、プロデューサーのオロフに電報で契約を促したが 不守備に終わった」
「49年 ミュンヘンでショルティの指揮する『薔薇の騎士』を聴いて、幕間に会った。 その前にも会ったらしいが、いつだったのか双方とも思い出せない。 50年には 同じくミュンヘンでショルティの『ワルキューレ』を聴いた」
1951年 (27歳) の戦後初のバイロイト音楽祭録音にも参加し、EMI と共に実況録音に奔走します __ クナッパーツブッシュ指揮の『パルジファル』全曲・『神々の黄昏』全曲、ほか EMI のカラヤン指揮『マイスタージンガー』全曲・『ワルキューレ』第3幕・フルヴェン指揮の第九が録音されます。
直後にアムステルダムでコンセルトヘボウ管と仕事しますが、その時期は彼らの絶頂期で、53年に楽団が自主運営に移ると下降したと記述しています。
「53~55年 (29~31歳) 米キャピトルがヨーロッパでクラシック録音を開始するに当たり、年棒5千ドルでキャピトルに転職、数枚の LP を制作しますが、録音設備が劣っていた」
しかし EMI がキャピトルを買収し、同時期 カルショーはデッカのトップから戻るよう懇願され、55年 31歳でデッカに復帰し、その頃からモノラル録音と同時並行して別部屋で秘密裏にステレオ録音を始めます (58年に完全にステレオ録音に切り替わるまで このような滑稽な “秘密録音” が行われました)。
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「56年 (32歳) にウィーンでの録音を仕切っていたプロデューサーのヴィクター・オロフが辞任し、その跡を継いだ。 最初の仕事がシューリヒト指揮 VPO の『未完成』ですが、76歳の彼は老衰していて、テンポが11ものテイク (録音の事) で全て異なっていた」
仕事量が増えたカルショーは、エリック・スミスを雇います。 (ドイツの指揮者) イッセルシュテットの息子でしたが、英国で成長したので英独語が完璧だったと。 スミスは後年 フィリップスに移籍し、モーツァルト全集をプロデュースしました。
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デッカの内情話しで面白いのは、「最悪なのは年度末の1~3月で、予算不足の時は 中止できそうなものが中止され、できないものは翌年度に回し、予算が余ると 売れそうもない “怪しげなレコード” が作られた。 なぜなら余剰分は税金に取られるから。 当時のクラシック録音予算は 25万ポンド」というクダリで、 “怪しげなレコード” って何だったのか ちょっと知りたくなりますね。
続く