シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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訪問のお礼

2008年12月17日 | 政治家 政治屋?
写真は、靴を投げつけられるブッシュ大統領と押さえつけられた記者。 地図は、ベルリン封鎖時の空輸状況と、アメリカ国立公文書館の計画書による日本の分割統治計画案。
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イラク訪問のお礼が靴とはねぇ、大統領も身にしみたことでしょう。 ともあれ 投げつけられたのが爆弾でなくてよかったですね。
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「"かわすのはうまい" と自賛=ご難の米大統領」(時事通信/ワシントン 12月15日) _ 14日、電撃的に訪問したイラク首都バグダッドでの記者会見の最中、イラク人テレビ記者に靴を投げ付けられたブッシュ米大統領は事件後、同行記者団を前に「わたしは身をかわすのが結構うまい。 君たちの質問に対しての話だが」とジョークを飛ばす余裕を見せた (※追加1へ続く)。
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「米大統領に靴投げ付ける 『犬野郎』とイラク人記者」(共同通信/カイロ 12月15日) _ ブッシュ米大統領は14日、イラクの首都バグダッドを予告なしに訪問した。 マリキ首相と臨んだ記者会見で、イラク人記者が「犬野郎」などと叫びながら靴を投げ付けた。 大統領は危うくかわしたが、来月の退任を控え任期中最後とみられる訪問で、イラク人の根強い反米感情を見せつけられた形となった。

イラク政府や駐留米軍高官との会談後、イラクの治安改善や、イラク側が先に正式承認した米軍地位協定の成果を誇示するため記者会見に臨んだ大統領に対し、記者席の前から3番目の列にいた男性記者が突然立ち上がり、2足の靴を1つずつ投げ付け、大統領は身をすくめてこれをかわした。
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「ブッシュ大統領、靴投げつけられる」(TBS/JNN 12月15日) _ 前略_記者は、その場にいた警備員や他の記者らに取り押さえられ、会見場から連れ出されました。

当のブッシュ大統領は、騒然とする周囲に落ち着くよう呼びかけ、「今の靴のサイズは10 (センチ) だったよ」などとジョークを口にしたということです_後略。
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「ブッシュ大統領、イラクを電撃訪問」(産経新聞/ワシントン 12月14日) _ 米メディアによると、ブッシュ米大統領は14日、イラクを電撃的に訪問し、マリキ首相らイラク首脳と会談した。 任期満了まで1カ月あまりとなる中、ブッシュ大統領にとり最後のイラク訪問となる (※追加2へ続く)。
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「ブッシュ大統領、イラク戦争誤情報が「最大の痛恨事」(毎日新聞/ワシントン 12月3日) _「最大の痛恨事は、イラクに関する情報の誤りだった」。 ブッシュ米大統領は1日放映の米ABCテレビの番組で、大統領としての8年間を振り返った。 03年3月のイラク開戦に踏み切る理由となった大量破壊兵器が存在しなかったことを悔やんだ (※追加3へ続く)。
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「戦争のつめ跡:5年後のイラク/6 傷ついた米の威信」(毎日新聞/ワシントン 3月21日) _◇感謝一転、渦巻く反感
「『イラクを解放するためにきた』と繰り返した米軍に、だまされたと思っている」(※追加4へ続く)
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第2次大戦終了後、米軍はドイツや日本に占領軍として残りました。 戦勝国の米英仏ソの4カ国がドイツ全土と首都ベルリンを分担して占領、統治しました。

1948~49年、ソ連は東西ベルリンの陸路を遮断 物流を停止させますが、米英軍を中心とした西側はは西ベルリン市民に生活物資を24時間体制で3分に1回の過密状態で連日空輸し、ソ連の封鎖を中止させました。

また1961年、東ドイツは西ベルリンを取り囲むように壁を築きました。 63年、西ベルリンを訪問したケネディ米大統領は有名な「"Ich bin ein Berliner" 私はベルリン市民である」の演説を行い、大統領は「すべての自由な人間は、どこに住んでいようと、ベルリンの市民である」と語り、これはドイツの戦後史での名セリフとなりました。
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当初は連合国諸国による日本の分割統治計画がありましたが (北海道・東北を分割して占領させよとのソ連の要求を米国が断り)、全土を米軍を中心とする連合国が統治しました。

米軍人と米民間人で構成されていた日本占領軍の当初の目標は、世界の脅威となる日本の軍事力を解体することであり、日本を工業国から農業小国に転換しようとしましたが、冷戦の兆しが見えてからは、工業の早期回復による経済的自立を求めました。

また、1950年 朝鮮戦争勃発によって連合国軍の一部が朝鮮半島に移ると、日本国内の軍事的空白を埋める為、日本の再軍備を行いました。 そして主権を回復させて自力で防衛させることとなり、サンフランシスコ講和会議で日本国と連合国との平和条約調印を経て、52年 日本は主権回復し、連合国軍の占領が終わりました。
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イラク戦争でフセイン政権を倒した後、統治する米軍の振舞いがイラク国民をどう扱ったか、それは「戦争のつめ跡」記事を読めば、想像できることです。

なぜ、独日国民に接したように米軍がイラク国民に接することができなかったのか、それは米軍と米国内部で大いに検証する必要があるでしょうね。 

ただ、米軍の占領政策が成功したのは、独日だけで、他は全て失敗しているというジョークもあるくらいですから、失敗しているケースが多いようです。 ヴェトナム戦争がいい例で、軍事的には大爆撃で成功したかのように見えましたが、ゲリラ戦では敗退し、ヴェトナム国民の心を掴むこともできず、結局 北ヴェトナムに追い出されてしまいました。

91年のソ連崩壊後、唯一の超大国となった米国ですが、その後 湾岸戦争~ IT バブル~アフガニスタン侵攻~住宅バブル~イラク戦争 と戦争とバブルを繰り返し、米国は超大国にふさわしい行動をとってきたのでしょうか?

