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シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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カルショーがプロデューサーになった経緯は?

2024年11月26日 | 音楽関係の本を読んで
左から ベイヌム指揮バルトーク『管弦楽のための協奏曲』、アンセルメ指揮『シェエラザード』(どちらもモノラル盤)、『ジョン・カルショーの名録音』
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暫くぶりで 再びカルショー著『レコードはまっすぐに』(500ページ超 自伝も含む) を借りて読んでいます。 以前のブログで書き残した部分に言及します。

最初の数章の数十ページが英 DECCA 社に入社するまでの自伝です。 1924年生まれのカルショーは「父が勤務していた銀行に 大戦中の40~42年 (16~18歳) 勤め、そこで大きな組織内で目をつけられた疑惑行員 (?) の扱われる様を知る」が、これが後年の仕事ぶりに活きたのだろうと推理します。
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「42~46年 (18~22歳) 英海軍に入隊、航法士となり イングランド南やベルギー沿岸でドイツ軍の小型艇を飛行監視・爆撃し、戦後は昇進して 海軍のレーダー講師を勤めた」

「小さい頃からピアノのレッスンも受けていたが、16歳頃からレコードや演奏会で本格的にプロの演奏を聴き込むようになると 自分の演奏に不満を感じるようになった」__ 要するに 自分はとても “プロになれそうもない” と悟ったのでしょう。

「除隊後の46年 (22歳) 元の銀行は眼中になく、音楽評論の仕事を探している途中 怪しい雑誌起業家に採用されかけ、友人の紹介でデッカ社の宣伝部に週5ポンドの給与で入社するが、給与が低すぎて苦労した」とあります。 47年 プロデューサーたちを擁する音楽家部に片足を突っ込み、ヨーロッパ大陸への録音拡大に伴い 正式に異動します。

「47年には 83歳の R. シュトラウスが英国へ来て指揮した演奏会を聴き、衰弱した老人からとは思えない 力強さと繊細な演奏を生み出す姿に接した」__ 楽団名は書いてありません。 英国の楽団だったのでしょう。 彼は2年後に亡くなります。
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「48年 米 CBS が LP レコードを発表、デッカは49年 (25歳) に LP 生産を始める。 当初 デッカにはテープ録音機がなかったため、既存の SP を繋げて再生し、LP のワックス盤に刻み込んで LP を作った。 (プロデューサーが) 楽譜を手に SP 盤の最後の30秒をカウントダウンし、「落とせ!」と叫ぶとエンジニアが再生音をフェイドアウト、もう一人のエンジニアが次の SP 盤に針を置く … 誤差があればやり直す」

「しかも事故に備え 全ての LP を2回ずつ刻むという “原始的なダビング作業” を、朝9時から夜11時まで 49年の6~7月の約1ヶ月間やった」__ 若いから出来たんですね。 並の社員だったら 音を上げて「やってらんねー!」と怒って退職するか、上層部にねじ込むところだったと想像します。 でも ここで銀行勤務時代の経験が活きたのでしょうね。
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私事ですが 私が所属していた職場でも 新任上司が無理難題の課題を次々に部下に押し付けるものですから、多くの同僚が不満たらたらで愚痴っていた時代があります。 殆どの同僚は不満ながらも、上司の要求になんとか合わせていたものですが、秋田弁の混じる ある後輩は口癖で「やってらんねー!」と大声で (半ばフザケて) 不満を表明していましたね。

それ以外の会話は、秋田弁でよく解らない事が多かったのですが __ そのうち その後輩は不人気製品の担当に異動になり、いつの間にか退職していました。
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カルショーは上記の「ダビング作業のせいで 曲を “堪能しすぎ” て、今なお 『オケコン』や『シェエラザード』(冒頭のジャケ) を聴くのに喜びを感じない」そうです (聴きすぎた?)。 以後はテープ録音機が来て 余裕ができたとも。

この時期は苦難の時代でもあったのですね。

続く

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