その総括がこの「靴投げ」事件に表されているといったら、それは米国民にとっては面白くないことに違いありませんが、靴を投げつけられた初めての米大統領として、歴史に残るかも。

これからも「靴投げ」や或いは「卵・トマト・パイ投げ」があるかも知れませんから、将来の米大統領は身をかわす訓練も必要となるでしょう。

以上


※追加1_ イラク人記者は会見場で、「犬め」などと叫びながら、ブッシュ大統領目掛けて靴を矢継ぎ早に投げ付けたが、大統領は敏しょうな動きで次々に飛来する靴をかわした。 同行記者は「速い身のこなしでしたね」と絶賛。 大統領は「むしろ君たちがびっくりして心臓発作を起こすのではないかと心配したよ」などと応じた。
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※追加2_ ブッシュ大統領は、イラク首脳との会談で、2011年までの部隊駐留などを定めた米軍の地位協定の成立を評価。 また、治安回復や復興支援など、ブッシュ政権の政策に対するイラク指導部の協力に謝意を伝えたもようだ。

また、首都バグダッド到着後には、米国のクロッカー大使、イラク駐留多国籍軍のオディエルノ司令官とも会談した。 CNNテレビなどによると、クリスマスを控え、現地の米軍将兵とも面会した。
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※追加3_ 大統領は当時、連邦議会議員や世界中の指導者の多くが「同じ情報を得ていた」とする一方、「私も戦争への心構えができていなかった」と反省の弁を述べた。 ただ、イラクに大量破壊兵器がないと事前に分かっていても、開戦したかと問われると「やり直しのきかないこと。 推測は難しい」と明言を避けた。

世界経済を混乱させた米国発の金融危機には「申し訳ない」と語るなど、大統領は神妙な発言を連発。 大統領選についても「私のことが原因でオバマ次期大統領に投票した人もいるだろう」と認め、オバマ氏に「私にできることがあれば、言ってほしい」とメッセージを送った。
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※追加4_ バグダッドが陥落した03年4月9日。 市中心部のフィルドス広場で、米兵が倒したフセイン像を靴でたたき、米兵と抱き合って喜んだカリーム・ヌアマンさん (29) は、この5年の心の変化を話し始めた。
 
その日、ヌアマンさんは広場近くのアパートで、家族と米軍の動静を刻一刻と伝える衛星テレビに見入っていた。早く米軍に解放してもらいたいと。 昼ごろ、米軍戦車が近づいているのがバルコニーからも見えた。 戦車が広場を取り囲み、多くのイラク人も集まり始めた。 父は「危ないからやめろ」と制止したが、ヌアマンさんも家を飛び出た。

米軍通訳が「あなたたちはフセイン政権からついに解放された」と繰り返す。 米兵は身ぶり手ぶりで、フセイン像を一緒に引き倒そうと呼びかけていた。 米兵とイラク人が握手し、抱き合う。 ヌアマンさんも像に駆け寄り何度も靴でたたいた。 友人のハイダリさん (27) も一緒だった。 米軍に感謝する気持ちでいっぱいだった。

しかし、半年もしないうちにその気持ちが冷め、不信が芽生えた。 米軍は旧フセイン政権を支えたバース党幹部やテロリストの捜索を名目に、夜中でも家に踏み込み、テロとは何の関係のない人間も拘束した。 友人のハイダリさんは間違って連行され、そのまま1年間、収容者虐待事件が相次いだアブグレイブ刑務所で過ごした。 ハイダリさんは釈放後、「米軍が駐留している間は絶対にイラクには戻らない」と言い残し、レバノンに去った。
 
「あまりにもイラク人への接し方を知らない」「イラク人の心をつかもうという気持ちがない」。 バグダッドでは米兵への不満が渦巻き、圧政からの「解放者」として尊敬する声はない。
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80年代後半に旧フセイン政権が化学兵器で攻撃、18万人が虐殺されたイラク北部のクルド地域。 イラク戦争中、クルド人民兵は、米軍部隊に参加するなど親米色が強い地域だ。
 
「5年前は本当にうれしかった。 また虐殺が繰り返されるのではと、ずっと恐れてきた」。 会社員のサダル・アブドルラフマン・ムハンマドさん (25) の言葉が代表的なクルド人の意見だ。
 
だが、昨秋、トルコからの分離独立を掲げるトルコのクルド系武装組織「クルド労働者党 (PKK)」が、イラクのクルド地域に潜伏しているとして、トルコ軍が国境を越え侵攻して以来、微妙な変化が起き始めている。
 
公務員のアザド・ヘイニさん (50) は「トルコの侵攻は、米国の許可がなければできなかったはずだ」と指摘する。
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戦争後、米国の対外イメージはイラク国内だけでなく、周辺の中東諸国でも著しく悪化した。 アブグレイブ刑務所やグアンタナモ米軍基地 (キューバ) での非人道的な扱いは、同盟国の間にも米国への不信を増幅させ、求心力の低下を招いた。
 
国際社会での信頼失墜は、対テロ戦争の遂行にも重大な影響が出る。 ブッシュ大統領は、外交路線を単独行動主義から国際協調へと転換させた2期目、腹心のカレン・ヒューズ氏を国務次官 (広報担当) に抜てきするなど、広報外交に力を入れた。 だが、目立った改善は見られずヒューズ氏は昨年、辞任。 イラク戦争で傷ついた威信回復への道筋は見えていない。

以上

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